鶏肋
劉備という男は、漢の中山靖王の子孫を称しているが、中山靖王は子孫が多く、本当かどうか分からない。
本当だとしても、もうほとんど価値の無い皇族名である。
実際劉備は莚を織り、行商をして生活を立てていたと聞く。
その義弟となった関羽という男は、塩の密売人の用心棒であった。
塩と鉄、生活と生産に不可欠なこの二品は、前漢武帝以来の国の専売品であった。
生活にも生産にも必要な物を国が専売で扱う、税と並ぶ漢帝国の重要な財源なのだ。
それを密売されてば、国は重要な収入を失う。
鉄は中々難しいが、塩は簡単だ。
質にさえ拘らねば、海水や岩塩のある地では簡単に生産出来る。
値段も、ぼったくりな国家価格より安ければ良い。
こうして国より少し安いだけのぼったくり価格で、塩の密売人は大儲けをしていた。
その密売人が、塩を各地に運ぶ際の用心棒として関羽という男を雇っていた。
ある日、関羽の属する解という地の塩商人が官軍の襲撃を受けて捕縛される。
関羽は北方の涿郡涿県に逃れる。
ここで劉備と出会い、義兄弟の契りを交わしたとされる。
だが、劉備という男は、関羽に限らず商人から信頼される不思議な相があったようだ。
中山の豪商・張世平と蘇双は、劉備を見て彼を支援する。
関羽と、もう一人の義兄弟張飛とで結成された黄巾の乱討伐の義軍も、この豪商たちの世話に依る。
劉備はその後、徐州の刺使として群雄の一人に成長する。
しかし、前任より譲渡されたこの地位は、呂布によって奪われてしまう。
苦境に陥った劉備を救ったのも、徐州の富豪・糜竺であった。
安定した地盤を持てなかった劉備だが、荊州の名士たちを幕僚に抱え、江南の孫権と同盟関係になってから飛躍する。
蜀の地で半独立状態であった劉焉の子の劉璋を逐って、蜀の地を手に入れる。
その劉璋に仕えていた劉巴という男は、劉備にある進言をする。
「百銭の貨幣を鋳造し諸物価を安定させ、国が管理する市を立てれば良いでしょう」
これまで秦が鋳造した半両銭、漢が鋳造した五銖銭とは、いずれも銅の重さを示している。
後の世に使われるメートル法による重さ表示だと、1銖は約0.59グラムで、1両は24銖で約14.167グラムである。
よって半両銭は12銖で約7グラム、五銖銭は約2.95グラムの銅貨となる。
しかし、半両銭は漢の時代に八銖でもって半両とされ、更に時代が下ると四銖で半両と改訂された。
半両という銭は質の低下により、インフレを起こしてしまう。
そこで五銖銭という新しい銭貨が制定された。
この五銖銭も、銅の重さで見ると4銖相当なのだ。
どの国家にしても、銅と等価で価格設定等しない。
付加価値をもたせ、4銖を五銖とする事で、銅1銖分を国家の収入にするのだ。
これは、限度を越えてやり過ぎると、あっという間に通貨の信用崩壊を引き起こすものである。
漢の財政担当は優秀だったようで、長い事五銖の品質維持と価値暴落を防いで来た。
その結果、長い事中華では、銭の1枚を「五銖」という単位で呼ぶようになる。
遥か後世の唐という国になり、「五銖」は「銭」という単位に置き換わる。
話を劉巴の進言に戻す。
財源不足の劉備陣営に、劉巴は「これは1枚で百枚分に相当するという五銖銭を作りましょう」と言ったのだ。
この銭貨の銅換算での価値は、8~10銖程度であり、到底百銖と等価値だとは言い難い。
しかし、既に漢全土で董卓五銖という悪貨による通貨信用崩壊が起きてしまっている為、良質の銭と、国の信用をもって「百枚分」とする事で市場の貨幣不足を補いつつ、悪性の信用崩壊を防ごうと言うものだった。
「儂にそのような信用が有るか?」
劉備の問いに、劉巴は呆れた表情で返す。
「流れ者の劉将軍の価値等ではなく、戦国時代の秦以来、長らく銅産地であった蜀、益州にこそ価値が有ります。
この地が安定していれば、銅はいくらでも取れます故、銭は信用を得られます。
秦はこの地を抑え、国を富ませ、それが始皇帝の七国統一の原動力ともなりました。
だからこそ、この地の豪族や武将は、統治の出来ない君主を追い出し、将軍を迎えたのです。
私は反対して逃げたんですけどね」
劉備はズケズケと言われたものの、笑ってそれを認めた。
やがて、蜀の市場だけに限るが、大銭は信用されて流通し、劉備陣営は保有する銅量を遥かに凌ぐ財力を持つに至った。
曹操は自領の生産力相応の経済を回復させたが、劉備は信用による付加価値によって、十倍まではいかないものの、生産力の3〜5倍相応の経済を持つ事が出来た。
これが非力な劉備陣営が、国土3倍、人口5倍という曹操陣営と戦う軍事力を支える。
劉備が蜀を制した時期、曹操は蜀への入り口に当たる漢中を制する。
この漢中は、張魯という男が宗教国家を立てていた。
道教系の五斗米道、五斗(約20リットル)の米の寄進で成り立っていた宗教と国家運営。
病気治療を主にし、師君張魯も財貨による儲けを行わなかった。
張魯は曹操に敗れて逃げる際、宝物庫に封をし、財貨をそこに置いていった。
「何者が支配するにせよ、統治に必要な財源である」
という理由からだった。
これが彼の命を助けると共に、漢中の価値を曹操に錯覚させる。
宗教としての五斗米道を認める一方で、曹操は漢中を蜀への入り口としてしか見なかった。
この際一気に蜀まで攻め入ろうと、司馬懿は曹操に進言する。
「隴(漢中)を得て蜀を望むか」
曹操はそう言って、際限なく深まる侵攻心を抑えた。
高望みし過ぎだ、という訳だ。
その時はそれで正しかった。
何故なら、蜀の要請を受けた江南の孫権が兵を発して合肥に攻め寄せて来たからだ。
その時は猛将張遼の奇襲で孫権軍の撃退に成功した。
だが再度の侵攻の気配があり、今度は曹操直々に濡須口を攻める事になった。
東方が風雲急を告げた為、蜀への侵攻を進言した司馬懿ですら、曹操の判断を支持する。
更に、漢中と合肥、翌年の濡須口の戦いを終えて都に帰還すると、今度は許都で反曹操の騒乱が起こり、金禕・韋晃らを斬っている。
深入りせず、引き揚げていなければ対処は難しかったかもしれない。
それでも後になって思う、さっさと侵攻しておけば良かった、と。
劉備は、曹操が東に兵を返したのを見て、漢中侵攻の準備をする。
曹操に先んじて漢中を手中にしたかったのだが、蜀を抑えたばかりで、その時期は国内が安定していなかった。
やがて劉巴の策で「当百五銖」による経済の安定を見る。
しかし、この大銭発行も一時的な効果しかないだろう。
国の信用で、大きな付加価値を付けるには、その政権が更に財源を持てば良いだろう。
劉備とその幕僚たちの目には、漢中の銅鉱山が見えていた。
地道に地道に、これまでの劉備の用兵とは違う粘り強さで漢中を蚕食していく。
ついに定軍山で曹操の挙兵以来の部下・夏侯淵を倒した事で、曹操は漢中に兵を戻す。
そして劉備は定軍山に籠り、一転して持久戦に出た。
機動力をもって攻めたい曹操に対し、劉備は守りに徹する。
長き対陣中、曹操はふと
「鶏肋……」
と言葉を漏らす。
鶏の肋骨は湯を作り、旨みも有るのだが、肉は無い。
惜しいのだが、実は無い。
それが曹操にとっての漢中であった。
曹操はやがて、旨みの無い山間の地より兵を退く。
劉備にとって漢中は鶏肋等では無かった。
金の卵、否、銅の塊を生む鶏であった。
こうして劉備は蜀と漢中という、銅産地を2つも手に入れる事に成功する。
劉備政権は、銭貨発行については最高の力を持った。
人口の少ない劉備の支配地では有り余る、溢れていく程の銅。
劉備支配地では、良質の銭による経済の安定が為され、少数の兵力ながら曹操と、まだ対等には遠いが、対抗して戦うに足る国力を得た。




