蜀の尚書令
蜀において、良質銭と高額銭によって、通貨の信頼を取り戻したのは、劉巴である。
劉巴は生前、尚書令に上っていた。
尚書令は皇帝や宰相への書類を確認する役で、金銭出納も当然ここで行われる。
元々漢では、徴税や財政は大司農が扱っていたが、後期になると農業の発達から大司農はそれに専任し、尚書に財政担当は移っていった。
それは司馬孚自身が、高平陵の変当時に尚書令として調査に当たっていたから分かっている。
この蜀の尚書令を歴代で調べてみる。
初代 法正
二代目 劉巴
三代目 諸葛亮(録尚書事という、より上位の役で兼任する)
臨時 陳震
四代目 蒋琬
五代目 費禕
六代目 董允(費禕も上位の録尚書事として在任)
七代目 呂乂
八代目 陳祗
臨時の陳震は、諸葛亮が南方征伐で不在の時である。
この陳震は、呉との外交をよく行っている。
「尚書令にある者が、蜀貨を他国に流通させる責任者だとするなら?」
司馬孚は、それぞれの時代を振り返る。
おそらく呉への銭貨流通担当は、陳震だったろう。
この陳震は青龍三年(235年)、諸葛亮の死の翌年に没する。
これで呉への銭貨融通に不都合が出たのだろう。
翌青龍四年(236年)から孫権は五銖銭新発行を行っている。
蜀貨がほとんど気になる事も無く、徐々に増えていた時代の担当は、諸葛亮その人だった。
諸葛亮は多方面作戦の名人らしく、魏も呉も上手く要人に銭を掴ませると共に、軍事作戦も行い、更に異民族との外交や交易も行っていて、裏で何をしているか把握させなかった。
正面で討魏の兵を挙げている男が、裏で魏の銭を増やしているとは誰も気づかないだろう。
その諸葛亮が五丈原に死し、蒋琬が後を継ぐ。
蒋琬のやり方は、諸葛亮程には巧みではない。
次第に増え方、持っている者の偏りが大きくなる。
極端な富裕層が出来たが為に、先帝はその富を、罪を着せて没収したりした。
そのやり方は、あの董卓のようであった。
費禕も諸葛亮程には上手く出来ない。
そこで、自らを録尚書事としつつ、業務の重なる尚書令に補佐役を置いた。
それが董允、呂乂、陳祗という経済通なのだろう。
出身地で見ると、
陳震 荊州南陽郡出身
董允 荊州南郡出身
呂乂 荊州南陽郡出身
呉への融通と言い、荊州が銭の中継地となったのは、もう疑わなくて良いだろう。
呉の領土となった荊州北部を拠点に、蜀は呉と魏を操ろうとしたのだ。
呉に対しては、銭をどれだけ渡すかで政策に影響を及ぼせる。
魏に対しても、主要人物に銭を渡す事で、戦を止める事が出来る。
曹爽がかつて蜀に攻め入ったのは、蒋琬が死んだ後である。
曹爽が戦いに負けたのは確かだが、費禕によって引き続き銭がもたらされる事が確実になり、以降は復讐戦も無く富貴に溺れた。
蜀にとって魏の難しいところは、後漢以来の「清流派」を取り込んでいたところにある。
後漢霊帝と宦官たちの「党錮の禁」によって地方に飛ばされた知識人たち。
賄賂を受けず、気骨ある士人たち。
華北の群雄は、曹操だけでなく、袁紹も董卓も「清流派」を取り込む事に必死になった。
一人優秀な人材を確保すると、その人脈から加速度的に優秀な人材が増えていくのは、劉備陣営が諸葛亮を得た時に分かっている筈だ。
逆に、劉備は中央に近い場所に居た時、人材確保競争に敗れたのだ。
その「清流派」の中に司馬一族がいる。
司馬懿は大将軍、司馬孚は度支尚書と政権の重鎮であった。
魏を銭漬けにするなら、司馬一族や荀一族(荀彧や荀攸を出した、荀子の子孫たち)等の清流系が邪魔である。
荀一族は、荀勗が曹爽一党に近づく、故人であるが荀粲も何晏らと道教について語り合うとかしているから、専ら司馬一族が標的だ。
(荀彧の六男・荀顗は司馬師・司馬昭と極めて近い)
司馬一族と言っても、頭も価値観も古いのは当主にして影響力の強い司馬懿のみ。
司馬懿を追い落とすには、対抗馬の曹爽を持ち上げれば良い。
そこで曹爽を支える人材、これも名族揃いだが特に「清流派」ではない。
何晏の祖父の大将軍何進と、蜀の呉太后の父・呉匡はかつて主従であった。
蜀の張皇后の母は夏侯氏の娘である。
商人に託して季節の挨拶を交わす事も出来る。
隴西での魏蜀の戦争の時なら、軍使や密偵を使った交流も出来る。
こうして出来た蜀と曹爽派の繋がりが、司馬懿を排斥しようとして失敗した、そういう構図であろう。
彼等は司馬懿を追い落とす上で、司馬一族第二世代の司馬師等は交流もある事から味方と思い込み、結果その情報は父の司馬懿に筒抜けだったのだ。
蜀の失敗は、ここで蜀貨が魏に与える影響に感づかれた事だ。
悪い事に、後漢末期の銭の混乱が社会を乱した事を知る、司馬懿と司馬孚に。
後漢末期の事を知らねば、ただ「軍資金を与える愚かな国」としか認識しなかっただろう。
蜀の尚書令が、実質的に魏の財務大臣兼造幣局長を務める。
すると、魏は蜀の発行する貨幣量によって、物価を制御されてしまうのだ。
既に魏は、最近は物価高に誘導されている。
更に廷臣が銭を中央に集めると、蜀はあえて地方に銭が渡るようにせず、その廷臣に近い者たちに銭を撒く。
すると後漢末期のように、中央で物価高騰、地方で物価に比して銭不足という状況を作れる。
これは地方反乱を容易に招く事が出来る。
廷臣を腐敗させる以外は即効性のある手では無い。
しかし、一回通貨というもので他国のキモを握ってしまえば、その国を遠隔で操作出来る。
蜀は決して天下取りを諦めてはいなかったのだ。
蜀は、形を変えて、四川の奥地から魏と呉を手玉に取ろうとしていたのだ。
司馬孚はそのように考えを纏めた。
(しかし、一体誰が??)
司馬懿と手紙をやり取りした諸葛亮、魏に亡命した黄権が話す諸葛亮は、どちらかと言うと清流派の、自身は銭に潔白で気骨のある性格が司馬孚には感じ取れた。
銭の策を実行は出来るが、思い付くには銭に良い印象の無い世代。
(諸葛亮が考え付いた策では無いだろう)
そうなると劉巴か?
金銭関係の事は劉巴が諸葛亮より上である。
だが、劉巴は荊州零陵生まれで、蜀の地で劉璋の官吏となった。
あの凄まじい銭の乱れを知っていて、利用しようと思いつかないかもしれない。
銭の乱れによる世の乱れを知る者、本人は銭を程よく使うが、適度の守銭奴で、商人にも愛された男……
(皇帝となった劉備その人……)
おそらくは合作だろう。
劉巴による銭の信用回復を見て、劉備は鋳造方法によって通貨の信頼を回復出来る事を知った。
銅は彼が中華の地の相当量を抑えている。
良貨を流す事で銭の世に戻す事も、悪貨で市場を壊滅させる事も、蜀で銭を独占生産出来るなら思いのままだ。
そう思ったのだが、肝心の銭を流す口にも当たる荊州北部を孫権に奪われてしまった。
義弟関羽の恨みも有り、劉備は一時そのやり方を忘れる。
劉備が白帝城で死ぬ時、諸葛亮にその事を遺言したかもしれない。
何故なら、白帝城に諸葛亮が招かれた時、同時に劉巴も呼ばれているのだ。
そして策は諸葛亮に引き継がれる。
諸葛亮は最初、清流派というか儒者のような清廉潔白さを発揮し、軍事力で正々堂々と魏を打倒しようとした。
だが、失敗した。
失敗の理由に、魏の将の多さが有った。
折角、上庸城の孟達を裏切らせたり、異民族を使って陽動を行っても、曹真、司馬懿、郭淮、夏侯覇あたりが出張って鎮圧してしまう。
諸葛亮自身が、陳倉城の赫昭に勝つ事が出来なかった。
そして、魏に対し有利に戦っていた呉の孫権が即位。
諸葛亮は方針を変えたのだろう。
軍事と銭毒の両面で魏を攻める。
いや、銭毒は呉にも蔓延させて、広大な中華の大地を四川の山奥から操ろう、と。
諸葛亮にとって、それは手段である。
両面作戦の一つで、彼自身はやはり、最後まで軍事での勝利に拘った。
だが裏では、人脈を上手く使って魏の名門に辿り着き、彼等を内から篭絡していった。
徐々に名家から貴族へと変貌していく。
その様子に先帝(曹叡)は「軽薄である」とし、官職から追放したのだろう。
諸葛亮が死に、呉担当の陳震も死して、蜀では方針が変わったのだろう。
軍事の比率を減らし、魏を銭で腐敗させる方に比重をかける。
魏に注力する為、呉への融通も減る。
呉はまだ自前の銅鉱山を持っている為、不足分を鋳造し始めた。
魏は戦が終わった事で、急速に裕福になった。
おそらく先帝(曹叡)はここに不安を感じた。
急膨張経済に「浮わついたものを感じる」と、減速経済政策を行った。
しかし経済通な訳ではない先帝(曹叡)は、商人や貴族に罪を着せて罪を没収する、銭に困窮した庶民を徴用して銭を支給する、その公共事業に宮殿造営しか思いつかなかった。
ふと振り返って思う。
(嗚呼、あの董卓も経済を知らず、先帝と同じやり方を、より性急に行ったのだろう)
そして富の再分配は、先帝が暗殺される事で止まった。
より多くの名家、功臣たちは貴族となり、新しい世を築こうとした。
……おそらくは、蜀の銭をより必要とし、彼等を攻めるより、彼等に貢がせる事を考えるように変わる。
そして魏は、蜀に飼われた事だろう。
ここまでで司馬孚は、一度考えを纏めた。




