蜀の内情
自らを「漢」と名乗る、四川奥地の小国「蜀」。
この地の侮れない点は、塩・鉄を自給出来る他、山林豊かな事と銅鉱山を持つ事である。
鉄と銅は、かつては官営の精錬所が在り、そこで生産されていた。
天下を賄うに足る銅から、銅銭が鋳造される。
銅鉱から銅に精錬する時に使う木材もある。
水もあり、農業生産量も高い。
普通の者なら、その自給自足が可能な小王国の主として、富貴に生活するであろう。
しかし、諸葛亮という男はそれに安住しなかった。
劉備入蜀時の人材はとっくに失われている。
軍事の法正は劉備が漢中を手に入れた翌年、建安二十五年(西暦220年)に病死した。
通貨の劉巴も蜀の章武二年(222年)に若くして病死した。
塩・鉄専売を上手く行った経済の王連も蜀の建興二年(224年)に亡くなる。
劉備を支えた将軍たちも、関羽、張飛、黄忠、馬超が既にこの世にいない。
劉備の軍師であった龐統、馬良は死亡し、黄権は魏に亡命した。
魏初代皇帝文帝(曹丕)は、蜀はもう終わった存在だと思ったようだ。
文帝在位は僅か六年である。
その六年の内
・黄初三年(222年)、夷陵の戦いで蜀を撃破した呉の疲労をついて出兵、翌黄初四年(223年)まで戦うも撤退
・黄初五年(224年)、自ら十万の兵を率いて呉を攻撃、徐盛によって破られる
・黄初六年(225年)、やはり自ら十万の兵を率いて呉を攻めるも、孫韶の夜襲を受けて敗退
と四年間を呉との戦いに使った。
蜀を無視し、第二勢力である呉さえ撃破すれば良いとの思いだったのだろう。
この間に蜀は復活する。
魏は蜀に降伏勧告のみを送りつける。
諸葛亮はこれを無視し、逆に送り付けた魏の臣たちを批判する。
この批判した者には、同族の諸葛誕も入っていた。
魏の降伏勧告を拒否した諸葛亮は、呉の孫権と関係回復を行う。
度々の魏の攻撃は、第二勢力呉が第三勢力蜀を脅かす野心を削ぐ結果となった。
呉が蜀を吸収すると、いよいよ魏は呉を狙って、連年しつこく攻撃をするだろう。
蜀が未だ魏を討つ野心を持ち続けているなら、蜀は独立させたまま、呉の同盟国とし、魏の矛先は蜀に向けさせて呉は漁夫の利を得るべし。
蜀の北伐は、呉に対する安全保障ともなった。
諸葛亮は北伐ではなく、南方征伐から始めた。
そして昆明まで攻め込んだ諸葛亮は、この地の産物、兵士、税収を得られるようになる。
これが北伐の財源と兵力になった。
そして魏の黄初七年(226年)、文帝曹丕崩御、曹叡即位。
この機に諸葛亮は北伐に打って出る。
その奏上文が「出師の表」で、ここに諸葛亮の忠義と共に、頼みとする人物名が在った。
郭攸之、費禕、董允、向寵。
費禕は軍事、政治、外交に秀で、それでいて不仲の人間の間に入り、仲を取り持つような部分を持つ。
向寵は軍事に秀で、あの夷陵の戦いでも軍勢を無傷で帰還させた。
董允は皇帝の指南役であり、劉備の子にしては惰弱な劉禅を叱りつける役割である。
郭攸之は?
分からない。
元蜀の亡命者に聞いてもはっきりしない。
諸葛亮に「素直で真心があり、志は純粋である」と言われているが、これは能力とは関係無い。
逆に「郭演長は人に付き従うのみの男で、大事を謀るには能力が不足している」と批判されている。
蜀には他に、
諸葛亮に次ぐ優良な政治家・蒋琬
王連を継いだ経済の専門家・呂乂
と言う人士がいる。
逸材ではあるが、魏よりも圧倒的に優れている訳ではない。
劉巴の如き、曹操が欲しがるような人材ではない。
「少し視点を変えてみるか」
司馬孚が調べているのは、蜀の銭が多量に魏に流れている事である。
道の狭い隴西よりも、荊州からの方がより多い。
商人の行き来も頻繁である。
そういう「荊州」に注目してみると
王連 荊州南陽郡出身
董允 荊州南郡出身
郭攸之 荊州南陽郡
呂乂 荊州南陽郡出身
「ここらかもしれない」
銭を扱うには、算学の才能、財務の才能が必要である。
荊州は学問が盛んであるが、同時に商業も進んでいて、計算や通貨と物価について詳しい人材が多くても驚かない。
一方で、己が銭の魔力に憑りつかれぬよう、清廉潔白な人間が望ましい。
彼等が荊州経由での銭の供出に関わっているなら、辻褄は合う。
だが……
「やはり疑問なのは、このまま銭等を我等に渡さず、質の悪い銭を使い続けさせた方が彼等の得では無いのか?
悪戯に我等の通貨を増やし、それで彼等に何の得が有るのか、という事だ」
そしてもう一つ。
もしも懐柔策でいくならば、諸葛亮の北伐は余計なのだ。
戦う事なく、銭で魏の人間を懐柔する政策ならば、それはそれで良い。
だが、諸葛亮は毎年のように北伐を行った。
そこには何の裏があるのだろうか?
既に劉備の死の前に、諸葛亮が若き日に立てた天下平定の策は破綻している。
蜀は魏を倒そうとしても、呉の存在を気にかけねばなるまい。
しかし、諸葛亮は余程呉に信頼を置いているのか、呉との関係改善以降に呉からの侵攻を疑った形跡が無い。
呉にしても、関係改善以降は蜀と天下二分の相談する等、気を許している。
そして、蜀と呉は連携して度々魏に戦を挑む。
劉備の時代にも両者は連携をしていたが、その交渉はしばしば殺気を帯びたものとなり、領土問題と関係して最後には両者対決に至った。
それが諸葛亮以降は無い。
司馬孚は、諸葛……諸葛……諸葛……と考えていて、結局諸葛氏に聞いてみる事にした。
「よう来て下された」
司馬孚は諸葛誕に礼を取る。
諸葛誕、蜀の諸葛亮、呉の諸葛瑾と同じ琅邪諸葛氏である。
夏侯玄と仲が良く、曹爽とも親しかったが、司馬懿は曹爽粛清後も諸葛誕には手を出さなかった。
司馬懿四男の司馬伷の妻が、この諸葛誕の娘だからだ。
それもあり、諸葛誕は司馬一族と家族ぐるみの付き合いをしている。
諸葛誕は、同じ諸葛氏として他国に仕えた一族と交流を持っている。
もっとも蜀の諸葛亮には、劉備死後に送った降伏勧告の件で徹底的に罵倒され、絶交されているが。
「して、是非聞きたい事とは何でしょう?」
「うむ、まずはこれを見て欲しい」
「これは、蜀で造られた五銖銭ですな」
蜀貨はもう当たり前のものとして流通している為、特に驚かれはしない。
「この蜀貨が何か?」
「この蜀貨だが、何時から我が国に入っているか、そなたは分かるか?」
「いえ、そう言われると……。
しかし、朝廷は三分していても、互いの国を商人は行き来し、私のように同族と交流している者も多いのです。
故相国(司馬懿)も度々、蜀の武卿侯(諸葛亮)と手紙を交換していました。
昔からではないでしょうか?」
「そなたも銭金を貰っておるか?」
「…………」
「いや、咎める気で聞いてはおらぬ。
蜀貨は今や我が国で流通する銭として停止出来ぬ。
なれば、一体どれだけの量が入っておるのかを知っておきたいのよ。
教えてはいただけぬか?」
この辺、温厚で人当りの良い司馬孚は、警戒されやすい兄の故司馬懿と違って、本音を聞き出しやすい。
「なれば……。
年賀の挨拶や季節の挨拶で約百万銭、将軍就任では五百万銭程でした」
「それ程に!?」
「いや、左程多くは無いと存ずるが。
蜀の諸葛均(諸葛亮の弟)殿や呉の諸葛瑾殿、それぞれから。
儂も折々は金銀細工を贈ったりしておる」
(使用される銅銭と、高級品なだけの金銀では扱いが違うがな……)
「それでその、貴殿が同族と交流している事で、聞きたいのだ。
呉においては、蜀貨はどのように扱われているか。
亡き兄と儂は、蜀貨の流入量が多い事にちょっとした不安を感じておった。
そこで、そなたに呉の同族から、呉における蜀貨の事を聞いて欲しい。
ただし、我が国でも問題となっているとは悟られないようにな」
「承知しました」
暫くして諸葛誕は、同族ながら呉の諸葛恪の事を「人格者だった諸葛瑾殿に似ない、横柄者」と文句を言いながら、欲しい情報を返した。
「呉においても、蜀の五銖銭は品質が良く、どれくらいか分からないが、古くから使われているそうです。
呉王(孫権)は蜀より大量の銭を貰い、それを長江沿岸に配置した屯田兵たちに与え、開墾を担わせておるそうです。
どうやら、呉は最早蜀の銭が無いと、国土の開発に支障が出るようにございますな」
司馬孚にはようやく、蜀のやり方が見えて来た。
おそらく諸葛亮の戦略は、荊州・蜀他の複数路からの軍事侵攻が破綻した後、軍事と銭という複数の侵略に切り替わったようだ。
自分たちは、やっとそれに気付いた。
だが、魏は呉とは違う。
呉は蜀の貨幣で自国の開発を行っているから、知らず知らず蜀に飼い慣らされてしまった。
だが、開発の進んでいる中原を支配する魏に、その方法は通じない筈。
司馬孚は更に調べる必要を感じた。
司馬懿は生前、丞相に任じられるも辞退し、太尉の地位に進んで、そこで死んだ。
死後、相国に追任された。
相国は丞相と同じ宰相の地位だが、前漢では蕭何がなり、後漢では董卓が自任した。
格としては丞相の上。
司馬懿死後、太尉の後任は司馬孚で、司馬師は衛将軍、司馬昭は在任中の安東将軍から変化無し。




