薔薇:11本→「最愛の人」
建国記念のパーティーともなればレオニスがいつまでも一所に留まることができるわけもなく、レイチェルがドマ家の見事なイエローダイヤで身を飾るのを見届ける間もなく、レオニスは部屋を出て行った。残されたメフィストはレイチェルに、今回の最大の目的である品を納品した。
「……まぁ、これはワインかしら?」
不思議そうにレイチェルは首を傾げる。メフィストが渡してきたのは一本だが、これから行われるパーティー会場にて参加者全員に振る舞うに十分な数を用意してきたことを告げた。
一本をレイチェルの目の前で開けて見せて、ワイングラスにメフィスト自ら注ぐ。一見は何の変哲もない、香りのよい最高級ワインだ。ヴァリニ子爵家のワインセラーにも納められることのなかった幻の一品で、これは父エリック・ドマがラ・メイ伯爵夫妻の三十年目の結婚記念日に匿名で贈ろうと密かに集めていたものだったが、もう親父は死んだので自分がどう利用してもいいだろう。
「あぁ。俺もこれでも色々考えたんだぜ?どうすりゃ一番皮肉が聞いてて最高のエンターテインメントになるかってな。蟲や動物でアンタの神のしもべを増やすなんて不敬だろう?悪魔の使いじゃあるまいし。なら、信者どもに「これは神の血だ」と言って広めればいいんだ」
もちろん今夜振るう最高級のワインではないが、要はメフィストがレイチェルの要望に応えるために用意した「手段」は「神の血のワイン」である。
今いる信者、神官たちの信仰心が本物、本心からのものなら誰もがためらわずに飲み、そして自分の愛する人に「これを是非に」と勧めるだろう。
メフィストは優雅にワイングラスを揺らす。
「信仰の布教率が高い、為政者が脅威だと恐れるのはそれらが人の善意によるものだからだ。誰もが「自分が知る限り、これは最も素晴らしく、幸せをもたらすものだ」と考える。不幸なやつを見つければ「だからこそ、これが神を信じるべきだ」と真剣に訴えるんだ。病めるもの、悩めるもの、遍く。ハハハッ、親切心、あるいは同情、正義の心からな。完全な善意ってやつはどんなものよりタチが悪い」
彼ら彼女、ルドヴィカの信者たちの信仰心、この宗教が良い物だと心から信じ、他人への愛が本物なら。彼らの愛と善意はメフィスト・ドマの悪意よりも素早く正確に国中を周るだろうとメフィストは笑った。
レイチェルは気に入りの侍女を呼び寄せて、ワインを勧めた。突然の状況に若い娘は狼狽えたが、レイチェルが「一緒にお祝いして欲しいの。今日、わたくしは王太子妃になるってみんなの前で発表してもらえるのよ」と花のように微笑むと、善良でレイチェルを愛する侍女は喜んでワインを口にした。
王宮の侍女ともなれば身分の高い令嬢がその立場につく。侍女は貴族家の娘としてワインの味もよくわかる教育を受けており「まぁ!」と一瞬素の表情であまりの美味しさに声を上げた。
「気に入ってくれてよかった」
レイチェルとメフィストは互いに顔を見合わせて微笑む。そして侍女がレイチェルにお祝いの言葉を告げると、その体は一度大きくビクン、と震えた。
もがき苦しむ若い娘。喉を掻き毟り、のたうち回った。美しい貴族の娘の顔が歪み、苦しみ、この世の苦痛のすべてを受けたような必死な形相。
「それにしてもアンタ、マジで似合うな。その宝石」
「あら、お世辞じゃなくて本心?珍しいわね」
「外見だけなら好みなんだがなぁ」
「うふふ、借り物じゃなくて本当にわたくしに贈ってくれてもいいのよ?」
目下で惨い状況が繰り広げられていてもレイチェルとメフィストは気にも留めない。やがて侍女がビクンビクンと小さく震え、動かなくなってから、レイチェルは思い出したかのように侍女の傍にしゃがみこみ、ぽん、とその肩を叩く。
「まぁ、起きて頂戴?夢を見る時間は終わったのよ」
「……………はい、巫女様」
「ごきげんよう」
何事もなかったかのように毅然として侍女が、侍女の顔をした生き物が立ち上がる。レイチェルはそれを満足そうに見上げて微笑んだ。
「あぁ、楽しみだわ。レオにワインを注ぐのは絶対にわたくしが行います」
「……王太子にも飲ませるのか?」
「えぇ。だって、愛しているんですもの。当然でしょう?」
主語がどこにあるのかと、メフィストは聞かなかった。なるほどなぁと、ただニヤニヤと黒縁眼鏡の奥で笑う。
「言っとくが。そのワインの毒は俺にゃ効かねぇからな」
「あら、そんな心配はしなくていいのよ?わたくしたちお友達でしょう?メフィスト、貴方はわたくしにとって大切な人だもの」
「……」
この言葉はメフィストの魔眼でも「本心」であるように感じられた。聖女レイチェルという女について、関わるにつれてメフィストは最初に抱いていた嫌悪感が徐々に薄れている自分に気付く。ただ圧倒的な原始的な嫌悪感はそのままに、レイチェルが笑っているのを見ると妙にざわつく自分がいた。
「それで、アンタは?王太子が迎えに来るまでここで待ってるのか?」
「えぇ。メフィストは?パーティー会場へは一人で行くの?」
「あぁ。連れて行きたい女は先に来てるだろうしな。会場で落ち合うさ」
「相手の気持ちを尊重しない男性は嫌われるのよ?」
気の毒そうな顔でレイチェルはメフィストに忠告するが、他人の意思をそもそも踏み潰して塗り潰す女が言う言葉には何の説得力もない。
*
建国記念の舞踏会場は、シャンデリアの光に照らされた大理石の床が鏡のように輝き、貴族たちの豪奢な装いが波のように揺れていた。華やかな衣装と香水の香りが交錯し、笑い声と談笑が渦を巻く。その中で、王太子レオニスはすらりと背筋を伸ばし、胸を張って舞踏会に姿を現した。傍らには王太子妃としての威厳を纏った美しい銀髪の少女、レイチェルが寄り添い、自然な笑みを浮かべながら群衆の注目を集める。貴族たちはひそひそとささやき、その視線は二人に吸い寄せられる。夜の主役が登場した瞬間だった。
だが、その視線の全てが純粋な祝福ではない。王都で歌われる英雄卿凱旋の歌は今の王室を「薔薇の大君の後継に相応しからぬ黒薔薇、そしてその苗」と見なしている。地方貴族の娘との婚約を破棄し、レオニスがルドヴィカの聖女を王太子妃に選んだことは、王室の権威を回復させるための計算された行動と見なされた。貴族たちは、レオニスが政治的判断のできる王族であることを認めつつも、内心では複雑な感情を抱えていた。
ただ赤い髪に青い瞳の娘であっても、その姿は薔薇の大君を彷彿とさせ、それだけで得られる支持もあっただろう。はたしてそれらはルドヴィカと手を組むこととどちらがより「適していた」のか。貴族たちは今夜のこの建国記念のパーティーで王太子レオニスの器量が明らかになるのだと期待していた。
その熱気の中、異質な気配が空気を切り裂いた。宰相クロヴィツが現れたのだ。陰気な顔、黒々とのっぺりとした髪。どれほど豪奢な衣装を纏っていようと、その姿には威厳がなく、ただ陰影だけが際立つ。だがその横に立つ赤い髪、澄んだ青い瞳の令嬢――カッサンドラ――の存在は、場の空気を一変させた。豪華な衣装に身を包んだその姿は、隣にいる醜い男の存在さえ霞ませ、人々の視線を釘付けにする。
「まぁ、あれは……ラ・メイ伯爵令嬢?」
「あら……でも、伯爵家は」
赤い髪に青い瞳の令嬢と言えば誰もがラ・メイ伯爵令嬢を思い浮かべる。ラ・メイ伯爵家が処罰されたことは彼らも当然知ってはいる。その娘であるヴィクトリアは行方不明になったと聞いていた。であれば、噂に聞くドマ家の隠された長女だろうか、とも彼らの話題は変わっていく。
「……ヴィクトリア」
だが、クロヴィツに伴われる令嬢の姿を見たレオニスは、彼女がヴィクトリアであると確信した。レオニスの瞳にはヴィクトリアへの嫌悪感が浮かんでいる。
「クロヴィツ、どういうつもりです」
公式の場で、レオニスはクロヴィツのことを「父上」とは言わない。前に進み出て、宰相が伴った女性について問おうとする。いや、女性についてはヴィクトリアだと考えているので、レオニスが聞きたいのは彼女が纏う衣裳についてだ。
ヴィクトリアのドレスは純白に近い淡い青で、王太子妃の格式を思わせる優雅な装いだった。その姿を一目見た瞬間、レオニスの心の奥底で断罪の炎が再び燃え上がる。
彼の視線は鋭く、瞬く間に王太子の威厳を帯び、群衆の前で迫る影のように立ち塞がる。
「ヴィクトリア、なぜ貴方がここに?それにその衣装は……貴方が纏うことを許されているものではない」
「……」
クロヴィツの一歩後ろにいる赤い髪に青い瞳の令嬢は黙して何も語らなかった。ただ黙ってじっと相手の話を聞いている。そして微笑んで、その話を受け止める。ヴィクトリアらしい態度だ。レオニスは苛立った。彼の中で既にヴィクトリアは「断罪すべき存在」となっている。
「殿下、何を仰るのでしょう。彼女こそ王太子妃となるべく御方として、王室に迎え入れられるべきではございませんか」
クロヴィツは冷静に微笑む。令嬢の腕をそっと取り、堂々と舞踏会の中心へと進んだ。その姿勢には、意図的な演出の匂いが漂うことは明らかだった。
参加した貴族たちは、宰相と王太子の対立を感じ取る。なるほど王太子は神殿の力を王室に新たに求め、宰相は薔薇の大君の御威光を信じている、と。貴族たちの中にはクロヴィツへの嘲笑もあった。先代皇帝に見出されただけの奴隷女の寝所に男を送り込むことで何とか今の地位を保っている蟾蜍。クラウディアと自分の地位を守るためにも赤薔薇を玉座に添えることに必死なのだ、と。
レオニスは生まれながらに人々に値踏みされることに慣れてきた。そのため、周囲の感情の変化に目ざとく反応し、瞬時に判断を下す。
「ヴィクトリア、君とはこの場で正式に婚約破棄する!」
その声は低く、群衆のざわめきを切り裂き、舞踏会場に重く響いた。
しかし令嬢は微動だにせず、静かにクロヴィツの腕に寄り添い、冷ややかな瞳で王太子を見返していた。その視線の奥にあるもの――威圧か、怯えか、あるいは静かな挑発か――は、群衆には計り知れない。舞踏会は一瞬にして静まり返り、レオニスの決意と、赤い髪の令嬢の静謐な存在感が、まるで舞台装置のように観客を圧倒した。
役者、そうだ。自分はいつだって役者だったとレオニスは受け入れる。だが主演であるつもりだった。そうでなければなぜ自分は生まれてきたのだろう。
レオニスはレイチェルを背に庇い、堂々と威厳のある態度でヴィクトリアを睨みつける。
「ヴィクトリア、なぜ君がここにいる。君とは卒業式の日に、婚約を解消したはずだ。そしてラ・メイ伯爵は王家に背いた。罪人の娘である君がここにいられる理由がない。たとえ宰相が庇護していても、だ」
レオニスはは腕を振り上げ、全員の視線を自分たちに集めた。
「君に王太子妃の資格はなく、私の心に誓った女性は、ただ一人――ルドヴィカの聖女、レイチェルだ」
群衆の間にざわめきが走る。王太子が叫ぶのは正統性があってのこと、確信、根回し、証拠、それらの全てがきちんと揃っていてのことだろうが、それにしても、赤い髪に青い瞳の令嬢をこうも公然と侮辱するのは、あまりにも貴族社会を知らなすぎる若造の振る舞いのようだった。
今この場には大勢の貴族が参加している。古い家門、かつての大戦で薔薇の大君と駆けた老貴族もいる。彼らはヴィクトリア・ラ・メイ伯爵令嬢の成長を楽しみに、そして卒業後にこのパーティー会場で会えるのを待ち望んでいた。たとえラ・メイ伯爵家に醜聞があろうと、かつての大君の姿を思い出させてくれる令嬢の姿を求める者は多く、それら貴族を敵に回すとまではいかずとも、あまり良くない印象を与えかねない振る舞いだった。
黙していたヴィクトリア・ラ・メイ伯爵令嬢、と思われる少女は一呼吸おいて静かに一歩前に進み出た。赤い髪に青い瞳の美しい少女。静かに前に向ける瞳は鋭くレオニスを射抜いた。
「王太子殿下、レイチェルは王太子妃にはなれない」
その声は柔らかくも鋭利で、舞踏会の煌びやかな光を切り裂くように響いた。
レオニスは一瞬、視線を逸らすことなく、強く息を吸い込む。しかし、心の奥で違和感が芽生えた。何か――どこか、思い出せない何かが胸を刺す。違和感だ。何か違う。だが理性はそれを打ち消す。目の前の相手は「ヴィクトリア」、婚約を破棄すべき元婚約者なのだ、と。
「無礼な。なぜ君がその判断を?君のような女が!」
レオニスは卒業式で行ったように、ヴィクトリアの悪行の数々を口に出した。レイチェルを孤立させようと令嬢たちのグループを操ったこと。彼女の私物を隠すように他の令嬢に指示したこと。レイチェルがレオニスに近づかないように「忠告」という名の暴力を振るった事。それらを並べ立て、堂々と「お前は王太子妃に相応しくない」「悔い改めて修道院にでも入れ」と突きつけた。
「…………」
学生たちの、貴族の子息令嬢たちの集まるパーティーでは、このレオニスの堂々とした訴え、断罪、糾弾は素晴らしい英雄の姿として良く映えた。正義と悪の対比がはっきりし、誰もがレオニスに賛同し、ヴィクトリア・ラ・メイを悪女と罵って、そしてヴィクトリアは床に押し付けられた。
だが今は、違った。
最初に聞こえたのは、老貴族たちの失笑するような笑い声だった。
そして次に、中年の男性や女性たちの苦笑するような音。それらはかすかなものだったが、朗々とレオニスの声が響いたように、今この会場には音楽が流れておらず、人々の吐息は隣によく聞こえた。
「子供の悪戯ではないか」
「本気でこの程度で、王家の婚約が破棄できると」
「ははは、まさか。王太子殿下、ははは、まさか殿下。あまりにも道化を演じすぎますよ」
「なんだ、これは余興でございますか」
「すっかり殿下に騙されました」
「いやはや、そうでございましょう。薔薇の大君からの御恩を裏切って、他国の女を選ぶなど」
あぁ、なるほどと貴族たちは理解した。確かに昨今は王室の求心力も薄れ、ルシウス・コルヴィナス卿による薔薇の粛清が起きている。ドルツィア帝国は他国のようにルドヴィカに国の半分を渡すか、あるいは東大陸のアグドニグルのように極端に排除するかのどちらかの選択を迫られている過渡期であった。
このお芝居の筋書は、他国の女に目がくらみ、児戯のようなものを「悪行」だと判断させられた愚かな王太子が、薔薇の大君の色を持つ女性により正しい心を取り戻し、共にルドヴィカを排除し、かつての帝国の威光を取り戻す、というものなのだと、貴族たちは納得した。




