董卓五銖銭
董卓は地方で戦い続けて来た男である。
確かに粗暴にして狂暴である。
だが、名士を取り立てるという一面も持っていた。
漢は外戚・王莽によって滅ぼされた。
その漢を復活させた光武帝劉秀は、自分も学んでいた儒学を元に、気骨の士を育てる事を望んだ。
かくして後漢には、しばしば気骨ある士大夫が登場する。
宦官排斥を訴え、霊帝と宦官連合に殺された陳蕃もその一人である。
一方で、余りに学生運動が激しかった為、党錮の禁には「批判する学生」と「批判される宦官政治家」の対立という面もあった。
そういった清流派の士大夫で、董卓が司空に取り立てた者に、荀爽がいた。
曹操に仕え、魏の一大勢力となる荀一族の者である。
この辺、董卓がただの暴虐な徒でなく、きちんと政治をしようとした面を見る事が出来る。
董卓を暴虐の大魔王として有名にしたのは四つの事例による。
その一つが、商人の虐殺と財貨の没収である。
地方にいた董卓にしたら、困窮の原因であるにも関わらず、愚昧な皇帝と共に銭を集めて遊興に耽る都の大商人たちは許し難い存在であった。
呼び出しては難癖をつけて殺害し、その財貨を国庫に入れた。
続いて悪逆の名を招いたのは、漢代々の陵墓を暴いた事である。
この時期の葬儀では、儒学の「孝」を見せる為にも副葬品は大量に入れられる。
まして皇帝、皇族の葬儀ともなると、そこに莫大な財貨が埋められる。
埋められた財貨等使い道が無い。
董卓は掘り出して、再利用しようとした。
だがこれが、「儒」の世界では許されず、董卓は「帝室の祖の墓荒らしの悪人」となってしまう。
董卓は地方に銭が行き渡っていない事を十分に承知していた。
そこで彼は通貨を増やそうと考える。
彼は銭や副葬品の財貨を鋳潰し、新たな銭を発行した。
「董卓五銖」と呼ばれる銭である。
地方は中央に対し反発している。
銅の産地である蜀の劉焉は自立を図り、同じく銅の産地漢中には五斗米道という宗教国家が出来ようとしていた。
事態は理解したが、技術や経済に詳しい訳ではない董卓は、ただただ銭の量を増やした。
霊帝が宮中で遊んだ銭、十常侍ら宦官が売官で集めた銭、商人が得た銭、そして墓に埋まっていた銅製品を鋳潰して、大量に「粗悪な」銭を発行してしまった。
「悪貨は良貨を駆逐する」と言われる。
遥か後世、イギリスでグレシャムという男が君主に進言した事に由来する「グレシャムの法則」で知られる。
同様の事が、後漢末期に発生した。
董卓五銖が出回ると共に、旧来の良質な五銖銭は、土に埋めて隠されたりして使用されなくなる。
かくして粗悪な銭ばかりが流通すると、貨幣価値は徹底的に下がってしまった。
銭という面で、後にインフレと呼ばれる価格上昇が起きる。
しかし、これは借金の価値も下がるという側面を持っていた。
銭の価値が下がると共に、貧民に貸し付けていた商人たちは利を貪れなくなる。
借金の額は変わらぬが、支払われる銭は粗悪極まるもので、それで支払われてもかえって困る。
しかし銭は時の権力者が認め、流用を命じたものなのだ。
董卓は不要不急の土木工事を起こし、民を徴発して苦しめたが、それは農業に支障を来す一方、民に董卓五銖がばら撒かれて拡がる事にも繋がった。
商人は銭での取り立てより、農作物での返済を望むようになる。
さらにそういった商人たちが、後の貨幣改鋳を見越し、良質の銭をその時の為に埋めて隠す、つまり「良貨を蔵す」為、董卓は兵を出して殺し、土を掘り起こして銭を奪い、悪貨に作り直した。
この董卓が太師(皇帝の指南役)として臨する朝廷に、司馬孚や司馬懿たちの父・司馬防が仕えていた。
董卓に対し、同じく何進に呼ばれた地方武将でありながら、洛陽から離れた地に駐屯していて、董卓による暗殺と兵力吸収の難から逃れていた橋瑁が、打倒董卓の檄文を出す。
そして袁紹や曹操らも挙兵し、董卓打倒の兵が洛陽に迫った。
董卓が悪逆の名を着た最後の理由、洛陽放棄はこれで起きた。
既に洛陽は墓も掘り返し、商人も皆殺しにして、奪うものも無くなった。
銅産地は西方に在り。
董卓は洛陽を焼き払い、漢の古都・長安に遷都を行う。
そこが勢力圏であるのは確かだが、董卓には漢の古き治世回帰志向があったのかもしれない。
司馬防は董卓に従って長安に行く。
しかし、司馬防は息子たちに対し
「故郷に帰るように」
と命じた。
司馬孚は十歳ばかりで、長兄の司馬朗が一族を率いて故郷に帰る指揮を執った。
だが、司馬朗の帰郷は董卓に密告される。
司馬朗は捕らえられ、董卓から詰問を受ける。
「卿は先年亡くなった吾が子息と同年だ。
実の子と思って可愛がっておったのに、何故吾を見放すのか?」
僅か十九歳の司馬朗は悪びれなく
「尊公は孤高の徳義を持って災難の時代に臨み、邪悪な者どもを一掃して賢者を推挙しておられます。
これぞ虚心坦懐に配慮を巡らされている証、至高の治世は今にも勃興いたしましょう。
威光は高まり功業は明らかでありますのに、兵乱が日に日に起こり、州郡は鼎のごとく沸き立っています。
領内の民衆は家業に落ち着かず、住居を捨てて流浪しており、四方の関所を固めて刑罰を厳しくしても留まるところを知りません。
それが気がかりなので、帰郷を望むものであります」
そう答えた。
董卓は頷き
「吾もそう思っておった。
貴卿の言葉には重みがある」
と言って帰郷を認めたという。
それから六年、司馬一族は郷里を棄て移住先で生活していた。
司馬朗は
「この郡は洛陽に隣接しており、天下で義兵を起こした者は、必ずこの地に駐屯いたします。
ここは四分五裂の戦争の地なのです。
まだ兵乱が起こる前に一族こぞって黎陽へ行くに越したことはありません」
そう薦めた。
しかし故郷の者たちは従わず、司馬一族の他に趙咨という者が黎陽に移るだけだった。
果たして董卓討伐軍が西進ならず、四分五裂となると、司馬一族の故郷は多くの兵が通り、略奪を繰り返して酷い有様となった。
司馬朗が帰郷し、黎陽に移り住んで二年後、董卓は司徒王允・飛将軍呂布によって殺害される。
董卓の死から四年後、劉協、後漢最後の皇帝献帝は長安を脱出し、洛陽に戻る。
この献帝を曹操は許(三国時代に改名して許昌)に迎え、守護し始めた。
そして朝廷に仕えていた、父・司馬防が黎陽まで無事に戻って来た。
司馬孚もこの日の事はよく覚えている。
司馬防は子たちを集めた。
「伯達(司馬朗)、この後は一族を率いるべし」
やがて司馬朗は、漢の司空となった曹操に呼び出され、彼に仕える事になる。




