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三国鼎立

 諸葛亮という、一大の英傑が居た。

 彼は徐州の生まれながら、幼い時に戦乱を逃れ荊州に移り、その地で学問を修める。

 故に彼は荊州人士とされ、多くの人材と繋がりを持っていた。


 劉備が諸葛亮を迎えた後に、彼の飛躍が始まる。

 明確な方針が立ったからだ。


 「天下三分の計」というのは、別に珍しい天下構想では無い。

 楚漢の戦いの時期、第三勢力と成りかけた「国士無双」韓信将軍に対し、彼の軍師が提言している。

 この時期も、華北で曹操の覇権が固まるにつれ、江南の孫氏政権を第二勢力として、第三勢力が結集して孫氏政権と組んで戦うべしという合従策等、誰でも考えついた。

 諸葛亮の場合、劉備に具体的な道筋をつけて説いた。

 彼の住んでいた場所に因む「隆中策」では


一、孫権と組んで荊州まで南下して来た曹操を撃退する

二、空白となった荊州を速やかに抑える

三、荊州を足掛かりに益州(蜀)、漢中を攻め取る

四、隴西に進出し、馬超・韓遂の勢力を糾合する

五、隴西、漢中、荊州の三路と孫権を説いて揚州から曹操を攻める


 といったようなもので、「天下三分」は過程に過ぎない。


 だが、「天下三分」を唱える者には一つの見落としが付き纏う。

 第二勢力が第三勢力の自分たちをどう考えているか、である。

 自分が第二勢力になって考えてみれば良い。

 第三勢力を糾合して、自らが第一勢力に張り合える規模になれば良いのだ。

 実際、孫権を支える周瑜と魯粛はそのように考えていた。

 周瑜は自らそれをやる、魯粛は曹操の脅威を分散する為に一時的に劉備を利用して行う、この程度の差である。

 よって、劉備が荊州と蜀を手に入れた時点で、劉備利用派の魯粛も、対劉備で牙をむく。

 第三勢力が第二勢力の自分たちより大きくなる事は望まないのだ。


 この時、劉備に仕える諸葛亮と、孫権に仕える兄の諸葛瑾の間で交渉が為され、表向き荊州分割で両者は講和した。

 曹操の脅威がある以上、戦ってはいられないという判断とされる。


 この一連の荊州争奪戦で、三国を渡り歩いた人物がいる。

 それが劉巴、字を子初、荊州零陵郡烝陽県の人である。

 後漢では、初代光武帝劉秀の「秀」を使用禁止とした為、秀才を「茂才」と呼んだが、劉巴はこの「茂才」として官吏に推挙されるが、応じなかった。

 荊州を治めていた劉表も度々招請したが、応じなかった。

 劉表の死後、曹操が荊州を制圧すると、劉備に従う多くの荊州人士と異なり、劉巴は曹操に臣従する。

 その後曹操が赤壁の戦いに敗れ、荊州南部が劉備の支配下に落ちると、孫権政権の影響下にある交州に逃げる。

 そこで太守と不仲になり、蜀の劉璋の元に逃げる。

 劉璋が劉備を蜀に招こうとすると、黄権と共に反対し、引き篭もってしまった。

 ここまで劉備を嫌いながらも、諸葛亮の推薦もあって、蜀に入った劉備の幕僚となる。

 そして出したのが例の大銭による財政不足の解決と、経済の混乱収拾であった。


 曹操は、懐に居た逸材を劉備に取られ、悔しがった。

 彼の穀物・馬・布のよる市場での決済承認は、諸葛亮の「天下三分」同様過渡期の政策に過ぎない。

 いずれはしっかりした五銖銭によって、通貨経済を復活させようとしていたのである。




 諸葛亮の戦略は、関羽の守る荊州を含む複数の進路から曹操を攻めるものと言える。

 そこで漢中攻略の次は、曹操軍がかつて攻略した益州上庸を孟達が攻め落とした。

 次いで、曹操によって故郷を追われた馬超一族が涼州返り咲きを狙う。

 そして荊州の関羽は、前進基地として荊州襄陽と樊城を落とすべく出陣した。

 この全てが揃ったなら、


・荊州襄陽より関羽が許都を攻撃

・漢中の魏延と上庸の孟達が長安を攻撃

・西涼出身の馬超一族が雍州涼州全体を攻撃


 と三方から曹操を攻めたであろう。


 曹操は襄陽防衛を命じたが、出した援軍が関羽に敗れる等して閉口し、帝を許から元の洛陽、更には自分の魏国首都の業に移そうかと悩んでいた。


 この脅威を完成前に打ち崩したのが、司馬懿の献策であった。

 孫権を動かす事。


 既に曹操は帝より王爵を得て「魏王」となっていた。

 一方劉備は、先に名乗り、帝に追認させて「漢中王」となっている。

 孫権はまだ非公式に「呉侯」と呼ばれているだけだ。


 孫権が曹操、劉備に劣るもの、それは人口である。

 孫権が荊州に拘るのは、人口を得る為であり、領土以上に死活問題であった。

 そこで司馬懿は、関羽の統治する荊州の残り西半分を餌にした。

 孫権は、一応同盟関係にある劉備・関羽にそれなりの礼を取るも、関羽の失礼に激怒し、敵対する。

 蜀は商業を優遇している。

 それに目をつけた呉軍は、嵐に遭った商人を擬装して関羽が設けた呉軍監視用の狼煙台に入り込んで中から占領、動きを察知されないように関羽の本拠地・江陵を落とす。

 事態を知って引き返して来た関羽を返り討ちにし、麦城で関羽の首を落とした。

 荊州の西半分を奪った事で、孫権は念願を果たす。

(そして関羽は商業の神となる)


 孫権が作っていたのは、長江を使った一大流通路であった。

 流通を支配したい者は、道路を作り、航路を開き、運河を掘る。

 しかしこれまで孫権陣営には建業という下流の経済都市は有っても、他が無かった。

 これでは首都に人も物も銭も集中するだけである。

 ところが関羽を破り、南郡・江陵・公安といった都市を手に入れる事で、長江中流域に二つ目の経済圏が出来る。

 荊州の関羽が支配していた地域は人口が多いし、洛陽や許都にも通じる商業が盛んな地域である。

 この二つが結ばれた事で両輪揃い、孫権の長江経済路構想は結実した。

 そして、国力増大に欠かせない人口も倍となる。


 国力が倍増以上になった孫権は、曹操、その死後は曹丕に臣従を申し出る。

 曹丕が漢皇帝より禅譲を受け、魏を建国すると、孫権はやっと「呉王」の爵位を得た。


 逆に蜀の劉備・諸葛亮にとっては致命的であった。

 国力を支える人口、商業圏、そして魏打倒の為の通路、これらを失った事で呉とは交戦状態に入る。

 政治上、戦略上の要衝として必要な蜀にとっても切実だったが、国家構想、何よりも人口増加が国の運営の為に必要であった呉もまた必死であった。


 魏に対抗すべく帝位に就き、国号を相変わらずの「漢」とした劉備だったが、攻めたのは魏でなく呉であった。

 巷で流布されている、諸葛亮が呉攻撃を止めたという話、あれは嘘である。

 特に反対はしていない。

 黄権という気骨ある武将がいるが、彼も「長江の流れに乗って下って進めば、攻める時は良いが、退く時は難しくなる」と、進攻方法を諫めたまでである。

「敵は魏であり呉ではありません」と諫めたのは、猛将として名高い趙雲くらいとされる。

 関羽の仇討ちとばかり見られるこの攻撃は、蜀の天下構想修復の為に必要だったのだ。


 この蜀に対し呉は何度も敗北するも、一年以上も耐え抜いて、ついに乾季に陸遜が行った火計で勝利する。

 多くの将が戦死し、北方を守っていた黄権はやむなく魏に亡命した。

 司馬懿は黄権を高く評価し、後々まで交際を続ける。


 余談であるが、呉の大都督に任じられたこの陸遜の陸家、後に丞相を出す顧家、将軍を排出する朱家、名士の張家は「呉の四姓」と呼ばれる裕福な豪族である。

 魯粛も裕福な家の出であり、孫氏もまた裕福な者たちに担がれている面を持っていた。




 蜀は呉に敗れ、荊州を完全に失う。

 それだけでなく、呉攻めの前に上庸の孟達も魏に寝返っていた。

 関羽生前に援軍を出さず、討死させた責任を取らされるのを恐れての事であった。

 涼州攻略を任せたい、異民族にもその名を知られた猛将・馬超は劉備に先んじて死す。

 打つ手、というか打って出る(みち)は漢中からの一路しか無くなった。

 まして、既に仇敵曹操は死亡し、その子は皇帝に上り詰め、最後の皇帝献帝は曹氏の庇護下で生活している。

 諸葛亮の討曹戦略は、政治的にも、軍事的にも破綻している筈だった。


 普通ならば、ここで政権は地方政権として、小領土の維持を目的としたものに移行する。

 しかし諸葛亮は未だ「討魏」の方針を変えない。

 単に諦めが悪いだけだろうか?

 それとも、別な戦略が立ったのであろうか?


 呉との戦いで消耗した国力を再度整え、兵を揃え、後背を固めると諸葛亮は魏との戦いに出る。

 五次に渡る諸葛亮の北伐が開始された。

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