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毌丘倹・文欽の乱

 先年、腰斬の刑で死した夏侯玄は、賄賂について甘い以外は立派な人物であった。

 現在の魏の権力者である司馬師との姻戚関係の他、毌丘倹や諸葛誕とも交友を持っていた。

 夏侯玄は司馬懿は批判していたが、司馬師とは元々仲が良かった。

 だが、いざ失脚してみると、同世代の司馬師ではなく、旧世代の司馬懿を信頼したという。


 司馬懿が死んだ後、夏侯玄の友人の許允は「これで助かった」と安心する。

 しかし夏侯玄は首を振り

「貴公の見通しの利かなさや、極めて危うし。

 太傅殿(司馬懿)は此度やこれまでの事が有ったにも関わらず、私を以前から付き合いの有る夏侯家の後輩として遇してくれている。

 されどその子たち、子元(司馬師)や子上(司馬昭)が私たちに対し遠慮すると思うや?」


 そして夏侯玄は、彼を慕う李豊の謀反に連座して、妹婿であった司馬師に殺される。

 この夏侯玄と付き合いのあった東方の二武将、毌丘倹と諸葛誕にも衝撃が走る。

 舅である諸葛誕に対しては、司馬伷が「関わりなし」と安心させていた。

 だが、毌丘倹に対しては慰撫を任された賈充は、逆に不安を煽る。

 不安に駆られた毌丘倹は、任地の近い文欽と接触するようになる。


 そして曹芳が皇帝を廃され、司馬氏の専横を許せないという郭太后からの密書が届く。

 これによれば、挙兵をすれば夏侯一族の他、魏国内の反司馬氏勢力が一斉に、郭太后を担いで挙兵すると言う。

 勝機を見出した毌丘倹と文欽は挙兵に及んだ。

 魏の正元二年(255年)正月の事である。

 この正月、空に白気が横切る天変が起こった。

 「晋書」によると彗星である。

 毌丘倹と文欽はこれを「吉兆」とし、自らの勝利を信じて、悠々と兵を進める。



 勝てると見た毌丘倹の動きは鈍かった。

 本拠地の寿春を発し、西の項城に達すると、そこで自らの大義名分を明らかにする。

 檄文を飛ばし、朝廷に討司馬師の表を奏上する。

 任地が隣の諸葛誕にも、夏侯玄との旧縁を説いて味方するよう言って来た。


(いにしえ)の縦横家の真似事をしている」

 そう酷評したのは、王基、字は伯輿である。

 王基は元々学者である。

 明帝(曹叡)の宮殿建築による無駄遣いに対し、諫言をしたが殺されていない。

 一度官を退いたが、曹爽が才を惜しんで再招聘した。

 その曹爽に対しても、専横を批判して再度辞官している。

 それでもない才を惜しんで、河南尹に任命しようしたのだから、曹爽もまた一角の人物と言えよう。

 だが就任前に曹爽は失脚、曹爽陣営と見做された王基もまた無官となる。

 しかし、その年の内に復職し、荊州刺史・揚烈将軍として南方を守る。

 学者で、皇帝の御前で儒学の解釈を巡って論争した程の者でありながら、同時に軍事指導者としても優れていた。

 荊州より兵を発して呉と戦い、食糧や多くの捕虜を得ている。

 地方行政官としては軍隊と農業を整備するとともに、学校を設けるなど治績も挙げた。

 司馬師はこの人物を中央に呼び戻す。

 王基も司馬師に政治の心得を書状にして送り、司馬師はこれを受け取った。


 その王基は、文欽だけでなく毌丘倹という大物の将軍まで反乱を起こした事に動揺する朝廷において、対策を述べた。


「毌丘倹は謀反を起こしたが、自分に理が有ると考え、戦の準備は整っていない。

 特に兵糧に難がある。

 自分は許の兵力を使い、南頓に急行してそこの兵糧を先に抑える」


 司馬師はこの献策を認め、王基に先陣を任せた。

 さらに鄧艾に楽嘉の地を先に抑えさせ、文欽を食い止めるよう命じた。


 朝廷では、以前同様司馬孚が兵を率いて行けば良いと主張したが、鍾会、王粛、傅嘏が反対する。

「この戦は大将軍(司馬師)が出るべきです」


「理由は?」

 そう聞く司馬師に、王粛は

「此度の反乱は、閣下を討つと称してのものだからです。

 閣下が動けば、彼等は逃げずに戦わねばなりません。

 短期決戦の為にも、手術後で悪いのですが、出陣願います」

 司馬師は苦笑いし、それに従う。

「太尉(司馬孚)は今度の戦では、度支(たくし)尚書の時の如く、補給をお願いします」


 王粛は、後漢時代に会稽太守として孫策と戦い、やがて魏では司徒を勤めた王朗の子である。

 王基とは明帝の前で、鄭玄の礼法についての論争を行っている。

 王粛もまた、明帝の宮殿造営について諫言をした一人である。

 ここまで諫言者が何人も生きているし、明帝が諫言を封じ、意見を言った者を殺したという風説は嘘であろう。


 鍾会、王粛、傅嘏は十数万の兵を集め、司馬師を総大将に東に進んだ。

 胡遵、諸葛誕という近隣に駐屯する武将も、反乱鎮圧の命を受けて動き出した。

 司馬師の速い行動に、反乱勢力は後手に回る。

 南頓の食糧を王基に抑えられ、毌丘倹は項城から動けなくなった。

 同様に鄧艾が楽嘉を抑えた事で、文欽も動きを止めた。

 そして毌丘倹の部下である史招、李続が相次いで司馬師に下る。

 この圧倒的有利な状況で、司馬師は汝陽にて兵を止めた。


「高塁を築き、防御に当たれ。

 敵の綻びを待つ。

 無理をして攻めぬように」


 これには別の目的があった。

 追い込まれた毌丘倹、文欽が呉に増援を求めるのを待つものである。

 増援に来た呉軍もろとも敵を破る考えであった。




 実に筋書き通りに進む司馬師の毌丘倹、文欽鎮圧作戦であったが、この時代の戦は個人技でひっくり返される事もある。

 かつての「万人の敵」と呼ばれた蜀の関羽や張飛、或いは飛将軍呂布という、勇猛な将によって戦略と戦術をぶち壊される事があった。

 ここに無名の猛将が居た。

 文欽の子、まだ十八歳の文鴦(ぶんおう)である。

 後に蜀の猛将だった「趙雲に匹敵する」と評された。


 彼は動きを止めた父に対し

「まだ勝敗は決していません。

 鼓を打ち、大声を上げ、兵を鼓舞して城を攻めれば魏軍を撃ち破れます」

 そう発破をかける。

 そして鄧艾に対し、父の軍と二手に分かれて攻撃をかけた。


 楽嘉城には司馬師が到着していた。

 吃音ながら既に蜀の姜維軍を何度も撃破し、名将として名高い鄧艾は

「わわわ我々、我々はああああえて弱兵と見せて、文欽をひひひひ引き込みます。

 だだ大将軍閣下はあああ、密かに大軍ををを城の周囲に、ふふふ伏せておいてくく下さい」

 と猛将と名高い文欽を、魏軍得意の十面埋伏の陣中央に引き込むべく、鄧艾は司馬師の本隊を気づかれないようあちこちに伏せた。


 やがて文欽の手勢が現れると、鄧艾は敢えて敗れてみせた。

「成る程、次騫(文鴦)の申す通りだ」

 文欽はあっさりと鄧艾の罠に嵌まる。

 何度か野戦に及び、鄧艾は破れたように見せて城の手前まで文欽をおびき寄せた。

 別動隊の文鴦隊との連絡を遮断し、文欽隊だけを調子に乗せて突出させる。


「ぼぼぼ、僕は、たたた大軍による伏兵が大好きななななんだな」

 鄧艾は城を落とすべく夜襲をかけて来た文欽に対し、頃合いを見て伏兵を出し、大軍で以って文欽を包囲した。


「やはり罠だったか……」

 手勢はあちこちで打ち破られる。

 文欽の心は折れた。

 だがそこに、文鴦とその弟の文虎の兵力が突っ込んで来た。

「父上、ご無事でしたか!?」

「お前ら、どうやってここに?

 敵の包囲網があっただろう?」

「蹴散らしました!」

「司馬師めの本隊も居た筈だが」

「それも蹴散らして来ました。

 司馬師本人は城の中のようですが」

「いやはや……我が子ながら凄まじい……」

「それよりも父上、鄧艾軍が迫っています。

 我々が率いて来た兵力と合流し、項城まで退き下され」

「そなたはどうする?」

「蹴散らして来ます」

 文鴦と文虎は十数騎を連れて鄧艾の部隊に突撃をかけた。

 文欽はその間に兵を纏めて撤退する。


「兄上、父上は無事兵を退いたようです」

「よし、ここらが頃合いだ。

 我等も退くぞ!!」


 名将鄧艾率いる一万の精兵と戦い、文鴦・文虎兄弟はほぼ無傷で撤退に成功した。

「おおおお、恐るべき奴らなんだな……。

 わわ我々れも退く。

 ご飯が食べたいんだな……」


 城壁から見ていた司馬師は、文鴦恐るべしと心に刻んだ。

 そして文鴦の脅威は、やがて彼自身にも襲い掛かる。

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