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五丈原の裏で

 司馬懿は五丈原にて、諸葛亮の軍勢と相対した。

 蜀軍は十万と聞いていたが、やはり諸葛亮の布陣の巧みさに誤魔化されたもので、どうも六万程度の兵力であった。


(またも謀られたか)

 司馬懿は倍の二十万の兵力を用意して貰ったが、実際は三倍より多めである。

 魏蜀の対陣は、兵糧補給の問題では蜀が不利だが、消費量から言えば魏が圧倒的に不利である。

 多くの魏将が諸葛亮の罠に嵌まる理由に、待てば待つだけ兵糧も銭も消耗していく事と、目の前の少ない蜀軍が更に兵を減らして「勝てる」ように見えてしまう事がある。


 兎に角、蜀軍の東進を許さない位置に魏軍も布陣した。

 両軍布陣が終わると、早速諸葛亮より書状が届く。


”司馬大都督に置かれては、わざわざの征旅、ご苦労様で御座います。

 お互い年を取り、戦場の風が身に沁みます。

 都督は(はや)く老臣(諸葛亮)の陣までお出で下さい。

 老臣、ご馳走をもって出迎えたく存じます。”


「さっさと攻めて来い、罠に嵌めてやるよ!」

 という挑発である。

 司馬懿も返事を書くが、作戦的には無視をした。


”諸葛先生の用兵、非才の自分は尊敬しています。

 尊敬する師には勝てると思いませんので、またも陣に留まり、師の手腕を学ばせて貰います。

 師もお疲れの事でしょうから、疾く疾く蜀にてお休み下さいませ。”


 軍使に手間賃を持たせて送り出す。

 軍使は斬られないものと、一応の決まりにはしているが、途中で賊に遭う可能性もあるし、敵の門番が融通利かずに斬る事もある。

 それなりに生命がけであり、役得となる手間賃の他、敵の門番兵が小遣いを要求する事もあり、多めに金を持たせる。


 正規の軍使の他に、戦場では様々な使いが走り回る。

 敵味方に分かれていても、同族や親戚というのが多数いる。

 大体、魏蜀は皇族の中に親戚が居るのだから、領域の変遷が激しい隴西地方の武将なら猶更だ。

 蜀の諸葛亮の弟子である姜維という将軍も、元はこの隴西の豪族だったのだ。

 そういった親族同士が、お互いの陣営に勧誘する、情報を探り合う、そういう忠義の仕事から、久々の挨拶や逆に内応の申し出、進物の要求といった私的な通信もある。

 ある程度は本陣で把握しているが、全ては把握し切れない。

 本陣としても私的通信を黙認している部分もある。


 大体、この五丈原の戦場自体が緊張感に欠けるのだ。

 両軍は丘の上に陣を張っているが、周囲は田畑が広がり、農作業をしている。

 魏の農民だけでなく、蜀も屯田兵を連れて来て、荒れ地に種を撒いて食糧を得ようとしている。

 魏の屯田兵も同様。

 両軍とも、陣地に敵を呼び寄せて戦いたい。

 それで田畑を挟んで、陣地間で罵声を浴びせ合ったり、使者を送ったり、時に田畑を荒らして小競り合いをしかけたりと、会戦を行う気が見られないのだ。




 対陣は長引いている。

 そんな中、ある男が魏軍の援軍としてやって来た。

 秦朗、字を元明という。

 かつて父が蜀の張飛に殺されると、母は曹操の側室になり、秦朗もそのまま曹操の養子となった。

 何進死亡後の何晏母子と同じ境遇である。

 学問に秀でた何晏と違い、秦朗は当時の誰もが知る無能者だった。

 にも関わらず、或いは周囲の名声からは程遠かったからか、皇帝は秦朗を寵愛した。

 その秦朗が二万の兵を率いてやって来た。

 司馬懿に挨拶をすると、そのまま少し離れた場所に陣を張る。


 とにかく守りを固めるという方針であり、魏の各将は陣地から出ない。

 そんな中で、秦朗の陣には商人の出入りが多くなっていた。

 不思議に思った司馬懿の副将・郭淮は、秦朗の陣地に出入りする者の正体を探った。

 そして、それが蜀の陣から派遣されている者と気づく。

 郭淮は司馬懿にそれを報告。

 司馬懿は本陣に秦朗を呼びつけた。


「確かに蜀より、大量の賄賂を受け取った」

 秦朗は悪びれずに、正直に語った。

 これには司馬懿も呆気に取られる。

「貴公、自分が何を言っているのか分かっているのか?

 敵から利益を受ける等、処罰されても仕方なき事ぞ」

「それは見返りに敵を利した場合だ。

 儂は蜀より、一個しか物事を頼まれておらん」

「それは何か?」

「このまま対峙が長引いた際に、大都督に対し休戦を提案して欲しいという事だ」

「それを受けたのか?」

「考えておくとしか言っていない。

 承諾して身を危うくする程、儂は愚かでは無いからな」

「そうか。

 それで、実際に対陣が長引いた時、貴公はどうするつもりか?」

「全ては陛下の御意のままに。

 陛下が兵を退けと仰せなら、それを大都督にお知らせします。

 そうすれば蜀が望んだ休戦の申し出をして欲しいという依頼も、同時に叶えることになる」

「そして蜀より受け取った金品は懐に入れる、か……」

「それの何が悪いのでしょう?」

「いや……」

 司馬懿は考えた。

 確かに蜀がこの男に大量の金品を贈ろうが、この男が蜀に対して便宜を図らねば、蜀の贈り損なだけだ。

 敵の賄賂を受けて、私欲を肥やそうが、敵を弱体化させるのにかえって貢献する事に繋がる。

 賄賂は見返りに何かをしてこそ意味があり、ただ受けるだけの相手に送っても無意味である。

 であれば、蜀軍が秦朗に送った銭金等、目を瞑っても問題は無いか……。


 司馬懿は秦朗を下がらせた。

 秦朗はこの後も、無能者に相応しく、陣を守るだけで何もしない。


「よろしいのですか?」

 郭淮は何度も司馬懿に苦情を言う。

 どこにそんな金が有るのか?というくらい、莫大な富が贈られている。

 これについて、諸将から不満が出ているという。


「そうか、そんなに不満が出ているなら、奴が蜀の為に僅かでも動いたら、即斬れ!

 また、戦いに敗れた時も同様だ。

 失態があれば、その場で処断せよ。

 陛下に対する責任は儂が取る」

「はっ!

 ですが、一向に動かなかった場合はどうします?」

「不満があろうが、そこは我慢せよ。

 敵から貰った銭金で酒宴ばかり開いていようが、それだけでは罪に問えぬ」

「むう……。

 仕方ありませんな、命令に従います。

 しかし、蜀の奴輩やつばら、一体何を考えてあの無能者に賄賂を贈るのでしょう?

 本気で陛下を動かして和議に持ち込もうというのでしょうか?」

「陛下に限ってそれは無い。

 陛下があの者を気に入っているのは、賄賂を堂々と受け取りながら、一切推挙も提案もしないからだ。

 賄賂を受けて人を推挙すれば、派閥を作る事に繋がる。

 陛下はそうやって派閥を作って評判を高めるような行為を嫌う。

 あの男が金品を受け取って、蜀と和議を、等と言ったら寵愛も冷めるであろう」


 結局秦朗は、この五丈原の戦いと呼ばれる戦役中、一度も動こうとしなかった。

 司馬懿が諸葛亮から金品と女性の衣服を贈られ

「戦場に出ないなら、それを着て、白粉(おしろい)でも付けていなさい」

 と侮辱された時も、周囲の「討って出て、女扱いした恥を雪げ」という声に同調せずに黙っていた。

 そして八月、諸葛亮が病死すると蜀軍は撤退開始。

 司馬懿の陣には、周辺の農民から蜀軍撤退の報が届く。

 魏軍はこれを追撃するが、蜀軍の計算された反撃態勢を見て「いまだ諸葛亮の策は生きている」と判断して、追撃を中止した。

 秦朗は、司馬懿の追撃命令に従って蜀軍を追い、追撃中止の命にも従って兵を退いた。

 全くもって蜀軍の為の行動を起こさず、郭淮も司馬懿も何も言えず終いとなる。




 九月、秦朗は洛陽に帰還する。

 皇帝に帰朝報告をし、蜀軍より多額の金銭を受けた事、だが敵の為になる事は何もしなかった事を正直に話す。

「流石は阿蘇(秦朗の幼名)だ。

 金銭を受けても何もしなければそれで良い。

 この金銭は、此度の戦の褒美と思って、そのまま受け取るが良い」


 秦朗は皇帝の御前を辞した。

 そして何晏らと会う。


「今回は危うかったよ」

「どうした?」

「司馬懿に怪しまれた。

 まあ、奴は金品を受けて、蜀の為の利敵行為をするものと疑っていたから、そうでない儂はどうという事も無かったが」

「あのような古い武将には、分かるまいよ」

「うむ、この銭は新しい時代を作る為のもの。

 新しい時代に、蜀も魏も無い。

 三国に分かれていようと、新たな学問や文化が中華を繋ぐ。

 蜀にいる親戚たちはそれを願い、我等に託しているのだ」


 貴公子たちは、秦朗が持ち帰った銭を分け合った。

 彼等は蜀の銭に取り込まれているのに、未だ気付いていない。

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