曹操の経済政策
司馬一族と魏の皇帝曹一族の縁は、司馬防と曹操に始まる。
尚書右丞で在った時、司馬防は若き日の曹操を、洛陽北部都尉(門番)に推挙した。
後年、飲み友達となった魏王曹操は、隠居の司馬防に尋ねる。
「今でも俺を都尉に推挙してくれるか?」
司馬防は
「昔、王を推挙した時は、年齢的にも閲歴的にもその官職が丁度良かったまでの事で御座います。
今はとてもとても」
そう答えると
「そうか、今の俺じゃ都尉は務まらんか」
と大笑いされた。
そして曹操は、司馬朗を召して行政官として登用する。
優秀な司馬朗であったが、一つ欠点があった。
病弱であった。
一時病気の為、任地を離れ、故郷に帰る。
快復後、再出仕し、見事な善政を敷いた事から曹操は中央に呼び出し、丞相主簿に任命する。
「君は優秀だが、時々病気になるのが心配だ。
君の手足となって働ける者はおらんか?
優秀ならば召し抱えたい」
曹操は司馬朗にそう話す。
司馬朗は
「我が弟、仲達(司馬懿)と叔達(司馬孚)を推挙いたします」
と答える。
「貴君の弟たちは優秀と聞いている。
君と比較してどうか?」
「叔達は私と同じ程度ですが、仲達について言えば、弟の方が遥かに優秀です」
曹操は驚いた。
如何に私欲少なく、公明正大な司馬朗とはいえ、こうもはっきり弟の方が優秀と言うとは。
「実は、崔琰殿が既に『君は弟に及ばない』と言っております」
曹操はこの時は儒学者でもある崔琰に敬意を表していた。
彼の人物評なら成る程とも思い、司馬懿を連れて来るように命じる。
だが、司馬懿は曹操に仕えるのを厭う。
仮病を使って断ったりもした。
しかし「無理やりにでも連れて来い」という命令に、仕方なく出仕を決める。
曹操は自らに長兄・司馬朗を仕えさせ、息子の曹丕に司馬懿を仕えさせた。
一歳下の三男・司馬孚は特に問題を起こさずに曹一族に仕える。
彼は曹操の子にして、詩文の才を認められていた曹植に仕える事となった。
だが、司馬一族を悲劇が襲う。
一族の惣領・司馬朗が遠征中に病に倒れ、帰らぬ人となった。
曹操は司馬懿を自分の直属に付ける。
司馬孚も曹植の文学掾から外す。
曹植は礼法に拘泥せず、酒をこよなく愛する、奔放さな天才肌の貴公子であった。
その為、時に行き過ぎた行為があり、司馬孚はそれを諫めていた。
曹植は司馬孚の苦言を嫌い、反発していた。
後に曹植は司馬孚にその非礼を詫び、苦言に対し感謝をするが、この時は司馬孚は曹植に嫌われていた。
司馬孚は兄の曹丕に仕える。
司馬朗には一子・司馬遺がいたが、この子は早逝する。
その後、司馬朗の死後養子として、一族の意志で司馬孚の長男の司馬望が入り、司馬朗家の後を継いだ。
彼等司馬一族から見ても、曹操という男はただ者では無かった。
彼も群雄の一人であり、強敵と戦い続けている。
董卓を殺し独立勢力となった呂布、かつて何進の副官として宦官排斥を指導した袁紹、その同じ袁家の出で肥沃な寿春を支配し皇帝を僭称した袁術ら。
彼等と戦いながら、曹操は苛政の為に土地を離れた流民を吸収し、土地に戻していく。
土地に戻す過程と、支配地域の経済安定化を同時にやっていた。
耕作者の居なくなった土地に流民を置く。
数年は税を半減する。
牛馬を持って来た者への税は更に軽くする。
最終的には五公五民と、決して税は安くない。
しかし、その時の換算で得をしたり損をしたりする銭での納税に限らない、そう布告した。
穀物での納税で構わない。
牛馬が子を産んだら購入する。
さらにここ最近は質が向上した布、反物での納税でも良い。
布、反物での納税可は、農民の負担を更に軽くした。
男性が農作業しているのと並行で、家事の間に女性が家で布を織れば良い。
こうして穀物、布、牛馬、そして労働力をもって税に代えた為、彼の支配地ではそれに価値が出て来た。
曹操は、穀物・布・牛馬に関する市場取引の規則を作る。
華北は銭の禍を一時的にだが解決し、実体のある物での取引によって経済が復活した。
長男司馬朗は、こうした曹操の内政を実践面で支えていた。
彼は地方官として各地に赴任し、名太守として慕われる。
司馬孚は兄の事を、決して銭金を無視した「儒学的な聖人」ではないと知っていた。
かつて董卓の元から郷里に帰った時、その堂々とした答弁で殺されはしなかったが、そのまますんなりと一族が帰れたものではなかった。
司馬朗は董卓やその側近に、銭金財産を賄賂、或いは国庫返還という形で多量に差し出した。
それもあって董卓は最終的に司馬一族の帰郷を許した。
司馬朗は遣う時には大金を遣うのだ。
一方、次男の司馬懿は金に吝かった。
締まり屋、賄賂を一切受け付けぬ聖人的な態度である。
司馬孚は、曹丕にも仕えた事から二つの理由を見る。
曹丕自身は、父親の「才能さえあれば陳平のような人材でも良い」という方針とは違う政治家なのだ。
陳平とは、漢の高祖の功臣の一人で、堂々と賄賂を受け取ったと言われる。
陳平がかつて仕えていた項羽の下から逃れ、敵陣営の劉邦の元に来た時、無一文であったという。
そこで陳平は、自分の仕事にも差し障りがあった為、彼に物を頼みに来た者に堂々と袖の下を要求した。
これを知った劉邦は「儂が仕事をするのに困らんだけの富を与えなかったのが悪かったのだ」と、陳平への俸禄を増やしたという。
そういう経緯は一切無視し、後の劉家の危機、呂后の専横時に酒を飲んで保身を図った等の事も加味され、陳平というのは「才能はあれど、人間的には卑しい男」とされる。
曹操はそれでも良いと言う。
曹丕は違う。
無能でも忠実で、裏切らぬ男を望む。
有能でもいかがわしい者を嫌い、富に卑しい者を殺す。
どちらかと言うと武人肌の気骨ある者を望む。
司馬懿は最初、この曹丕に仕えていたのだ。
また、司馬懿は行政官よりも武官として働いている。
主君の傍近くで働いている。
敵から買収されたりしないよう、いくらでも身を律していないと危険な立場なのだ。
司馬懿は、主君を脅かす野心を出さない、処罰されるような強欲さを見せない、敵に付け入られる隙を作らない、という厳しい身の律し方で曹操に仕えていた。
「だから宮仕え等したくは無かったのだ」
そう、弟たちに愚痴を零した事がある。
父の司馬防は息子たちに対しても厳格であり、兄の司馬朗は穏やかながら他人への悪口等は許さない質である。
司馬懿は愚痴と言えど、一度だけしか漏らさなかった。
こうしてある程度の立て直しに成功した曹操に、また新たな挑戦者が現れる。
その男、劉備は何度も曹操に戦いを挑み、何度も敗れていた。
だが、今回の挑戦は曹操も思いもかけぬ苦戦を強いられる。
漢という広い国土の財源をかけた戦いであった。
既に漢の造幣局たる蜀を抑えた劉備が、同様の鉱山の力を持つ漢中に侵攻して来たのだった。




