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魏帝への殺意

 ここからは、高平陵の変後に集めた何晏らの調書や、家人の証言を纏めたものを、流れとして再構築したものである。

 司馬孚は、時間が経って全ての情報は集められていない、記憶も曖昧になっている、曹爽粛清中の異様な雰囲気の中での尋問調書には恐怖による歪みや、審問する者への忖度が含まれていると承知している。

 情報が足りない、情報が恣意的である事も踏まえて、並べ直してみた。




 意外な事に、蜀から魏に贈り物があったのは、武皇帝(曹操)存命中からだった。

 劉備は曹操経由で、当時の漢皇帝献帝に対し、季節毎の挨拶や進物を行っていた。

 劉備は当時も、曹操によって任命された左将軍の地位にあり、「左将軍劉豫洲」の名で贈り物をしている。

 そして曹操に対しても、手紙の交換をしていた。

 「陛下を大事にしろ」とか「簒奪するな」という文句以外に、「お互い年を取ったし、戦場以外では体を厭おう」とか「瑞兆じみた気象現象が現れたが、君はどう見る?」という「友達同士じゃないのか?」というやり取りもあった。

 曹操は度々劉備に「献帝御前での詩会」への招待状を送っている。

 しかし劉備は、のこのこ出て来て捕らわれる危険の他、彼も詩の才は曹操に遠く及ばない為、欠席の変事と、詫びとして「詩会にて使って欲しい」と大金を贈っていた。


 このやり取りは、文帝(曹丕)時代には途絶える。

 劉備は書状や金品を贈っていたが、文帝の方が受け取りを拒否した。

 しかし、この期間でも細々とした交流はあったようだ。


 何晏の祖父は黄巾の乱時の大将軍何進である。

 何進の有力な部下に呉匡が居た。

 何進の死後、呉匡は何進の弟の何苗と争い、それを董卓に利用されて追放された。

 その後、呉一族は蜀に逃れる。

 蜀の有力武将、呉懿や呉班が蜀の劉璋に仕える。

 その後、劉備が入蜀する。

 当時の劉備夫人は、呉の孫権の妹であったが、政治情勢の変化で呉に送り返された。

 その後に劉備正室に収まったのが、呉懿の妹・呉莧(穆皇后)である。

 劉備の後を継いだ劉禅と血は繋がらないが、皇太后として蜀の高貴な地位にいる。

 この呉一族から、何晏に対し、細々と年賀の使者が送られていた。


 同じく、張飛が娶った夏侯覇の従姉妹という縁戚関係。

 夏侯氏の話では、薪拾いに来ていた十三~十四歳の少女が張飛によって誘拐され、そのまま妻とされたとされる。

 大義名分にうるさい、悪く書くなら恰好つけの劉備の義弟が、敵勢力の最有力氏族の少女を拉致し、そのまま婚姻?

 騎馬民族ならある話だが、劉備陣営であるだろうか?

 まして曹操がその後に何も行動を起こしていない。

 おそらく、関羽を部下にしたくて何度も誘いをかけた曹操が、同様に張飛にも目をつけ、縁を結ぶ一環で婚姻させたと考える方が自然だろう。

 夏侯氏には「攫われた」という事にしておけ、となったかもしれない。

 実際、この夫婦は仲睦まじく、二男二女を得ている。

 その二女は共に劉禅の皇后となっている(姉が早逝し、妹が後室に入った)。

 ここからも夏侯一族に対し、細々と年賀の使者等が送られていた。


 他にも鄧颺(トウフウ)という人物がいる。

 曹爽・何晏派の重要人物の一人である。

 彼の祖先は後漢の功臣・鄧禹で、外戚ともなった鄧一族。

 同じく鄧氏の出には、蜀の名臣・鄧芝がいる。

 この魏の鄧氏と蜀の鄧氏も、何時の頃からか交流をするようになっていた。


 交流が再度活発になるのは、文帝死後になる。

 四季の挨拶の他に、詩会への奨励金や、何晏の出版だの夏侯玄の出世祝いだの鄧颺への挨拶等に、次第に多くの銭が贈られるようになる。

 彼等はこの貢物を利用し、身内にも分配し、派閥を作り、一方で学問を盛んにして次第に「建安の頃の文壇」を再現していく。

 しかし、これを先帝(曹叡)は快く思っていない。

 度々「軽薄」だの「実が無い」と批判し、彼等を官吏の座から遠ざけた。

 先帝も、その側近である司馬懿や陳羣、劉放、孫資らも、どちらかと言うと後漢の金銭に対し潔白な「清流派」に近い。

 「建安の世」を創設した曹操の孫や部下でありながら、「吝嗇(ケチ)で銭金を遣わない恰好つけ」な旧世代なのだ。

 ここで「銭を文学に投じ、世の雑事から離れた理想を問う」後継(ポスト)建安世代との間で対立が生じる。


 それは、実は深刻なものだった。

 仮に何晏や夏侯玄を「文学派」と呼ぶなら、曹叡や司馬懿らは「実学派」だろう。

 実学派は、文学のようなものを平和時の遊び、予算に余裕がある時のおまけ、無くても大して変わらないもの、と捉える。

 一方の文学派(後の世では人文学派)は、実学派の余りにも自分たちを見下す姿勢が腹立たしいし、これからの世に必要なものが自分たちの学問、実践だけの実学しか無い世では人間は先に進まないと思っている。


 やがて蜀の諸葛亮が死に、魏は莫大な国力を軍事費にかけなくても良くなった。

 曹叡はかねてからの計画通り、宮殿建築にかかる。

 この時、軍事費の大幅削減と、蜀が何晏や夏侯玄らに贈っていた銭金とで、銭過剰増大(バブル)が発生した。

 曹叡は危険を感じた。

 別に経済的に何かを感じた訳ではない。

 吝嗇(ケチ)な財政を採って来た政治家が、急に銭余り(バブル)となると、何か不安な物を感じる、その程度のものだった。

 そこで曹叡は、その銭を中央に集める事を考える。

 そして大量の銭を、領民の全てに分配しようと考える。


 構想としてはまともでも、曹叡にはそれをどうやったら良いか、分からなかった。

 周囲に聞こうにも、彼の側近は皆「清流派」で、如何に使わないかを説いても、どう使えば有効的かについては「民を潤し、田畑を開墾して穀物の収量を上げ、治水をして危機に備えよ」という堯舜以来の話しか出来ない。

 そして曹叡は、祖父曹操ではなく、その敵だった董卓に倣ってしまう。

 廷臣や商人の、銭余り社会(バブル)で大儲けをしているように見える者に、罪を着せて処罰し、その財を没収する。

 宮殿を何個も建て、その内装は華美なものとする。

 農民を何度も徴発し、宮殿造営に狩り出してから銭を与える。

 司馬孚は知らない事だが、遠い西の彼方にある国・埃及(エジプト)三角陵墓(ピラミッド)建築に似た公共事業(ケインズ)政策であった。


 さて、没収される、処罰される側にとってはたまったものではない。

 古くは豪族、名家といった彼等は、この頃からは土地収入や官職による権勢ではなく、権威と金銭収入とを持った「貴族」と言われ始める。

 この貴族たちは、彼等に富をもたらした何晏や夏侯玄、鄧颺らに泣きつく。

 何晏たちにしても、曹叡のやり方は許されない。

 何晏の妻は曹操の娘、夏侯玄は曹操の父・曹嵩の実家の夏侯一族と、言わば皇族に準じる者たちである。

 曹操という一大の怪物を見て育った者には、皇帝と言えど曹叡は怖くない。


「ここは自分が何とかしよう」

 何晏がそう言い出した。

 彼には麻薬である五石散という手札がある。

 表に出た毒殺事件のように急な効果を出さない、時間をかけて数ヶ月で命を奪うやり方が良い。


 だが、彼等は宮中を追放された身で、皇帝の厨房に等人を送れない。


「曹爽閣下はどうだろう?

 陛下の側近で、信任篤い。

 父の元侯(曹真)は厚遇を受けながらも、寛容かつ謙虚であられた。

 曹爽殿は元侯に比べ、一見同じように振る舞っているが、富は部下に分配せず、私すると聞く」

「なれば、我々は曹爽閣下に近づき、仲間に引き入れよう。

 我々自身は宮中に決して近づいてはならない。

 曹爽殿を経由して女官や薬師という者たちを送り込む、或いは買収する事で、悲願を達成しよう」

「そうだ、陛下が生きておられると、我々の生命が危うい」

「生命だけならともかく、折角武皇帝(曹操)が新たな世を、として創ったこの魏が、また辛気臭く、実を上に文を下に見る後漢の世に戻ってしまう。

 それでは一体何の為の魏国か分からぬ」

「そうだ、我々は新しき世の為にこそ起つのだ。

 その為には陛下には眠っていただくしかあるまい」


 元々、空想的な詩文を作り、五石散で超能力を得た気分となり、文学上の言葉遊びを繰り返す事で「名人」「達人」と呼ばれていた者たちである、あっさりと大義名分が出来た。

 彼等は曹爽に近づく。

 そして毛皇后廃立、郭皇后冊立で後宮の入れ換えという絶好の機会が来た。

 やがて宮中、特に後宮に人を送る事が出来るようになった貴族たちは、皇帝の食卓に遠隔操作で薬を盛っていった。

 量を間違わねば薬なのも確かであり、怪しまれる事もない。

 健康だった曹叡は、景初二年(238年)八月頃に体調を崩し、薬を飲み始めた。

 それが十二月頃から急に体調を崩し、景初三年一月に逝去した。

 僅かに三十四歳である。


 発病後の景初二年九月、蜀の廖化が侵攻して来た際に、報告文内の布陣を聞いただけで、郭淮の兵力分散策を危険と指摘し、敗北を予想するくらいに頭脳は明晰であった。

 そんな曹叡でも万能ではない。

 曹叡はあの秦朗を新帝の後見人にしようとしたが、多くの臣下が反対して取り止めた。

 そして曹叡は遺言で、曹爽だけでなく司馬懿をも、次期皇帝の側近に任命する。

 秦朗が居れば良かったが、反対され、代わって守旧派の司馬懿が太尉として軍を握る。

 何晏らは、曹叡死後も司馬懿排斥の政争を行い続け、結局敗れる事となった。


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― 新着の感想 ―
[良い点] 珍しい視点で面白い 北方楊令伝で経済侵略を描いていたがここまで具体的じゃなかったね [一言] 縁を結ぶ為に婚姻させといて「攫われた」とは 張飛何したw
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