薔薇:3本→「告白」
妙な夢を見た。
この体に入る前の記憶かと思ったけれど、それにしては、「そんなことあったっけ」と覚えていない記憶だった。私は日本のそれなりに大きな街で暮らしていて、いつものように仕事をしていた。不思議なことに何の仕事をしているのか、認識できない。でも「仕事をしていた」という認識があって、それが終わって、そして、外食でもしようかと夜の街にでかけた。そういう状況であることがすんなり入って来た。けれどその先、そのあと、私は「死んでしまった」という気持ちになった。知らない記憶と、知らない気持ちだ。私は死んでないはずなのに。死んでなくて、魂がヴィクトリアの死体に憑依したはずなのに。死んで終わった記憶がある。
次の夢も妙だった。
とにもかくにも白い物で覆われた部屋の中。神聖と言えば神聖な雰囲気だが、聊か潔癖が過ぎるような。張り付けた笑顔の見本を浮かべる女性が赤ん坊の私を抱き上げて子守歌を口ずさんでいる夢だった。豪華というより荘厳な。神殿のような広い場所。厳格な顔をした人が大勢いて、ひときわ位の高そうな、気難しそうな顔の男性が赤ん坊の私を一瞥し忌々しいものでもみるかのように顔を顰めるので『お前を子煩悩のパッパにしてやるからな』と、夢の中の、赤ん坊の私は誓ったようだった。
夢の中で、誰もが私のことを「レイチェル」と呼んだ。
とあるとても大きな帝国の王室に。皇帝と聖女の間に生まれた皇女様。子供を産んだことで聖女の資格を失ったお母様は人が変わったようになってしまったとかで、自死された。
それはそれとして、生まれながらの聖女、レイチェルと歌われ愛され求められて、そうして銀の髪に白い服を着せられて育てられた女の子。うつろな目をしたお父様をせっせと「娘溺愛に改変してやる」と十数年ほど頑張っていた私だったが、パッパを娘ラブにしすぎたせいで皇后さまやそのほかの兄弟姉妹たちから疎まれた。留学経験を積むべきだというのと、布教活動を真面目にやれと言われて飛ばされた。
そうしてやってきた、ドルツィア帝国。言語からやれというのはあまりにも無茶ぶりだったが、聖女というのは不思議なもので、その土地に信者がいれば、言語が異なっていても同じ言葉を話しているように意思疎通ができるようだった。右も左もわからない、他国の貴族たちの集う学園で、自分の名前と立ち位置と、妙に言い寄ってくる婚約者付きのはずの王太子の存在に、ふと「もしやここはあの小説の世界に似ているんじゃないか」と気付いたあたりで、夢の中の私が少しだけ私とリンクする。
その夢の中。私は一生懸命、ヴィクトリアの「脱悪役令嬢」を試みた。と言っても、どうすれば物事がうまく進められるかわからない。私には秘密の友人がいた。毎晩、神殿の私の部屋の扉の向こうにやってくる声だった。話しかけられた時に「不審者ー!」と通報しようとしたところ「普通、神聖な場所で声がかかったら神の啓示だなんだのと思うんじゃねぇのか」と呆れられた。「それとも聖女のアンタは神の声が聞こえるから、それ以外は自分を惑わす悪魔だとわかるのか」と聞いてきたので「生まれてこの方、神様の声を聞いたことがない」と答えると、声の主は笑った。
声の主は私の友人になった。故郷を遠く離れて信者を増やすためにやってきた聖女を揶揄おうとしたらしい声の主だが、私の悩みが布教活動ではなくて「私が聖女なばっかりに、破滅しそうな悪役令嬢を方向修正させたい」と話すと爆笑した。声だけの友人はこの国の貴族の礼儀作法や人付き合い、人に好かれる方法にとても詳しくて、どうすればヴィクトリアの悪役令嬢破滅ルートを回避できるのか、一緒に考えてくれて、助言もしてくれた。
一向に信者を増やしたり、布教活動に熱心ではない私の立場は、神殿や、ルドヴィカの内部であまり良いものではなかった。私は聖女だったし、おそらく「……いるな、神様」という存在をなんとなく感知できていたけれど、それを率先して広める気にどうしてもなれなかった。信じたければ信じればいいとそのスタンス。母の時代からいる神殿の神官たちは私を疎んでいた。それでも母の血を引く「聖女」は私だけだったことや、私の存在を疎む神官たちですら私を「聖女ではない」と扱うことはできなかった。
私にとって重要なのは、これがもし私の知る小説と同じ結末を迎えるのなら、ヴィクトリア・ラ・メイという、本来なら王太子妃になるはずだった勤勉な少女が、私の所為で破滅するのを防ぐことだった。
「はは、どうしようもねぇなぁ、アンタ」
声だけの友人がある日、私が神官たちに幽閉されることになると忠告してきた。何かの儀式をするらしいと、声だけの友人は私よりルドヴィカの事に詳しかった。調べたのだと言う。「アンタのためだぜ、感謝しな」と、恩を着せても良いのに、言葉と異なり、ちっとも恩着せがましくない声音で言った。私は神殿の神官たちの望む「聖女」にされるのだと言う。
声の友人は「俺と逃げるか」と聞いてきた。
「アンタのためなら何でもするぜ。ルドヴィカを潰しても良い。アンタの実家とやり合うのも、まぁ、なんとか手はある。心配すんな。アンタの実家も、この国も、手出しできないくらい遠い土地のツテもあるんだ」
ただ、数日後はヴィクトリアとレオニスの戴冠式だった。私はヴィクトリアが無事に王太子妃に、彼女の本来の居場所を当たり前に手に入れられるのを見届けたいと声の友人に頼んだ。友人は私のわがままを聞き入れてくれて、戴冠式の終わったその日の夜に迎えに来ると言った。
けれどその日、月がどれほど綺麗でも、声の主が姿を現すことはなく、私は、夢の中のレイチェルは神官たちに神殿の祭壇に引き摺られていった。
*
「……」
はっとして、私は目を覚ます。立ったまま眠っていたのか。白昼夢。頭を振って場所を確認する。ここは、クロヴィツさんの書斎、燭台の光が揺れる中、私は鏡の前に立っていた。
「…………?」
一瞬、違和感。
鏡に映る姿に、「これは違う」と強い拒絶感。
ヴィクトリア・ラ・メイの着るはずだった王子妃の衣装――白い絹のドレスに、薔薇の刺繍が血のように赤く輝いている美しい衣装を纏う、赤い髪に青い瞳の美しいひと。
自分ではないのは当然だ。私はカッサンドラの役割を与えられた……。
「……?」
まだ意識がはっきりしない。夢を見ていた気はするが、夢の中で何か考えていた気がするが、何か失ったような、胸を抉るような喪失感があるが、何だったのか覚えていない。
「……随分とぼんやりしているが、大丈夫か」
「……夢見が悪くて」
反応の鈍い私をクロヴィツさんが咎める。これから大勝負だというのにという責めるような声でありながら、目は気遣う色が浮かんでいた。なるほどこの人は宰相という立場になって、国の重責を受ける身で、周囲に侮られないような仮面を被っているけれど性根はお人よしなのかもしれないなと私はなんとなく思った。お人よしでもなければ惚れた女性のためにここまでのことはできなかっただろう。
今夜は建国記念日。町中が、国中が浮かれていても良いと誰もが思う日で、喧噪は隠されたこの部屋にまで聞こえてくる。
クロヴィツさんは色々な準備が終わるまで「ここにいるように」と私を残して出て行った。建国記念の祝賀会だ。宰相のクロヴィツさんは多忙だろう。一人残されて、私は、鏡の中の自分を見つめる。
赤い髪に青い瞳の美しい女性。まだ十八歳の若々しい。日本人としての私の意識では「子供」と思えてしまう幼い姿。だが私の意識は目の前の人を見て「大人びた」という印象を受ける。見方。価値観。捉え方に、私が私自身認識している「日本人の私」と齟齬がある。
鏡の中のこの姿。これはヴィクトリアだ。赤い髪に青い瞳の美しい人。これはヴィクトリア・ラ・メイの身体。それは間違いない。ヴィクトリアの意識に自分が引き摺られている。いや、違う。それはない。私は私という自意識があって、そこにズレは生じていないと確信がある。それでも何か違和感。
私はこれから舞台に立って、主演女優を演じなければならないのに、被る仮面の下の本性に今更の疑念を抱くなんて、どうかしているが。
きっとあの夢の所為だ。内容は覚えていないのに、妙な夢を見たことだけは覚えているからか、頭がまだ混乱している。
「もうあとは、答え合わせと、配置された役者がそれぞれの役割を果たすのを見るだけでしょう?」
ヴィクトリアの目的や、この世界の多くの人の「自分の願い」が明らかになっていくこの終盤で、今更スポットライトが私にだけあてられて、あとはただ清算されていくだけになったはずなのに、急に今になって舞台の他の光が消えたような。独白し、自白しなければならないような気持ちになっている。
鏡の前に立ち、私は今更ながらに考える。
・ヴィクトリアはなぜ私を自分の代役に選んだのか。
→そもそも、私の魂は「元の世界から、ヴィクトリアに「呼び出された」」のか?
彼女が望む主演女優の役に足る力量がある者であればよいのなら、それはこの世界の人間でもよかったはずで、そして、原理はわからないが、そもそも「異なる世界の魂」を態々呼ぶメリット、または手段、難易度、これらがすっきりしない。
夢の内容を反芻する。
ただの異邦人のはずだった。わたしはただ偶然、たまたまヴィクトリアに選ばれてメフィストに死体人形の中に閉じ込められただけの「舞台に引き摺り上げられた観客」で、そこに私の強い意思や考え、私という人間の特色などいらないと思っていた。物語の中で私は「カッサンドラ」あるいは「ヴィクトリアの代役」を与えられてそれを全うするだけの無個性で当たり障りがないと思っていた。
だというのにここで、私自身が信頼できない語り手として配置されているのではないかという疑念。誰も彼もが自分の願いに忠実で、利己的で理不尽なこの物語に、私自身にもまだ何かあるのかと、私は自分で自分が信じられなくなってきていた。
「………………でも、そんなことは関係ない」
鏡に手を触れ、額を押し付ける。
「このヴィクトリアの舞台の中で、私が何者なのか、物語として「魅力的な語り手」になる必要はないの。私はただ、ヴィクトリアの望みを叶えて、自分の世界に戻れればいい」
この世界で私は自分が観客にとって、受け取りてにとって魅力的な舞台女優である必要はないのだ。私が意味を持ちたいのは、私が自分の全てを表現したいのは、自分の人生だ。言い聞かせて、呟いて、鏡の中の青い瞳の美しい少女に告げる。




