二宮事件
呉の孫権の娘に、全公主と呼ばれている女性がいる。
本名は孫魯班、字は大虎、母親は歩皇后である。
最初は孫権の兄・孫策と盟友であり、孫権の大都督であった周瑜の息子・周循に嫁いだのだが、周循の死後は、これもまた呉の名将・全琮に嫁いだ。
全琮は蜀の関羽、魏の曹休を破った経歴を持つ。
彼女がこのまま全琮夫人のままで終わっていたなら、彼女に「悪女」の汚名が付かなかったであろう。
そして女性にも関わらず、名や字が後世に残る事も……。
歩皇后が呉の赤烏元年(238年)に死亡する。
生前歩夫人は中宮と呼ばれていた為、正式には死後に「皇后」号を贈られた。
歩皇后は嫉妬をしない性質で、皆から慕われていたが、娘の孫魯班は違った。
歩皇后の次に孫権に寵愛された王夫人に対し、敵意を剝き出しにし、父に
「あの女を皇后にしないように」
と訴え続けていた。
呉の赤烏四年(241年)五月、事態が一変する。
孫権の皇太子・孫登が病死する。
孫登もまた礼儀正しく、穏やかな性質で、生前の歩中宮への礼儀を欠かさず、また父の寵愛する弟の孫和との関係も良好であった。
孫登は死に臨んで、孫和を皇太子とするよう孫権に進言する。
こうして孫和が皇太子となったのだが、面白くないのが孫魯班であった。
何故なら、孫和の母親は自分が忌み嫌う王夫人だったからである。
果たして呉の宮中に
「皇太子の母親を皇后に立てましょう」
という声が出始めた。
孫権は皇后を立てる意志がなく、王夫人の皇后冊立はされなかったが、孫魯班は気が気で無かった。
彼女は王夫人のみならず、皇太子・孫和をも破滅させようと目論む。
孫権は度々息子への寵愛を変えていた。
この時の寵愛は、孫和の下の弟・孫覇に移っていた。
孫覇は魯王に任じられ、皇太子と同じ宮殿に住まう事を許される。
だがこれに批判があり、孫権は孫覇を別の宮殿に移し、皇太子との扱いに比べ格差をつけた。
孫覇はこれまで対等であった兄との扱いの差に不満を感じ、孫和と孫覇の関係は悪化する。
孫魯班は、孫覇に近づく。
夫の全琮は、亡き皇太子孫登(宣太子)が遺書に
「国の支えとなる人物を重用するように」
として名を挙げられた一人であったが、彼女は宣太子の遺志に反し、夫や母の一族である歩騭らを孫覇派に鞍替えさせる。
全琮も、妻の派閥工作に乗って孫覇派になったのではなかった。
宣太子死亡時に行われていた魏との戦争、芍陂の役において、恩賞を巡って張休・顧承と全一族は対立していた。
この張休・顧承が皇太子孫和派である為、全一族は孫覇派となる。
(※この芍陂の役と並行して蜀の蒋琬による水路よりの魏侵攻作戦が計画されていた)
皇太子派、魯王派の対立は、「呉の四姓」の一つ、顧一族の顧雍が丞相である内は冷戦状態に留まっていた。
顧雍は丞相として瑕瑾が無い。
施政も公平で自らの感情に左右される事ない。
蜀がもたらした莫大な銭も、この顧雍が居る内は制御が効いていた。
汚職に走るものや、奢侈になる官吏を、顧雍は己の一族であっても罰した。
その顧雍が呉の赤烏四年(243年)に没する。
孫権は次の丞相に、名将・陸遜を指名した。
だが陸遜は荊州に兵馬を率いて駐屯している。
呉都・建業は丞相不在の状態となってしまった。
そして銭の禍の歯止め無き呉の政界で、多数派工作が始まる。
全琮は、次男の全奇を孫覇の家臣とさせる。
これを知った陸遜は手紙を送って全琮を諫めたが、これによってかえって全琮は陸遜を恨む事になる。
皇太子派には陸遜、顧譚(顧雍の孫)、朱拠がいる。
これは「呉の四姓」と呼ばれる呉郡呉県出の名族の者である。
(呉の四姓」の内、張温の張氏はこの時期既に失脚していた)
これに諸葛氏、張氏(呉県の張氏ではなく、孫権の補佐役張昭の一族)という主流派が皇太子派として名を連ねていた。
魯王派はそれに対し、呉郡銭唐県の全氏はともかく、歩騭・呂岱・楊竺は徐州の出で戦乱を逃れて江東に避難した者、呂拠の父・呂範は豫州の出で戦乱を避けて逃げた寿春で孫策と出会って彼に仕えた者、呉安は一時袁術に仕えていた呉景の子であり、主流派とは言い難かった。
それだけに魯王派の工作は露骨なものとなる。
伝わる陰湿なものとして、孫魯班による讒言が有った。
ある時、孫権が病床に臥した。
皇太子の孫和は皇帝名代として祭祀の事を行っている。
その時、孫和は途中で妻の一族である張休の邸宅を訪れた
……と伝え聞いた。
孫魯班は病床の父に対し
「太子殿は宗廟に籠らず、専ら謀議を練っている模様」
と上申した。
病で正常な判断から遠くなっている孫権は怒る。
さらに孫魯班は追い打ちをかける。
「王夫人もまた、陛下(孫権)が病になって嬉しそうにしておりますわよ」
と囁く。
これで激怒した孫権の事を伝え聞いた王夫人は、憂いのあまり死亡した。
魯王派は、これで孫和廃太子、孫覇立嫡を果たそうと動く。
これを荊州に居た丞相・陸遜が制した。
「嫡子と庶子の区別をつけるのは国家にとって重要な事である」
「魯王(孫覇)は都から遠ざけ、荊州夏口の都督とした方が良い」
「魯王側近の楊竺は性格が悪いから、中央より排除すべきである」
そして自ら建業に赴いて孫権を説得しようとする。
それは果たせなかった。
楊竺は、自らを遠ざけるべきとした陸遜に多大な恨みを抱き、
「丞相に罪状あり」
として二十箇条の罪状告発を発した。
判断力の低下している孫権に、魯王派は畳みかける。
全琮・全奇父子は、顧譚・顧承・姚信という顧雍の一族で、陸遜の甥たちを讒言し、流罪とした。
孫権はそれを良しとし、さらに皇太子太傅の吾粲や朱拠を死に追いやり、張休も追放した。
そして孫権は陸遜に対しても譴責の書状を何度も送りつけた。
ついに呉の赤烏八年(245年)、建国の功臣・陸遜は任地の荊州武昌にて憤死する。
「呉の四姓」と呼ばれた名族たちの最有力人物が死んだのだ。
非主流派豪族たちの勝利である。
翌、呉の赤烏九年(246年)、全琮が右大司馬、歩騭が丞相となる。
だが、呉の赤烏十年(247年)、全琮、歩騭が相次いで死亡し、魯王派もまた主要人物を失ってしまった。
未だ孫和は皇太子のままであり、孫覇の立太子は成っていない。
その上、病気から既に快復している孫権は、二年前の所業を後悔し、今では孫覇ではなく末子の孫亮(赤烏六年生まれの当時四歳)を寵愛し出した。
判断力を取り戻した孫権は、陸遜の子・陸抗による父の無罪の証明を受け容れている。
そして陸遜を讒言した魯王派の楊竺は処刑された。
主要人物の居ない皇太子派・魯王派の抗争は、ただ国内を混乱させるだけだった。
呉の赤烏十三年(250年)自分の責任なのに、いい加減にうんざりした孫権は、この対立抗争を解決する。
「問題を起こした二人の倅が居なくなれば良いのだ!」
かくして皇太子孫和は廃立され、幽閉された。
一方、魯王孫覇は死を命じられた。
孫和廃太子に反対した屈晃と朱拠は棒叩き百丈の刑の処せられ、郷里に帰らされたり、死を命じられたりした。
魯王派でも、孫覇派のうち積極的な工作を行った全寄、呉安、孫奇らを悉く誅殺する。
また、既に死んでいる楊竺は死骸を掘り起こされ、長江に棄てられた。
事件を起こした者を根こそぎ殺して、孫亮の為の禍根を断ったかに見える孫権だが、ここで一つ甘さを見せてしまう。
娘の孫魯班を見逃したのだ。
孫魯班は強かである。
既に魯王派もいずれ壊滅する事を見越してしまった。
彼女は、孫亮の母親・潘夫人に近づく。
夫・全琮の同族、全尚の娘を孫亮に嫁がせて欲しいと、潘夫人を通じて孫権に働きかけた。
孫権が強権発動する赤烏十三年より前の事である。
かくして呉の悪女は、二宮事件の発端を作りながら、事件後も勢力を持ったまま生き延びたのであった。
全琮の死は赤烏十年説と赤烏十二年説がありますが、魯王派が停滞した事から赤烏十年の方にしました。




