幕間:司馬孚と司馬師
司馬孚は、新たに司馬一族の統領となった司馬師の元を訪れた。
これまで読んで来たものを報告する為である。
司馬師の傍らには秘書として、鍾会という若者が居た。
かつて馬騰・韓遂を懐柔したり、董卓統治後の荒れた洛陽の人口を復活させた名臣・鍾繇の子である。
五歳で「並外れた人間」と評価され、十五歳で太学に入学した才人で、草書・隷書に巧みな書家でもある。
現在二十六歳、才気活発な人に有りがちな人格的に歪んだ部分もあり、讒言で人を追い落とすこともある。
だが確かに有能であり、司馬師は彼を引き立てていた。
その鍾会も交えた場で司馬孚は説明をする。
・既に曹操対劉備時代から魏蜀の銭を含んだ交流があった
・諸葛亮は銭を使って魏内部を操作する事も作戦に組み込んだが、彼の得意とする多方面作戦、この場合は軍事と通貨政策の両面同時進行だった為に、中々気付かなかった
・諸葛亮死後に軍事の比率が下がり、通貨の比率が上がった事で先帝と司馬懿が感づいた
・先帝は銭を貴族から農民に下そうとしたが、やり方が董卓に酷似してしまい恨みを買った
・それ故に先帝は毒殺され、似た価値観を持つ司馬懿を追放しようと何晏たちは考えた
・学問が盛んな魏となれば蜀侵攻の野心が無くなる、その上で通貨量を制御すれば蜀は戦わずに魏を制御出来るようになる
・既に呉に対して同様の事をしている為、蜀は銭を使った天下統一を為そうとしていた
(もっともそれは、諸葛亮からしたら途中経過であり、最終的には政治的にも軍事的にも名分的にも天下三分から天下統一に持って行きたかったのだろう。
それが壮大な構想を持つ諸葛亮の凄さでもあり、一方で儂同様旧世代の諸葛亮の限界でもあった。
彼の後継者は、通貨政策だけで三国を牛耳れたら、あえて統一しなくても良いと考えているかもしれない)
司馬師は報告を聞き終えると、叔父に向き直った。
「叔父上も承知の通り、私はあの何晏と仲が悪くは無かった」
「知っておる」
「だが仲が極めて良くも無い。
私は文学に関しては、彼等と語り合える程のものは無いのでね。
しかし、彼等は私を仲間だと信じていた。
それがどういう事か、叔父上には分かりますか?」
「世代の問題……かの?」
「左様。
父上も叔父上も、言わば漢を引きずっています。
しかし、私が十二歳の時、漢は魏に代わった。
私は漢を実感として知りません。
叔父上が危惧をしている蜀貨による禍も、よく分からぬのです」
「おい、子元……じゃなく、衛将軍殿!」
「ハハハ、そういうとこですよ、叔父上。
祖父上様が厳しい方で、家でも礼をもって接するよう育てられていますが、
私は何晏や同じ頃に退けられた王弼の論に近いのです。
何事も儒学的に解釈し過ぎては、かえって道を違えましょう。
家では父上、母上と呼び、幼少の者は親族なら字で呼ぶのが自然かと思います」
「玄学というやつか。
儂は余り詳しくは無いが」
「まあ、話が逸れました。
蜀貨と銭の禍については、引き続き叔父上にお任せ致す。
危険と感じた時は、すぐに諫言して下され」
「危険と感じた時……。
子元、お主蜀貨をこのまま受け容れ続ける気か?」
「正直、物々交換では市場は育ちません。
五銖銭の価値が元に戻る事に、私は何の不都合も感じません。
むしろ、ここまで普及した五銖銭を、蜀のものだからと言って廃する方が世を混乱させましょう」
「それはそうだが……」
「問題なのは、五銖銭が一体いくら、魏の国に流れているのかを知らぬ事。
把握出来ないまま放置すれば、蜀によって物価を操られましょうな。
それくらいの事は私にも分かりました」
「それで、どうすると言うのかね?」
「方法は二つ。
まずは蜀貨を必ず我が司馬一族を通るように致します。
さすれば、蜀が何億枚五銖銭を送ろうと、銭余りや穀物の価格下落による農民の没落を防げましょう。
もう一つは、蜀を滅亡させ、蜀の銅山と五銖銭鋳造所を我等のものにする事です」
「蜀は厳しかろう。
国が安定しておる。
国が安定しておるのに、戦で落とすは困難じゃ。
むしろ魏国の方が国が乱れておる。
その元凶は我々司馬一族なのじゃが……」
「蜀も国を乱せば良いのです」
「ほお?」
「蜀は人材に欠けております。
僅かな才人が国を支えているに過ぎません。
その人材も、ここ数年で董允、呂乂と相次いで死んでます。
私が考えるに、恐るべき人材は費禕ただ一人」
「その費禕を戦場で倒すのか?」
「ハハハハハ……叔父上も真っ正直なお方だ。
成都にて暗殺するのです!」
「なんと!」
「蜀は成都において魏の銭の量を操り、貴族を躍らせていた。
逆をやっても何も悪いとは思いませぬ。
既に手駒は仕込んでおります」
(これが新世代の者たちか……)
司馬孚も、敵国に使者を送り、調略をして味方有利にする事くらいは分かる。
だが司馬師は、道教の無為自然を口にし、儒学の形式主義を批判する同じ口で、軽く敵国の重鎮を暗殺すると言う。
人の価値が軽い、というかやはりどこか浮世離れした、人を人と思わぬ部分が見て取れた。
司馬師は話題を変える。
「蜀の事は時間がかかりましょう。
費禕無く、蜀の市場が混乱し、戦に打って出て状態を改善したいと思うまでには、まだ先が長いでしょう。
それに備えてですが、叔父上、私は父が追放した者たちを呼び戻したいと思います」
「兄が追放した者たちとな。
具体的には誰になるかな?」
「王基、賈充、荀勗、裴秀、それと父は軽視していましたが石苞です。
また諸葛誕も征東大将軍に転任させようと思っております」
王基は当代の優秀な儒学者である。
気骨の士でもあり、先帝(曹叡)に対しても、宮殿造営に故事を引いた上奏文を提出して諫言していた。
一時官を退くが、曹爽が招聘し、それによって再任官していた。
賈充はかつて馬超討伐で補給の手柄を立てた賈逵の子である。
賈逵は豫州刺史時代には綱紀粛清をし、名官吏として知られる。
曹休と不仲で、曹休が呉に破られた時に援軍を率いて駆け付けたが、逆に援軍が遅いと詰られる。
「賈逵の性格には問題がある」
曹休はそのようにも言っていた。
この直後に賈逵は死亡し、賈充が爵位を継いだ。
その時は十二歳であった。
やがて長じるに連れて、曹爽・何晏によって重んじられた。
荀勗は曹爽・何晏派だが気骨の士で、誰もが連座を恐れて曹爽の葬儀に参列しなかった中、彼は堂々と参列した。
そして誰にも咎められる事も無かった。
その後、安陽県令となり、その治績も評価が高い。
荀勗の母は鍾繇の娘、鍾会の異母姉である。
同族の荀顗や鍾会からの取り成しもあり、中央に呼び戻す事となった。
彼等と諸葛誕は、結局曹爽・何晏一派と親しかった者である。
司馬一族と縁戚である諸葛誕は別にし、才能が有っても曹爽・何晏派だった事で免官された名家の人間や学者も多い。
司馬師はそれらの復職を考えていた。
例外は石苞である。
石苞は出自が貧しい。
鉄を売っていたのを司馬懿によって見出される。
しかしその司馬懿が、「石苞には人格的に問題がある」と言って重用しようとしない。
名門主義の曹爽・何晏一派も石苞には声をかけていない。
有能なのは確かだから、司馬師は彼を今後は重用しようと考えている。
「結構な事でしょう」
そして司馬孚は甥の寛大さを賞賛した。
その一方で、心の中に僅かだが不安が芽生えていた。
(自分の人を見る目は古いのかもしれない。
しかし、漢末ならば人物鑑定家たちが不安がりそうな、性格に難ありな者が多い気がする。
大丈夫だろうか??)
衛将軍・司馬師の治世はまだ始まったばかりであった。




