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東興の戦い

 賈充という男は、後漢の建安二十二年生まれで、現在は三十四歳である。

 しかし、父が急死し陽里亭侯を継いだのは十二歳の時で、それ以降苦労をして来た。

 曹爽・何晏による引き立てで中央政界に出るも、彼等の失脚でその地位を失った。


 賈一族は没落した名家であった。

 何とか昔の栄光を取り戻そうと、父の賈逵も全力で曹操に仕えた。

 しばしば他人と衝突するも、曹操はその才能を愛し、免官しなかった。

 賈充にも、復活願望はある。

 むしろ父親より必死であろう。

 父は名刺史として天下に名を知られ、賈一族の名を高めたのに、賈充は曹爽・何晏についたが為に免官されてしまった。

 司馬懿という旧世代の気骨ある政治家は、曹操のように「才能さえあれば良い」という価値観を持っていない。

 賈充は司馬懿存命中は、おそらく返り咲けないだろう。

 彼は自分でも分かるのだが、欲深い。

 名声も欲しい、銭金富貴も欲しい、地位も欲しい。

 文帝や先帝の時代、そのような人材は遠ざけられていた。

 その流れを汲む司馬懿も同様である。

 では、その次の世代は?

 賈充は、次の世代の司馬師に返り咲きの希望を託す。

 もし司馬師が彼を復活させてくれたなら、父が曹操に尽くしたように、自分は司馬一族に尽くそう、と。


 賈充は一通の献策書を司馬師に送っている。

 それは蜀の重鎮を暗殺する策であった。

 蜀の衛将軍姜維は、しばしば隴西を脅かすのだが、その姜維に降伏した将を使って蜀の内政官を暗殺しようと言うものだ。

 姜維の遠征軍は、諸葛亮の時代と同様、二~三万の部隊である。

 これは蜀の経済力に見合った規模の軍で、これまで何度も遠征し、成果を上げていないが、蜀の財政に問題は生じていない。

 しかし、この歯止めを行っている者を抹殺すれば、姜維は必ず暴走する。

 国力に合わぬ十万人という動員を毎年のように行えば、必ず蜀は衰える。


 この献策は司馬師の目に留まり、司馬師は相手を見定め、蜀が魏に対して行っているように、魏から蜀への使者や商人を通じて降将の一人を既に篭絡済みであった。

 司馬師は、父の喪が明けると、父によって免官された者たちを呼び戻す。

 その中に、これまで目立った成果がなく、政治でも軍事でも名が知られていなかった賈充が含まれていた。


「この度は自分のような者を再びお召しいただき、光栄の極みに御座います」

 司馬師の邸宅で賈充は挨拶をする。

 司馬師はさらりと重要な事を伝えた。

「貴殿には汚れ役をして貰う。

 貴殿の献策を読み、既に蜀には手駒を仕込んである。

 あとは実行するだけだ。

 まずはそれを取り仕切るように」


 賈充は司馬一族の汚れ仕事の一切を取り仕切る事を、生涯の役割と決めた。




 魏には四方八方に敵がいる。

 南西と西方には、漢中と涼州の一部を抑えた蜀。

 南と東には荊州と揚州の呉。

 北東には高句麗と鮮卑。

 北方には匈奴。

 北西には羌族。


 この敵を撃退して名声を得た将軍たちが居た。


・かつて司馬懿と共に遼東の公孫淵を討伐し、高句麗の首都も落とした毌丘倹

・北方の匈奴を撃退し、司馬懿と共に公孫淵を破った胡遵

・荊州方面で呉を撃退した王昶(おうちょう)

・隴西において姜維率いる蜀軍を度々撃破している陳泰


 他に、諸葛亮の時代から蜀と戦い続けた郭淮が別格の存在で居るが、彼はもう老齢であるし、「車騎将軍」という高位の名誉職に就いていた。


 嘉平四年(252年)十月、呉の孫権が死んだ。

 孫権は晩年、後継者争いにおいて、皇太子を追放したり、皇太子派の名将・陸遜に死を賜ったりした。

 呉の次期皇帝は後継者争いにおける喧嘩両成敗から、第三者を取り立てた子であって、威厳に乏しい。

 その上、恐るべき名将陸遜が居ない。


 征東将軍胡遵は、この機に呉を攻めるべきと進言した。

 司馬師との縁戚関係で鎮東将軍に任じられたばかりの諸葛誕も、胡遵に同調して呉侵攻を訴える。

 鎮南将軍毌丘倹、征南将軍王昶も、呉遠征を献策する。

 かくして大将軍に昇進した司馬師は、蜀対策は後回しに、孫権の死に乗じた呉侵攻を許可した。

 そして弟の司馬昭を安東将軍とし、監軍として随行させる。


 総大将に当たるのは諸葛誕であった。

 鎮南将軍毌丘倹と征南将軍王昶は、魏の南、荊州南郡と武昌で陽動を攻める。

 その兵力は毌丘倹軍四万、王昶軍四万。

 主力の鎮東将軍諸葛誕と征東将軍胡遵は、魏から見て東、東興を七万の兵で攻める。

 総兵力十五万の軍であった。


 諸葛誕が攻める東興には、孫権が築いた堤がある。

 この堤で濡須水を堰き止め、魏側に水を溢れさせて湖を作り、度々軍船で国境の重要拠点・合肥に攻め込んでいた。

 その為、この堤を壊して呉の軍船の活動を止める事が、呉の首都・建業を衝く上で重要とされた。

 諸葛誕と胡遵は船を並べて浮橋を作り、堤を攻める。

 しかし、この作戦は呉の大将軍諸葛恪によって読まれていた。


 諸葛恪は堤を守るように二つの城を築く。

 これによって魏は中々堤を崩せない。


 そんな中、諸葛恪は呉の名将の一人、丁奉を出撃させる。

 丁奉の三千たらずの部隊は、二日程で東興に到着する。

 そして、雪の為に魏軍は宴会を催していた。

 まさかこんなに速く呉軍が到着するとも思っていなかった。

 その油断を丁奉は衝く。

 奇襲をかけ、魏軍は支離滅裂となる。


 そこに朱異率いる水軍が現れ、浮橋を攻撃する。

 魏軍は完全に浮足立ち、韓綜・桓嘉をはじめ数万人が戦死という大敗を喫した。

 毌丘倹と王昶は、本隊の敗北を知ると、南郡、武昌の陣地を焼き払って撤退した。

 呉はいまだ強かった。




 そしてこの年、魏は西方でも失敗する。

 陳泰が雁門郡と新興郡において、徴兵を嫌った民により反乱を招いてしまった。

 彼は蛮族を討ちたいと司馬師に申し入れていたのだが、かえって逆の結果となる。

 陳泰は失敗を謝する。


 諸葛誕、胡遵、陳泰が失敗し、毌丘倹と王昶は成果なく占領地を放棄して撤退。

 朝廷では諸将を罰すべしという声が上がる。

 だが司馬師は

「これらの作戦を認めたのは自分である。

 幾人か諫言をしたが、聞かずここに至った。

 これは私の過失である。

 諸将に一体何の罪があろうか」

 と言った。

 一同は司馬師の度量に感動した。


 かくて東西ともに失敗していながら、司馬師の名声が上がるという不思議な結果となる。

 そんな中、監軍の司馬昭だけが処罰される。

 爵位が削られた。

 責任は誰かが取らねばならず、司馬師はそれを弟に求めた。

 諸葛誕は鎮南将軍となり、毌丘倹が鎮東将軍となった。

 荊州方面と揚州方面の入れ換えである。


 かくして嘉平四年の戦役は終わる。

 賈充はこの年、特に活躍をしていない。

 ただ、じっと将軍たちを見ていた。


 司馬昭と陳泰は平然としている。

 だが、諸葛誕と毌丘倹は名誉回復を望んでいた。

 諸葛誕、毌丘倹ともに、曹爽・何晏派の夏侯玄と親しかったものである。

 曹爽・何晏派と見做された賈充と立場は似ていた。

 賈充は密かに、そういった立場の者たちを追い落とそうと画策していた。

 それが賈一族の司馬一族への忠義の証となるだろう、と。


 司馬師の治世はまだ一年しか経っていない。

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