幕間:戦後処理と司馬昭
洛陽にて太傅司馬孚は、諸葛誕の乱鎮圧の報を聞く。
首都洛陽は、此度の争乱に対し皇帝親征の形を取った為、陳泰を筆頭に文官たちも出征していて随分と寂しい。
司馬孚の他には、司空の職にある荀顗が洛陽に在り、仕事終わりに両者は語り合った。
「大将軍(司馬昭)は、勝ちに乗じて呉に攻め入らんとしたようですな」
荀顗が話を振る。
「左様。
だが、鎮東将軍(王基)が止めてくれた」
「聞き入れてくれた大将軍も立派です。
寿春を落としたとはいえ、長江を渡り呉を攻める支度は出来ていませんからな」
「それに、蜀がまた動いた」
蜀の景耀元年(238年)、一度芒水から補給の得易い地点まで陣を下げていた姜維は、諸葛誕がまだ籠城を続けていると知り、再び渭水の畔まで侵攻して来た。
やはり鄧艾、司馬望は守りに徹して戦わない。
長江経由の情報は時差があり、二月下旬になって寿春陥落の報を聞くと、姜維は今度こそ全軍を漢中に引き上げた。
そして、何も得ていないにも関わらず、後将軍から大将軍に復職したという。
長江と言えば、陸抗・陸凱は荊州に戻り、魏の侵攻に備えている。
呉では外戚・全一族の声望が地に堕ちた。
荊州江陵を守る呉の驃騎将軍・施績は、全一族の全煕を斬って、当地の士気を高めたという。
呉に残る全氏は、裏切り者と見られ、肩身の狭い思いをしているそうだ。
逆に、最後まで戦って捕虜となった唐咨は、最初こそ無様と笑う者在れど、司馬昭が赦し、安東将軍として取り立てると、魏のみならず呉の人々も司馬昭の徳を讃えたという。
司馬昭は、全氏や唐咨が率いていた呉兵一万以上を捕虜としたが、
「用兵は、敵国の民を傷つけずに屈服させるのを最上とし、その指導者を処罰するに留めるものだ。
呉の兵が例え逃げ帰ったとしても、天下の広い度量を示す良い機会だ」
と言って一人も殺さず、河南・河東・河内の郡に安住させる処置をする。
呉でもこうした措置に心動かされ、魏に降った者たちの家族を処罰しなかったという。
「大将軍も自信を付けて、いよいよ天下の器になって来ましたな」
褒める荀顗に対し、司馬孚は苦言を呈す。
今回、皇帝親征の形を取った。
しかし、戦が済んで諸将は司馬昭の陣に挨拶に来るも、皇帝と郭太后が居る頂城には誰も来ない。
「我等は魏の臣、陛下を蔑ろに為さるは、些か心得違いをして居る者が多いようじゃ」
「はあ……」
荀顗からしたら、今更何を言っているのだ?という苦言だが、相手は司馬一門の長老、肯定も否定もし辛い故に、曖昧な返答をしてこの場を切り抜けた。
やがて皇帝も司馬昭も洛陽に戻って来る。
その時、権力も権威も名声も、全てに於いて司馬昭が皇帝を上回るだろう。
その時この老人はどう思うだろうか?
荀顗は、司馬一門に在りながら魏の一臣下で在り続けようとする司馬孚を眺め、そして杯を煽った。




