風紀乱れる呉の宮中
孫権は二宮事件を解決する際、一族の孫峻という男に相談をした。
孫峻、字は子遠、董卓討伐の折りに名を馳せた皇族孫一族の祖にあたる孫堅(字は文台)の弟の孫静の子孫にあたる。
彼の悪女・孫魯班の甥にあたる。
呉の赤烏十三年(250年)当時三十一歳であり、思い切りが良い性格であった。
であればこそ、孫権の「問題は根源ごと全て破却」という方針に同意したのだろう。
赤烏十四年(251年)、呉の皇帝孫権は死の床に就いた。
この時、廃太子孫和は無実の罪であった事に思い当たり、彼を呼び寄せようとする。
しかし孫峻は孫弘や全公主(孫魯班)と共にそれを阻止する。
己は孫権の意思に同意して策を立てたのだが、それでも太子廃立の罪を着せられる可能性に思い当たったのだ。
こうして孫権は悲運の子・孫和に会えないまま没する。
この頃から孫峻は、全琮未亡人で叔母の全公主(孫魯班)と近づき始める。
呉の悪女は孫魯班だけでは無かった。
新帝孫亮の母・潘淑もまた悪女と言って良い。
子が皇太子、そして皇后になるにあたり、彼女は孫権の死の直前皇后に冊立された。
すると本性を現す。
多くの後宮の女性たちに嫉妬し、讒言し始めた。
さらに孫権の死が近づくと、先に廃太子との和解を防いだ孫権最末期の側近の一人、孫弘に人を派遣して、こう聞いた。
「呂后は漢高祖(劉邦)の死後、如何にして垂簾政治を行うや?」
よく知られた話である。
漢高祖皇后の呂雉は、自身の子である二代目恵文帝の世から影響力を強めていた。
政治においては劉邦遺臣の蕭何や曹参存命中は口出ししなかったものの、裏では劉邦寵姫の戚夫人を迫害し、その子の趙王劉如意を暗殺した。
恵文帝が母の所業に気落ちして早世した後は、王陵・周勃・陳平らに優越し、幼帝を前面に立てた後見人としての政治をした。
元号が無い時代だった為、史家はこの時期を呂后二年というように、呂后こそを天下人扱いしている。
呂后仕事、呂氏時代は劉邦遺臣の逆襲により終結したが、要はこの「史記」の逸話を孫権最末期の寵姫である潘淑という若い女性も知っていたという事だ。
もしかしたら呉にとっての敵国・魏において、明帝崩御直前に皇后となった郭太后が、有力者司馬氏の後ろ盾となって敬われている話も聞いたかもしれない。
潘淑は正式に皇后となり、未だ八歳の皇太子の生母である。
郭太后に留まらず、呂后となれよう。
潘淑の父は刑死しており、潘淑姉妹は奴婢に落とされた過去がある。
それだけに権力に対する執着と、それを隠さぬ浅ましさが有ったのかもしれない。
だが、このような乗っ取り工作を他の廷臣が、自己の利権もあって許す筈が無い。
潘皇后は睡眠中、宮人や宮女たちによって縊殺され、急病で死んだことにされた。
「陛下の看病の疲れから皇后陛下は亡くなられた。
陛下と同じ陵に合葬する事とする」
この件では潘皇后に与せず、呉の宮廷を守った孫弘だが、彼には彼で気に食わない事がある。
孫峻が、自身と不仲である諸葛恪を補佐役として抜擢し、皇帝の太傅とした事だ。
孫弘は孫権が危篤である内に、政敵と成り得る朱拠に、詔書を捏造して追手を派遣して自死させた。
そして同様に諸葛恪をも排除しようとしたが、孫峻がそれを諸葛恪に知らせ、逆に諸葛恪に討たれてしまう。
その諸葛恪も、合肥新城の戦いに敗北して以降、自身の地位を守ろうと、高圧的、強権的になっていた。
孫峻は、孫堅の弟・孫静の曾孫でしかなく、その程度の遠い皇族で、しかも三十代の若造では皇帝後見人にして重みが無かった。
そこで最近同情されている廃太子の派閥で、かつ天才として名声高かった諸葛恪と組んだのだが、その諸葛恪が司馬師を破るどころか、張特等という無名の将に敗れて名声は地に堕ちた。
さらに、この時長沙に流されていた廃太子の孫和を、自らの影響力がある荊州武昌に迎え入れるべく宮殿を建てているとも言われていた。
孫和の夫人は、諸葛恪の姉の子であり、名声が地に堕ちた諸葛恪が廃太子を荊州において皇帝に立て、幼帝を廃して一発逆転を図る可能性がある。
孫峻は思い切りの良い性格である。
そして、その思い切りの良さと裏腹に、臆病で名声に弱い側面がある。
未だ十代前半の皇帝に働きかけ、その許可を得ると、孫峻は諸葛恪とその弟の諸葛融の一族を、先手を打って皆殺しとした。
(もう一人の弟・諸葛喬は、蜀の諸葛亮の養子となっていたが、早世し、その子は蜀に居た)
更に孫峻は、廃太子孫和も死に追いやった。
諸葛恪による復権運動の噂が、その口実とされた。
しかし、孫峻は諸葛氏と違い、皇族の孫和の子息たちまでは殺せず、その系統を残してしまう。
この孫和の長男を孫皓と言う。
諸葛恪を殺し、名声も無い孫峻は、強力な後ろ盾を欲した。
それは、自身が嫁いだ全氏を隆盛させたい孫魯班の思惑と一致する。
皇帝孫亮に、全一族の全尚の娘を皇后として出し、孫権の長女として皇室孫家と外戚全家両方の長となった孫魯班。
皇帝孫亮の岳父全尚夫人の弟でもある孫峻。
この二人はやがて、公然と密通し出した。
密通を公然とはおかしな話だが、当時既に周囲は知っていたと言う。
孫峻、孫魯班ともに孫亮の皇后が全尚の娘である事が命綱である。
そこで孫峻は、孫亮の寵愛が他の女性に移らぬよう、孫魯班の手引きで後宮に入り、女性たちを犯しまくった。
情夫に他の女を大量に当てがうというのも、権力志向での同盟に過ぎないという事を考えないと、理解し難い感覚であろう。
こうして諸葛恪と変わらぬ強権政治と、全公主と密通して宮廷に根を張る孫峻は、極めて評判が悪かった。
孫峻に対する反発が起こる。
桓廬らは、宣太子(一番最初の皇太子だった孫登)の子・孫英を立てた孫峻排斥行動を起こしたが、孫峻によって先手を打たれ、潰された。
孫英は何も知らなかったが、孫峻によって殺される。
孫峻の評判は更に堕ちた。
翌、呉の五鳳二年(255年)、魏において毌丘倹・文欽の乱が起こる。
鎮圧に魏の大将軍・司馬師が直接出て来たと言う。
評判の悪さを気にしていた孫峻は、この内乱に介入し、魏の司馬師に一泡吹かせる事で、己の評価を高めようとした。
されど孫峻は軍を指揮した経験が無い。
軍事的な才能も疑わしい。
当然、軍事の専門家が孫峻を補佐する事になるが、二宮事件と諸葛恪粛清は、呉に甚大な被害をもたらしていた。
陸遜が憤死、諸葛瑾は病死し、諸葛恪は孫峻が族滅させた。
全琮も死し、孫権の子も孫登・孫和・孫覇が死んでいた。
「呉の四姓」と呼ばれた陸・顧・朱・張という四名族は壊滅し、辛うじて陸遜の子の陸抗が忠誠を誓ってくれているだけである。
孫権時代からの将軍としては、丁奉が生き残っているが、他の大半は鬼籍に入っている。
改めて呉軍の弱体化を知った孫峻は、無駄に軍議を重ねて時間を費やした挙げ句、毌丘倹・文欽の本拠地寿春を火事場泥棒で奪うという方針に決した。
しかしそれも発動が遅かった為、魏の諸葛誕が先に寿春を抑え、諸葛誕軍の攻撃により呉軍は損害を被るという結末に終わった。
こうして名声を高めるどころか、成す事無く逃げ帰った孫峻に、再び殺害計画が動き出す。
それも失敗するが、この時に孫魯班は一人の女性を殺害する。
暗殺未遂事件に連座した劉簒の妻で、本名を孫魯育、孫魯班の実妹である。
元々「呉の四姓」朱拠の妻となっていたが、朱拠も孫魯育も二宮事件では皇太子派で孫魯班と対立し、朱拠死後に孫魯育は劉簒に嫁いでいた。
「丞相(孫峻)様、朱公主(孫魯育)もまた、貴方様の暗殺に関わっているようで御座いますよ」
孫魯班は孫峻に妹を誣告し、殺させた。
こうして悪女は、弟二人、妹一人の死に関わりながら、いまだ宮中に君臨している。
一方の孫峻は、情婦たる叔母に比べて弱かった。
彼は軍事的な失敗から、兵士や将からも嫌われている。
呂拠(孫権時代の将軍呂範の子)に命じて、魏の徐州・青州を攻撃させようとし、その陣を視察した際、余りにも隙の無い陣容に彼は恐れを抱いた。
(この軍勢に俺は殺されるのでは無いか?)
そして孫峻は、心臓が止まるような感覚を覚える。
心因性の不整脈であっただろう。
彼は気分が悪いと言って引き返した。
その晩、彼は悪夢を見る。
「己のような才無き者に殺された我が身の無念よ」
殴られた感覚とその声に、思わず立ち竦む孫峻。
「其方は諸葛元遜(諸葛恪)!」
かつて族滅させた筈の男が、甲冑を纏い枕元に立っている。
「司馬師と戦おう等と、非才な己には不相応な所業よ」
そう言いながら孫峻を蹴りつける。
「我を殺した事は呉の損失よ。
己は魏を利したのよ、この賊が!」
更に拳を孫峻の顔面に見舞う。
「己の行いを悔いるが良い!
陸丞相や皇太子殿下、それに魯王も待っておるぞ」
最後の一撃が心臓に入れられた。
孫峻はその直後、目を覚まし、召使を呼んで衣服を改めようとしたが、直後に倒れた。
数日、どうにか生き続けたが、快復する事無く死亡する。
彼の後は、偏将軍である従弟の孫綝が遺言によって継いだ。
孫綝が軍権を握る事に反対した呂拠を逆に倒し、さらに自分に反発する一族や政敵を殺害した。
呉は更に弱体化した。
こうして呉の太平二年(257年)、魏の甘露二年、蜀の延熙二十年を迎える。




