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合肥新城の戦い

 魏の嘉平五年、蜀の延熙十六年は衝撃的な正月から始まった。

 蜀の大将軍費禕が正月の宴席で、魏からの降将郭循によって刺殺されたのだ。

 後に魏皇帝曹芳は詔を下し、郭循に爵位を授ける。

 どうも初めから刺客となるべく降伏したようだ。


「尚書令の陳祗を殺さなかったのは、郭循のよくやったところだ」

 賈充はそう司馬師に話す。

 一番問題なのは、費禕の後任が、費禕と同じように姜維の外征を抑えてしまう事である。

 それに比べ、陳祗は財政通であるが、同時に姜維の説く対魏遠征の正当性を支持している。

 これで蜀は、姜維の遠征を止める事も出来ず、姜維の望むままに予算を注ぎ込んだ国力を弱体化させる遠征を始めるだろう。


 だがこの年は、蜀の事にばかりかまけてはいられない。

 呉の大将軍諸葛恪が、先年の戦場の先にある合肥を目指し、侵攻して来たのである。

 四月には合肥新城を包囲する。




 文欽という将がいる。

 字は仲若、豫州譙国譙県出身で、曹爽と同じ村の出身である。

 父は曹操に仕えていた。

 曹爽の引きで出世したのだが、曹爽・何晏派にしては粗暴で教養が無い。

 気が荒く、礼節を弁えぬ性格で、官吏の法に遵わず、いつも弾劾の上奏を受けたが、先帝曹叡がそれを抑えていた。

 同じ曹爽派の諸葛誕とは、全く肌が合わないようで、憎しみ合っている。

 というか、曹爽派の優秀な人間とはあまり気が合わないようだ。


 司馬懿の蜂起の後、彼は中央の腐敗とは無関係と見做され、前将軍に昇格させてそのまま任用している。

 だが、気が小さいのか常に司馬一族による粛清を恐れていると聞く。


(この男、いずれ何かに使える)

 賈充はそう考える。

 この文欽が、政敵諸葛誕の後任として揚州にいて、呉の諸葛恪の侵攻を受け止めようとしていた。




 鎮東将軍毌丘倹は、揚州刺史文欽と共に呉軍と戦う。

 この方面には寿春の毌丘倹、廬江の文欽の他、合肥新城に牙門将軍張徳もいた。

 諸葛恪が狙う合肥新城は、この時問題を抱えていた。

 疫病の大流行である。


「合肥は、旧城の際は張遼将軍が有名を馳せ、新城でも滿寵将軍が奇襲をもって呉軍を撃破した。

 今回もきっと勝てる!

 自分を信じて、厳しいだろうが踏ん張ってくれ!!」


 張徳は城兵に訴えたが、病気で士気は上がらない。

 張徳は援軍を求める使者を出したが、援軍が来る気配がない。

 毌丘倹も文欽も、自身の城が大事と動かない。

 そして肝心の首都・洛陽からは

「策有り、合肥に籠城し持ち堪えて欲しい」

 と返答があったのみで、何時、如何程の増援が来るか不明であった。

 城兵だけでは寡兵、その上、呉軍の士気は高く諸葛恪は猛攻を加える。

 そして、ある程度攻めたら諸葛恪は攻撃を停止し、城から距離を置いた。

 まるで魏の増援部隊を待ち構えるかのように。


「何故、呉軍はあのように兵を退いたのでしょう?」

 副官の疑問に、張徳も答えられない。

 彼は前任の鎮東将軍諸葛誕から「無能だから解任した方が良い」と酷評された男だ。

 無能ではないが、迸るような才気も無いのは事実である。

(策有りと言っていたのがこれなのだろうか?)

 朧気にそう思っていた。


 司馬師と賈充、鍾会らは諸葛恪の意図を見抜いていた。

 合肥新城を囮に、司馬師を釣り上げ、野戦で司馬師を叩いて魏の主力軍と合肥と両方を手にしようというものだ。

「一挙両得を狙うものだが、そう上手くはいかぬ。

 気を衛将軍に向けていると、肝心の合肥を落とせぬまま日が過ぎ、諸葛恪めは苛立つであろう」

 鍾会はそう分析し、司馬師も頷いた。

 都から合肥への援軍は出なかった。




 守る事二ヶ月半、城壁は崩され、病人は後を絶たない。


「今日は籠城を始めて何日目だ?」

「九十日余りです」

「ふむ、頃合いだな」

「まさか、降るのですか?」

「そんな事はしない。

 だが、病人に休む暇もなければ、治るものも治るまい」


 張徳は諸葛恪に使者を送る。


”魏の法では、援軍が来ないまま百日城を守れば、それ以降の開城は罪に問われません。

 今、九十余日籠城し、勝ち目無きを知りました。

 願わくば、残り十日程城に籠った後に、城を明け渡したく存じます。”


 諸葛恪は、司馬師が都から動こうとしないのを既に察知していた。

 腹立たしいが、ならばもう一個で成果を挙げようではないか。

 これまで呉の誰も落とせなかった合肥を落とすなら十分と、この条件を受諾した。

 無論彼は莫迦とは程遠い。

 調べた上で、本当に魏では「百日未満の開城は罪に問う、百日以上ならば状況に応じて罪を問わない」というものが有るのを調べた上で認めたのだ。


 そして、張徳はその間に病人を治し、城壁も直してしまった。

 三ヶ月目、城にやって来た諸葛恪は、まんまと騙された事を知る。

 だが、

「状況は変わらぬ!

 たった十日の修復で如何程の事が出来ようか!

 このまま攻めれば勝てる!」

 そう叫んで城攻めを続行した。


 だが、城壁に梯子をかけ、登って来る呉兵に、意外なモノが落とされた。

「我等、死病を患い、最早治る見込み無し。

 この上は流行り病を伝染させてから死なん!」

「家族の栄誉は既に保証された!

 さあ、呉兵どもよ、我が咳を浴びよ、鼻汁に塗れるが良い!」


 重病の決死隊が飛び降りて来たのだ。

 槍や刀を持つ手も震え、顔には死相が出ている。

 それらが密集隊形の呉軍の中に突入し、死んでいった。


 張徳は死兵の犠牲を無駄にせぬよう、城壁の破れを塞ぎながら戦い続けた。


 そして攻城から十日あまり、今度は呉の陣内に伝染病が出る。

 やがて疫病で寝込む兵士の数は魏よりも呉が多くなった。


「疾う、撤退されよ!」

 諸葛恪は、部下からの進言を言い負かして却下し、なおも功績を焦って陣を退こうとしなかった。


「張徳からの書状にあったが、流行り病は呉軍に移ったようだ」

「今なら大軍を押し出せば、それだけで諸葛恪は崩れましょう」

 かくして七月、司馬孚が二十万の援軍を率いて合肥に現れた。

 これを以て勝ち目無しと見た諸葛恪は、病人の多くを棄てて撤退した。

 諸葛恪のこの行為に、呉の民は大いに怒り、彼の人望は地に落ちた。


「太尉(司馬孚)様、此度は援軍、有難う御座います」

 張徳が出迎える。

「儂も、まさか七十三歳にして、このような大軍を指揮しようとは思わなんだ」


 古代中国の軍事の最高責任者は、大将軍または太尉が担う。

 簡単に言えば、武官が大将軍で文官が太尉である。

 現在、司馬師が衛将軍から大将軍に昇進し、軍事の一切を行っている。

 大将軍が居るし、その副官として鍾会が頑張っている以上、太尉は飾りに過ぎない。

 その太尉、老齢の文官で補給担当だった司馬孚に、司馬師は増援の将を頼んだ。


「大将軍殿、儂はこれまで戦に出た事が無いとは言わぬ。

 しかし、大将、都督として兵を率いた事は一回も無い。

 そんな儂に何故このような大任を命じるのか?

 大将軍殿が兵を率い、儂が物資を送る、それが良いのではないか?」

 司馬孚は司馬師にそう訊いた。


「叔父上に将の経験が無いのは百も承知です。

 此度は援軍が着くと、呉軍は兵を退くでしょうから戦にはならぬでしょう。

 叔父上は今まで通り、食糧や褒美を持って、当地の兵を慰めてやって下さい」

「しかし、将が儂だと分かると、敵も戦う気になるかもしれぬぞ。

 その時儂の指揮で勝てるかどうか……」

「この鍾会を軍監に、王基と州泰を部将に、後衛には石苞を付けます。

 叔父上は戦の事は気にせず、行くからには土産を持って帰って下さい」

「土産?」

「かねてから調べている銭の流れです。

 蜀からの流路は大方把握出来ました。

 呉は荊州からと揚州からがありましょう。

 それが分かれば、何故毌丘倹と文欽が兵を動かさなかったのかも、分かりましょう」

「ふむ、では、その仕事の為の二十万の兵士なのだな」

「左様です。

 敵のみならず、味方もこれで叔父上に手出しは出来ないでしょう」




 そのようなやり取りで二十万の将兵を率いてやって来た司馬孚は、呉軍撤退後も同地に留まり、様々に調べ始めた。

「太尉様はいつお帰りになられますか?」

「どうしました、揚州刺史殿、儂が居ると迷惑か?」

「いえ、あの、その……、恩賞についてはどうなるかと……」

「既に王基殿を都に帰し、各将の戦果を報告させておる」

「では、この後に呉への侵攻が命じられるかもしれず、その支度をせねばと……」

「それも心配要らぬ。

 王基殿はこれ以上攻めさせぬと申していた。

 都では勢いに乗って攻めろという意見があるが、疫病で後退した軍を敢えては攻めまい。

 そして、このまま放置しておく方が、諸葛恪は呉で立場を悪くしよう。

 攻め込んで、また諸葛恪に勝たれでもしたら、呉で内輪揉めは起きぬかもしれぬ」


 司馬孚は寿春という地で、相当量の貿易が黙認されていた事を知る。

 これは民間の事であり、前任の諸葛誕や現職の毌丘倹を責められない。

 一方で文欽は、呉からの饗応を受けていた事が分かった。


(この寿春は、かつて袁術が皇帝を僭称した地じゃ。

 袁術は悪天候により農作物が壊滅し、それで苛政を敷いて民心を失った。

 寿春は、そうでも無ければ天下取りの戦いに打って出られるだけの財力がある。

 この地は、いずれしっかりした形で統治せねば、大変な事になろう)


 そう考える司馬孚が余程邪魔だったのか、毌丘倹は中央にこのような文を上奏していた。

「太尉(司馬孚)と我々は計略を立て、要害の地を遮り戦闘を避け、引き返して合肥新城を守りました。

 将兵は昼も夜も守り続け、百日間頑張りました。

 死者は泥に塗れ、我が国が軍隊を持って以来、これほどの苦難は存在しなかったでしょう」


 自分たちはこれ程手柄を立てたのだ、頑張ったのだ、だから司馬孚を引き上げさせてくれ。

 司馬孚も頑張ったし、都に召喚してくれ、ということだ。


 司馬師はその書状を、そっとどこかの文箱に仕舞い、見なかった事にした。

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