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薔薇:30本→「縁を信じています」



 レオニスが歩く廊下の石畳は冷たく、淡い蝋燭の光が壁に沿って揺れていた。舞踏会の喧騒から離れ、離宮へと続く王宮の回廊は、人影ひとつない静寂に包まれている。足音ひとつが異様な重みを持ち、反響するたびに空気が震えた。レオニスは幼いころからこの王宮から僅かな欠片ほども、温かさを貰ったことがなかったことを思い出す。自分が生まれ育ったこの場所。この国で最も気高く、恵まれた場所であるのに、レオニスはここが燃え落ちてしまえばいいのにと、幼いころからずっと思っていた。


「王太子」


 前方から低く呼ぶ声。思考に沈んだ顔を上げると、皇帝、母、倒すべき敵、クラウディアが淡い嘲笑を浮かべて立っていた。レオニスは自然とレイチェルの手を握り返す。彼女の小さな掌のぬくもりだけが、レオニスにとってやさしい心を思い出させてくれるものだった。


「母上」


 レオニスの声はわずかに震える。婚約破棄の舞台を母が阻止したのは明らかだった。母はヴィクトリア・ラ・メイの、彼女の持つ色を盲信している。クラウディアの目には冷徹な光が宿り、レオニスの言葉を聞く価値のあるものとして捉える気がない。


「ヴィクトリア・ラ・メイとの婚約破棄など――許可しません」


 その言葉は鉄のように硬く、帝国を背負い続けた母の威厳が石畳に響き渡る。酒や男に溺れようと、それでもクラウディアは帝国の皇帝として君臨し続ける女だった。


「側室なら、まぁ、良いでしょう」

「母上、私は……レイチェルこそ、真実の愛の証として王太子妃に――」


 必死の訴えも、クラウディアにはただ子供の戯言にしか映らない。クラウディアの目は揺れず、微笑みもまた冷たく、皮肉を含んでいた。レイチェルの目の前で、母に愛されぬ子であることを明らかにされ、レオニスは羞恥により顔を赤くする。


「真実の愛?ホホホ、笑止千万。戯言を……」


 廊下の静寂を切り裂く声は、空気をさらに重くする。


「母上、お願いです! レイチェルを、私の王太子妃に――」


 レオニスは引き下がらなかった。自分がレイチェルを選んだのはただ愛したからだけではないと訴えた。彼女はルドヴィカの聖女だ。その影響力は計り知れず、大国に渡り合えるだけの力をルドヴィカは持っている。ドルツィア帝国が聖女を王室に迎えるということは、けして悪い手ではないと必死に食い下がった。このような言い方をするのは、レイチェルの手前不本意だったが、レイチェルは自身がルドヴィカの聖女であることに誇りを持っている。それを含めて君を愛していると言うと、レイチェルは花のように笑った。


 レオニスは拳を握り、必死に声を震わせた。


「母上、国のためというのなら……レイチェルこそが、私の真実の愛であり、私の王太子妃としてふさわしいのです!」


 回廊の冷たい空気が、言葉の緊張で張り詰める。クラウディアは眉をひそめ、笑みを失い、ため息のように声を落とした。


「叫ぶだけが愛なら、これほど容易いものはない……」


 母の拒絶は変わらなかった。レオニスはこれまで一度も自分の主張が母に通ったことはなかった。わかっている。だからこそ、ルドヴィカの聖女、神官たちを大勢前にした状況で、ヴィクトリア・ラ・メイの悪行を突きつけて、正義がどこにあるのか、自分の振る舞いに価値があることを母に認めさせようとした。それなのに、母は、クラウディアは、皇帝は、レオニスにそんな一矢報いる機会さえ与えてくれなかった。


「……お義母様、よろしければ……ワインはいかがです?」

「……レイチェル?」


 健気にもこの重々しい雰囲気をなんとかしようと試みてくれるのか、レイチェルが無邪気に微笑んでクラウディアに近づいた。そこにはメフィスト・ドマが振る舞ったワインのボトルが握られており、レイチェルは優雅な手つきでワインを注ぐ。


「……」


 クラウディアは酒を好んだ。芳醇な香りが一歩離れた所でも感じることができるワインは絶品であろうと経験則から感じ取り、僅かに興味をそそられたように目を細める。


「どうぞ、お義母様」


 レイチェルは微笑み、グラスをクラウディアに差し出す。


 が、その瞬間、廊下の奥から重厚な足音が響いた。


 現れたのは、月夜に輝く銀の髪に青い瞳の偉丈夫。レオニスは一目でこれが薔薇の大君の懐刀、英雄卿、ルシウス・コルヴィナス卿であるとわかった。


「……ルシウス・コルヴィナス卿」


 この場で現れた英雄卿。レオニスは歓喜した。


 薔薇の大君の名を汚す黒薔薇を、この男は葬ってくれるだろう。


 だが次の瞬間、ルシウスの抜き身の剣はクラウディアではなく、レオニスに振り下ろされた。


「レオ!」

「!?」

「なぜ驚く。ロバートから聞いていないのか」


 咄嗟にレイチェルがレオニスの腕を引いた。石畳が割れる。レオニスが立っていた場所が、無残に砕けた。レオニスの脳裏にヴィクトリア・ラ・メイの顔が浮かぶ。すべての惨劇の原因、そしてこの絶望の象徴。レイチェルの動作があと一瞬遅ければ自分が真っ二つになっていたのは明らかだ。レオニスは蒼白になる。


「なぜ、薔薇の大君の名を汚しているのは……!」


 怒鳴るレオニスを無視し、ルシウスはレオニスを蹴り飛ばした。回廊の壁にレオニスは叩きつけられる。呻く声。レオニスは状況が飲み込めなかった。まさか本当に、ヴィクトリア・ラ・メイの名付け親だとかいう、そんな程度のことで自分に報復しにきたというのか。頭の中が混乱する。


「殿下!!」


 だが、ルシウスとレオニスの間に割って入る者がいた。剣を構えた白銀の甲冑の、ルイス・ロートンだ。友人ではある。側近の一人にと考えていた。だが、ルイスはロートン公爵により勘当されたと聞いている。


 ルイスは剣を構え、レオニスを庇うように前に立ちはだかる。剣を振るうルシウスの腕を正面から受け止める。金属の衝撃音。力の差は歴然としていた。


 レオニスは背後で、ヴィクトリア・ラ・メイの微笑を思い浮かべた。自分が今こんな惨めな目にあっているのは、あの女の所為だった。整った顔の裏でどれほど多くの人々を欺き、傷つけたか、レオニスは自分が一番良く知っていると確信している。


「ルシウス・コルヴィナス卿、私はヴィクトリア・ラ・メイの悪行を――!」


 言葉に力が籠もる。回廊の石壁が震えるように反響し、ルシウスの眉がわずかに動いた。ルシウスは冷たい瞳を光らせ、ルイスは剣を握り締める。


 ルシウスの剣は止まらない。振るうたび、石畳が割れ、壁が裂ける。ルイスは片腕を削られ、膝がガクッと崩れる。回廊の狭間で三者が入り乱れる。ルシウスの剣先が石柱を砕き、破片が飛び散った。レオニスは彼らの間を縫うように走りながら、起死回生の一手となると信じ、緊張の中で、一歩前へ踏み出した。


「あの女は自分が薔薇の大君の色を持っていることを鼻にかけていたんだ!卿もあの女の持つ色に惑わされた被害者に過ぎない!目を覚ましてください!」

「コルヴィナス卿!私は貴方の知らないヴィクトリア・ラ・メイの本心を知っています!」


 レオニスの叫びと、ルイスの叫びは重なった。


 ルシウス・コルヴィナスがルイスの首を掴み、石畳に叩きつける。甲冑の砕ける音と呻き声。嵐のような暴力だった。レオニスは全身の筋力を総員して逃げ出すが、すぐに自分が追い付かれることはわかっていた。剣の衝撃が壁に残響し、冷たい石の匂いが鼻腔を満たす。ルシウスは追跡をやめない。銀色の髪と青い瞳が、まるで影そのもののように迫る。レオニスの心臓は、耳鳴りと呼応するかのように速く打つ。


「っ」


 剣が振るわれる。二度目のこれは聖女の幸運が間に合わない。レオニスは走った。走る方向が決まっていた。


 レオニスはクラウディアを盾にし、ルシウス・コルヴィナスの剣を自身の命から遠ざけた。


「……」


 息子に身代わりにされた黒薔薇は、一瞬目を大きく見開いたが、袈裟がけに斬られ、その場に崩れ落ちても呻き声一つ上げなかった。


「レイチェル!」


 レオニスは再びレイチェルの手を取り、走り出す。廊下の角を曲がり、視界に入る影を避けながら加速する。石畳のひび割れに足を取られそうになりながらも、レイチェルの手を離さない。彼女の微かな震えを感じつつも、振り返る余裕はない。回廊の奥、薄暗い灯火がちらつく先に、かすかな開口部が見える。離宮へと通じる扉だ。そこを抜ければ、少なくともこの追撃の手からは一時的に逃れられる。レオニスは最後の力を振り絞り、レイチェルを庇いながら一歩ずつ前進する。剣の影が壁を滑り、金属音が耳を切る。心臓の鼓動が耳に響き、冷たい石畳が足裏に突き刺さる感覚が連続する。だが、レオニスは後ろを見ない。ただ、母が死んだ、死んでくれたという喜びは、彼の足を速くした。



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