司馬師と何晏
「あの老人が引退を申し出たよ」
曹爽は自分の帷幕の中で、側近たちに語る。
曹爽の祖父・曹邵は曹操の同年代の一族だったが、早くに死んだ。
その子曹真を曹操は引き取り、従子として実子たちと共に育てた。
曹真は曹操の子の文帝曹丕、曹操の孫の明帝曹叡によく仕えた。
曹爽は曹叡が太子時代からの近侍で、曹叡の信頼も篤い。
しかし、不思議な事に曹爽の側近は曹叡が嫌った者たちばかりであった。
何晏・夏侯玄・李勝・鄧颺・諸葛誕・丁謐らは、先帝曹叡は「軽薄である」として一斉に免官した事があった。
曹爽によって彼等は復権し、側近として邸宅に出入りしている。
この中で夏侯玄は、征西将軍・都督雍涼二州諸軍事として雍州に駐屯している為、この場にいなかった。
曹爽の側近には他に賈充、荀勗、魯芝、楊綜と言った者もいる。
彼等は司馬懿を嫌ってはいないが、派閥の為に忠告をする。
「彼の御老体は食えぬ人ゆえ、用心なさった方が良い」
「左様、あの老人には彼の諸葛亮すら勝てなかったのだから」
曹爽の父、曹真は蜀の諸葛亮とよく戦った。
撃退した事もあるが、多くは諸葛亮に翻弄され、気苦労から早逝した。
その諸葛亮を、司馬懿という男は持久戦に持ち込んで撃退している。
曹爽は父を上回る軍才を持つ司馬懿を敬い、同時に畏れていた。
そして超えたいと思っていた。
それ故に曹爽は蜀に対し、魏からの攻撃を仕掛けたのだが、地形の急峻なのと、蜀の将・王平の奮戦で撃退される。
司馬懿はこの遠征は失敗すると反対したが、一方で司馬昭も曹爽派の征西将軍・夏侯玄の副将として参戦する等、両者は致命的な対立に至っていない。
曹爽に対し、司馬懿を退け、彼よりも優越するよう言っているのは、専ら彼の側近たちである。
特に何晏という男は、司馬懿を異常な程に嫌っている。
彼は後漢末に大将軍であった何進の孫である。
何進は屠殺業を営んでいたとされるが、妹が後漢皇帝霊帝の側室となり、運命が変わった。
何進は後漢末に国を悩ました宦官の禍において、有力宦官「十常侍」との対抗を求められたが、肝心の皇后となった妹が宦官の助けなく朝廷に君臨出来ず、妹経由で様々な情報が宦官たちに漏れて先手を打たれ、宮中で暗殺された。
何進の仇を討って頭角を現したのが袁紹、その袁紹を倒して中原を制圧したのが曹操である。
曹操は「英雄色を好む」その通りの人物である。
何晏の生母・尹氏は曹操の側室とされた。
その為、曹操の妾の連れ子・何晏もまた曹操の子たちと共に育てられる。
曹爽の父・曹真と何晏は似たような境遇だったのだ。
そんな貴公子・何晏が何故司馬懿を嫌うのか、理屈では説明つかない。
人間的に合わないだけかもしれなかった。
何晏は病的に司馬懿のみを嫌い、その嫡男の司馬師や、弟の司馬孚には好意を寄せている。
司馬師に対し
「ただ司馬子元だけが、天下の務めを果たす事が出来る」
と高い評価をしている。
故に、司馬師が司馬懿引退後も皇帝の近衛兵の指揮を執る中護軍に留まっていても、何も文句を言わない。
同様に司馬孚の尚書令についても問題視していない。
尚書令は皇帝への上奏文を取り仕切る部署である。
司馬一族悉くを恐れるなら、このような地位にいる司馬孚をも追放させた筈だ。
しかし何晏は司馬孚には好意を抱いている。
経書に精通し、かつては曹植に仕え、文才にも秀でる司馬孚は、軍才だけの兄の司馬懿と違い、話したくなるような人物であった。
何晏は特に司馬師と親しく付き合い、やがて酒席で様々な事を打ち明け始めた。
「吾は文皇帝(曹丕)、先帝を好ましく思っておらん。
帝たちも吾を嫌っていたから、お互い様じゃ。
武皇帝(曹操)様の時代が懐かしい……」
曹操は何晏という、派手で我が儘な貴公子をも愛した。
その才を。
曹操は娘を何晏に娶せ、さらに儒学や老荘について学ばせた。
その成果が何晏編纂の「論語集解」「老子道徳論」である。
この天才に対し、曹丕や曹叡は一顧だにせず、冷遇し続けた。
「曹冏という、皇族としては箸にも棒にも掛からぬような者が居ってな……」
何晏は語る。
曹操の義祖父である曹騰、その兄に曹褒という者がいた。
曹冏はその曹褒の曾孫にあたる。
「奴は曹一族を藩塀(国家を守る壁)として登用せよ、等と申して来おった。
皇族を政治や軍事から遠避ける今のやり方は間違っておるとな。
ふん、下心が見え透いておるわ。
己の、たかが地方太守にしかなれぬ境遇を脱しようというのだろう」
「武皇帝(曹操)は『才、唯是を挙げよ』と仰られてましたな」
「流石は貴兄だ!
吾の言いたい事を分かっておいでだ。
ただ皇族であるだけの曹一族に何の価値が有るか?
曹一族でも才ある者は重職に居られたではないか」
(一理ある)
司馬師は黙って頷く。
「才と言うなら、何故詩人として名声高い亡き思王(曹植)殿下を登用しなかった?
結局は己の好みで登用していただけでは無かったか?」
「確かにそのようですな」
全てを肯定されたと思い、何晏の舌が滑らかになる。
「武皇帝(曹操)様の世は真に明るいものだった。
文学も芸術も、新しい世界が見られるものと期待していた。
しかし、文皇帝(曹丕)も先帝(曹叡)も、まるでなっていない……」
司馬師は少し踏み込んでみる事にした。
「それは金銭の使い方にも現れていましょうや?」
何晏は一瞬黙り、やや警戒したようだ。
「何故、そのように思われる?」
「かの諸葛亮の侵攻が止まった中、先帝陛下は宮殿を造る等しかなさらなかった。
今は、かの建安の世の如く、儒や老荘についての議論が盛んとなり、世は活発になっています。
某のような者でも分かるのです。
武皇帝(曹操)陛下は、文化にも金を使われた。
自らも文化を愛された、されど……」
「そこらにしなされ、誰が聞いているか知れませんぞ」
何晏は機嫌良く、司馬師を止める。
そういう事が判るから、何晏は司馬師が好きなのだ。
司馬師は一時、名声にも関わらず無官だった時期がある。
眼病の為の休養であったのだが、何晏らはそう解釈していない。
先帝が自分たちを免官した理由と同じに考えていた。
実際、司馬師の妻(故人)は夏侯玄の妹で、司馬師は自分たち寄りの「名士の子」である。
「吾の望む世は、武皇帝(曹操)様の建安の世なのだ。
詩人たちが才を示し、美味い酒を飲み、音楽にも碁にも新種の気風に満ちていたあの時代。
今の陛下にも、もっと金遣いが上手くなっていただきたい。
戦に等金をかけず、文や学問の為に金をかける事は、世を素晴らしくするものと吾は思うておる」
実際、後にこの時期は「正始之風」と呼ばれる玄学清談の学風が起こり、「竹林の七賢」の先駆けとして何晏や王弼らがその名を挙げられる。
哲学や思想史から見て、決して何晏らは無能ではないし、後世に名を残す人物であったのだ。
成る程、曹操は莫大な資産を持った商人の道楽息子、朝廷を牛耳った大物宦官の養孫で、戦にも建築にも酒造にも、これと思うものに思い切って金を遣っていた。
若き日、それを傍近くで見ていた何晏にしたら、曹丕や曹叡という皇帝は物足りなく感じるのだろう。
だが司馬師はそれを以て何晏の味方となるべく近づいているのではない。
彼は言葉や息遣いから、何となく感じるものが有った。
(何晏には先帝陛下に対する逆恨みというか、殺意のようなものが感じられる。
近侍として先帝に仕えた曹爽では無いな。
おそらく、先帝に何かをしたならば、この何晏であろう)
そのように思っている事をおくびにも出さず、司馬師は何晏らとしばしば会って、国の将来や文化について語り合った。




