終盤戦
呉皇帝孫亮の岳父、太常・衛将軍全尚は、全氏一族惣領だった全琮とは、祖父や曽祖父の代で分かれた分家である。
全公主こと孫魯班が、全尚の娘を大層気に入っていた為、その娘を弟である皇帝と娶せてから全氏内での勢力図が変わった。
全琮長男の全緒が諸葛誕の乱が起こる前に死んでいて、一方全尚の一族が侍郎や騎都尉等の地位に多数着いた。
そして諸葛誕の乱勃発で、本家筋の全氏は出征し、多くは寿春で籠城している。
そんな折、全尚系と全琮系が争う事態が起こった。
呉の太平二年(257年)十一月、全氏内で所領を巡る訴訟問題が生じた。
皇帝は舅の系統に有利な採決を下す。
頼みの全公主も、妹殺害やその後の讒言で弱みを握られ、皇帝に異議を申し出られない。
もっとも、孫魯班は全緒らが産まれた後に孫権の命で全琮に嫁いだもので、彼女の子は全懌と全呉、身分の低い他の夫人が産んだ他の子や孫は大して可愛がってはいなかった。
不満を持った全緒の子の全緯・全儀は建業を抜け出して、魏に亡命する。
そして戦況が変化する。
九月一日に孫綝が朱異を処刑した事で、呉軍の士気は地を這った。
精鋭を失った事もあり、呉軍はもう仕掛けて来ないかもしれない。
呉から蜀に連絡がされたのか、蜀の姜維軍も呉の停滞に歩調を合わせるように、十月には撤退を開始した。
前回と違い、ほとんど戦闘をしていない為、姜維軍の余力は十分にあるし、全軍では無く半数程を漢中まで引き上げさせるやり方。
半数ずつに兵力を分けて交代制とするのは、諸葛亮時代にもあったやり方である。
故に司馬望、鄧艾は追撃をせず、残った蜀軍を前に引き続き陣地戦をしていた。
(これでは足りない)
大戦を望んでいた司馬昭、賈充、鍾会は焦った。
呉にも蜀にも、もっと戦って、国力を消耗して貰わないと。
司馬昭は、勝ちを確信した王基や石苞から上申された寿春攻撃許可を却下し、自軍がもっと弱いように擬装したりして、呉の再侵攻を誘う。
釣られた諸葛誕は、決戦近しと見て兵糧を大盤振る舞いして士気高揚を図る。
だが司馬昭にとっても諸葛誕にとっても残念な事に、呉軍は動かず、孫綝も鑊里の総司令部を引き払い、建業に入ってしまった。
打開策を考えねば……という時期に、全緯・全儀兄弟が母親を連れて亡命して来たのだ。
鍾会は策を思いつく。
「全緯・全儀兄弟を使い、寿春の全氏一族を投降させましょう」
賈充はこれに対し
「それでは呉の国力を使い果たさせるという目的が果たせない。
寿春が落ちたら、呉はもう攻めては来るまい」
と言う。
「確かに国力は残りますが、それに拘っていても意味は有りますまい。
出て来ないのですから。
そこで全氏を離反させ、呉の国内に不和の種を撒く方が効果的かと」
外戚である全氏が魏に亡命したとなれば、全氏の権威失墜は免れない。
既に呉を支えていた「四姓」の朱氏、顧氏、張氏は支離滅裂となった。
この上、全氏までもとなると、呉を支える豪族たちは離反はせずとも、皇室孫家から距離を置くようになるだろう。
経済を潰す以上に、呉においては深刻な問題となる、鍾会はそう考えた。
賈充はそれを聞いて頭の中で計算し、司馬昭に向かって
「黄門侍郎(鍾会)殿の策でよろしいかと思います」
と持論を撤回して推薦した。
司馬昭は肯き、鍾会の計略が実行される。
寿春城内の全静に、兄弟からの書状が届く。
曰く
『呉は寿春救援が失敗し続けている事で、救援軍の将に責任を押し付けて来た。
我々全氏一族も、家族を誅滅されようとしている。
故に我々は母上を連れて魏に逃げて来た。
兄弟よ、共に魏に降ろう。
呉に戻っても処刑が待っているだけだ』
全静はその書状を一族の将に見せる。
寿春派遣軍における全氏の長者は全端と全懌である。
孫権存命中から活動していた彼等から見ても、書状には説得力が有った。
処罰されるのは本家筋の全琮系で、遠征軍に全尚系が居ない以上、孫綝と全尚が組んで全氏本家を壊滅させるのは有り得る事だ。
十二月、呉に不信感を持った全氏は、寿春城を出て魏に降伏する。
魏では彼等全員に爵位を与え、礼遇した。
寿春城内に衝撃が走る。
諸葛誕の部下、蒋班と焦彝は
「全氏の投降に、将兵が動揺しています。
呉からの援軍も、もう来ないでしょう。
この上は、まだ戦意が有る者で決死隊を作り、打って出るが上策かと存じます」
と献策した。
これに激怒したのが文欽である。
「呉の孫綝は儂に必ず大軍を率いて駆け付けると約束した。
其の方たちは儂の言葉が信じられぬか!」
諸葛誕も
「司馬昭撃滅の策を授けたのは儂だ。
呉はただ大軍を動かせば良い。
我等が先に挫けては、策が台無しとなる」
と呉軍来援に縋っている。
蒋班は重ねて献策するが、文欽は更に激怒し、彼を殺そうとする。
不仲な筈の諸葛誕は、司馬昭や賈充の思惑に反し、まだ文欽と協力し合っていた。
その為、蒋班誅殺に上官の諸葛誕も一枚絡んでいる。
「もう諸葛将軍の下では働けないな」
蒋班は焦彝と語らって、城壁を乗り越えて寿春から脱走、包囲陣に駆け込んで投降した。
寿春の士気は更に下がる。
年が明けて魏の甘露三年、呉の太平三年(238年)一月、諸葛誕らは、どうも蒋班の進言は正しかったと気づく。
呉の来援が無い、その希望が潰えた辺りから諸葛誕と文欽の元々の不和が再燃し始めた。
とりあえず包囲陣を切り崩してからにしろと言う唐咨の提案で、攻城兵器である衝車を作り、三将は南方の砦に攻撃を仕掛けた。
「呉の軍が車箱で攻めて来た際、発石車を急遽用意したが、また役に立つとはな……」
守備する王基がそう呟く。
王基と陳騫の砦からは巨石が発射され、諸葛誕・文欽・唐咨の攻城兵器を打ち砕く。
砦から一兵も出ない戦いに、文鴦も武勇の振るいどころなく撤退。
城に戻ると文欽が
「魏の兵は解散しろ。
儂が連れて来た呉の兵だけで戦う。
それなら兵糧はもつ」
と言い出した。
つまり、諸葛誕十三万の兵を解散し、文欽・唐咨の三万だけで籠城すると言うのだ。
「ふざけるな!
此処は儂が預かった城じゃ!」
「元は毌丘倹将軍の城だったろ!」
今迄、兵糧の使い過ぎだ、指揮の権限だ、物資の分配だで揉めていた両将だが、兵力の解散に触れられて諸葛誕は殺意を抱いた。
そして暴言は何時も事の文欽は、大して気にしなかった。
一月中旬、諸葛誕軍十三万が、文欽の宿営地に夜襲を掛ける。
文欽は何が起きたのか、理解する前に斬られて死んだ。
文鴦と文虎は
「憎きは諸葛誕、今討ち取ってやろうぞ!」
と逆に諸葛誕軍に切り入ったが、多勢に無勢、やがて押し返されると、城壁を乗り越えて脱出して行った。
「愚か者奴が。
魏より呉に降った者が、魏の陣に駆け込んで許される訳があるまい。
己たちは儂でなく司馬昭によって殺されるが良いわ」
そう嘯いていた諸葛誕だったが、一月下旬になり、文鴦と文虎が兵を率いて寿春城前に現れた時は息を呑んだ。
文鴦・文虎のみでなく、全端・全懌ら全一族も将として魏軍に居る。
「寿春の者よ!
呉より逃げた我々のみならず、
魏より呉に降った文将軍の子息も赦された。
司馬大将軍の徳に縋り、降るが良い!」
その言葉に城兵は、
(あの文欽の子でさえ許されるのなら、
我々等罪は軽いものだ)
と心を弱くする。
一方で諸葛誕は、包囲陣の一角に見たくない旗を見る。
司馬昭の将旗である。
敵の総司令官が前線に出て来た。
つまり、最終局面だという事だ。
月が変わり二月、ついに総攻撃が開始される。
先鋒を任された文鴦は、あっさりと城門を破る。
城兵たちは門が破られると、裸になり飢えた裸体を晒して降伏を申し出た。
諸葛誕は手勢を率いて、司馬昭本陣目掛けて突撃する。
万に一つ勝てるなら、司馬昭を討ち取るしか無い。
だが、やはり多数の例と同じ結果に終わる。
司馬昭本陣は強く、諸葛誕軍は衰えていた。
諸葛誕は、司馬昭の部将・胡奮率いる部隊によって討ち取られる。
諸葛誕に従う数百の兵は
「諸葛将軍の為に死ぬなら本望」
と降伏を拒否し、死んでいった。
唐咨は城内で戦うも、敗れ、捕虜となる。
三国で総勢七十万弱の兵力を動員した大戦は、九ヶ月余で結着した。
蜀は得る物無しの浪費で、
呉は内部抗争で二家の豪族を壊滅させて、
魏は司馬昭の権威が高まる形で。




