騾�闃ア:記憶の保存
※タイトル文字化けは故意です
「詳細は省くけれど……貴方、このままじゃ破滅するのよ、ヴィクトリア」
「……はぁ?」
ヴィクトリア・ラ・メイ伯爵令嬢は、美しい青の瞳を不快そうに歪め、突然無礼にも自分に話しかけてきた平民の同級生を睨みつけた。神殿より「聖女」が編入してくるという報告はヴィクトリアも聞いている。未来の王太子妃として、関わるべき人物だとレオニスに忠告されていた。友人として扱うように、とも。
だがヴィクトリアはなぜ、貴族の娘である、それも皇帝クラウディア陛下より直々に王太子の婚約者に指名されたこの自分が、とも思い、今日まであれこれと理由をつけて聖女を避けてきた。馬鹿でもモノを知らない平民でも、こうも避けられていれば自分が歓迎されていないことを気付き、身の程を弁えて大人しくしているものだ。だというのに、穏やかな秋の日差しの暖かい昼食時に、どうして聖女が自分に突撃してくることになるだろうか。
「こんなことを言われても困ると思うんだけど、ヴィクトリア。あなた不味いのよ。もうすんごく、素晴らしくテンプレな悪役令嬢まっしぐらよ。またたびを見つけた猫だってこんなに愚直に突っ走らないんじゃないかってくらい真っすぐよ。コードレスバンジーが趣味なの?」
「……なんの話ですの?わたくし、貴方と話をしてもよろしくてよ、なんて申し上げたかしら?」
「そうそう、そういう態度よ。確かにわたしだって今、無作法もいいところなんだけど、でも貴方、自分が薔薇の大君と同じ色を持って生まれたことをそりゃあもう鼻にかけてるでしょ?ご両親はただの善良な人間だし、貴方をとっても可愛がってる。おまけに庭師も貴方にめちゃくちゃ甘い。ついでに、皇帝陛下もね。甘やかされて肯定され続けて、その上容姿端麗頭脳明晰……確かに高笑いが止まらないのもわかる、わかるんだけど、まずいのよ。断罪ルートまっしぐらなのよ」
聖女、レイチェルという名の少女は銀色の髪に紫の瞳の、ガラスで出来た工芸品のような美しい容姿だが、気品、品性の欠片も感じられず、妙に俗っぽいというのだろうか。とにかく品のない態度でつらつらと、意味の分からない言葉を続ける。ヴィクトリアは聖女というのは聖なる乙女。神聖で静謐な祈りを捧げる淑やかな娘だと思っていたが、これは野猿か何かだろうか。
こうもヴィクトリアの常識に外れた振る舞いをされると、妙に冷静になってくるものだ。普通であれば怒りを沸き上がらせるところだが、そんな気分にならない。神妙な顔で珍妙なことを、とても生真面目な声音で言ってくるレイチェルに、ヴィクトリアは「なんなの?」と、ただ困惑をするだけだった。
「詳細は長いから、省いて結論だけ言う方がいいかなって思ったんだけど」
「えぇ。結論から告げるのは報告として適切ですね。ですがそれは相手に時間がない時や、簡潔に伝えるのみで構わない事柄だけです」
「つまり?」
「わたくしの時間を少し差し上げてもよろしくてよ」
仕方ないと、そうした態度を露わにしつつも許可すると、レイチェルは微笑んだ。ありがとう、と素直にお礼を言う姿はあどけなく、聖女というよりもどこぞの町娘のような平凡さがあった。
ヴィクトリアはレイチェルと自分が話をしているところを誰かに見られるなど自尊心が許さず、自分だけが入ることを許された一室。王太子の婚約者であれば息つく暇もないだろうと、皇帝陛下のご配慮で用意してもらった部屋に案内した。ここにはレオニスすら入室を許したことはなかった。
「……つまり、貴方がわたくしから殿下の関心を奪い、それに嫉妬したわたくしが貴方を加虐して、それを咎められ、大衆の面前で殿下より直々に婚約破棄をされる?」
長く時間をかけて、レイチェルが語った内容は要約するとそんな内容だった。
「貴方、小説家の才能はないようですわね。王家と貴族の婚姻が、個人の一存でどうにかなるわけがないでしょう?」
「お待ちになってヴィクトリア。ご自分がわたしを虐めまくることは否定しないんですね????」
「貴方のような羽虫が、このわたくしより殿下に相応しいとは小指の爪の先ほども思いませんけれど、目障りな蠅ははたき落とすものでしょう?」
「そういうところだよヴィクトリア!よっ、悪役令嬢!キレッキレ!」
ぱしん、と、手にした扇を鳴らしただけだというのに、レイチェルは口元に手を当てて声援のような様子で声をかけてくる。馬鹿にされているようにしか聞こえないが、本人に悪意がないのは明らかだった。
「……貴方のような小娘に、レオニス殿下が関心を持つとは思えませんけれど?」
「でもほら、わたし……書籍の表紙を張れるくらいは美少女なので……あと聖女だし」
聖女という方がオマケのような扱いである。
だが確かに、聖女という肩書はレオニスには有効であることをヴィクトリアは理解していた。
薔薇の大君の血を持たぬ現皇帝クラウディア陛下。苛烈に華麗に戦場を駆け国を作り上げた偉大なる皇帝陛下の神性は今でも誰もが崇拝している。だがその後継。病床に倒れた大君が指名したのでなければ、誰もクラウディアを至高の椅子には座らせなかっただろう。奴隷の女も玉座に就かせるほどに、死しても守られる薔薇の意思。ただそれは、その次の正統性までも補償はしない。
そのためレオニスにはヴィクトリアが必要だった。
薔薇の大君と全く同じ色を持つ伴侶が必要だった。ヴィクトリアは自分が薔薇の大君に酷似していることを、これまで多くの貴族たちから聞かせられた。幼いヴィクトリアの姿を見るためだけに、両親に懇願する高位貴族が後を絶たなかった。学園に入ってからは学園の警備上そうした喧噪は遠のいたが、それでもまだ成人してもいないヴィクトリアが王室に入り、かつて大君が使っていた黄金の外套を肩にかける姿を熱望されている。
誰もがまだ、かの方と生きた黄金の夢を見ていたいのだ。
だが、それを拒絶しているのがレオニスだ。
ヴィクトリアは気付いている。自身に添えられる薔薇を拒絶し、自分こそが次の新時代の神性を作り出そうと、熱望しているその野心。
「殿下が愚かな野心を抱くのを、わたくしが放っておくと思って?」
「でも可能じゃないですか。聖女がいると。もれなくついてくる神殿勢力」
「皇帝陛下がいらっしゃるわ。陛下は薔薇の夢を見続けることをお望みよ」
「なので醜聞まみれにされて退位させられます」
ヴィクトリアは感心した。
作り話にしても、よくもまぁ、こうも遠慮なく、敬意もなく、ぽんぽんと他人の運命を語れると。
「レオニスはわたしのことを本気で好きになってなくてもいいのよ。そういうフリだけでもOK。だって、貴方だって、レオニスがわたしを好きでも嫌いでも、関係ないでしょう?」
確かにそれはそうだ。レオニスが利用しそうなら、蠅を叩く以外に理由もできる。そうなれば、どのみち、聖女が二人の視界に入った瞬間、選択肢は大人しくはたき潰されるか、逆にヴィクトリアを妄言の通り破滅させるかだけだろう。
そこまで思い至ると、ヴィクトリアはレイチェルのこの話が、完全なる妄言、妄想、出来の悪いホラ話であるとは言い切れなくなってきた。とにかく自分は確実にレイチェルを排除するからだ。
「わたくしが貴方如きに敗北するとは思いませんが」
「ただのうら若いお嬢さん同士の人間関係のいざこざならそうでしょうね。でも違うのよ。本気の他人の悪意の底の深さを知らないの。貴方は、ただ一般的な、ただのちょっと傲慢で自意識過剰で性格のひん曲がった我が儘レディで、そのうえ世間知らずのお嬢さんだから、貴方がわたしにすることなんて精々、制服やドレスを破いたり、物を隠したり噂話をさせたり、仲間外れにしたり、水をかけたりするくらいでしょう?」
「そんな酷いことはいたしませんわ。なんですの、あなた、悪魔か何か?」
ヴィクトリアは戦慄した。器物破損に窃盗、不当な侮辱……立派な犯罪行為ではないか。
「身の程を教えてさしあげるだけですわ」
「具体的には?」
「わたくしがいかに優秀か、貴方が貧弱で貧相で愚かか、成績や周囲の評判を聞けば明らかでしょう?」
「あっ、堂々とマナー違反とかを指摘するタイプの悪役令嬢だった!詳細が書かれてなかったからわからなかったけど、性格の悪さに持って生まれたみじんこサイズの悪性がついていかないやつだ!!悪意の歩調が合わなくて置き去りにされてるやつだ!」
今度はちゃんと馬鹿にされていることがわかった。ヴィクトリアは軽くレイチェルを睨みつけた。
ヴィクトリアはもちろん、荒唐無稽なこの話を信じてはいなかった。いなかったが、しかし、レイチェルが自分の手をぎゅっと握り「悪役令嬢破滅ルートは、駄目絶対」ととても真剣な目をしたから。どうにも、何も言えなくなった。
そして、この奇妙な人間が考え出した「ヴィクトリアとレイチェルはズっ友作戦」が、まぁ、なんだか悪くないかもしれないと、それからことあるごとにヴィクトリアに関わってくるようになって、本来ならレオニスの関心を引くべきだろう場所もずっと、ヴィクトリアにばかり構ってくるもので。自分に近づく者と言えば、ヴィクトリアに薔薇の大君の面影を求めることしかしなかったことをヴィクトリアは思い出してしまった。そうしてレオニスも自分を排除したがっていることも自覚し、自分の孤独を自覚すれば、なるほど、友人がいなければ寂しくないな、とそのように。
*
ヴィクトリア王太子妃は宮殿のバルコニーから、夜の王都を眺めた。月明りに輝く赤い髪に青い瞳。聡明さは先代皇帝陛下と同じもの、けれど穏やかな色がこれからの帝国の永久の平和を象徴していると言われ、国中に愛されている。
伯爵令嬢として、そして王太子妃としての教育を受けて学園の日だまりの中、自由に過ごしていたのはもう過去のこと。
「あら、ここにいたのね。ヴィクトリア」
夜風に身を任せるヴィクトリアに涼やかな女性の声がかかった。
「………………レイチェル」
銀色の髪に紫の瞳の美しい女性。神聖な白の法衣を纏った聖職者。
(その格好、ちっとも似合っていなくてよ)
そう、かつての友人に心の中で告げながら、けれど瞳と思考は聖女レイチェルに最も相応しい装いであると認めている。
数年前。ヴィクトリアは彼女と語り合った。
野心家だが、それを実行できるだけの天運のないレオニスを二人で支えようと言った。「全員もれなくハッピーエンド」と、瞳を輝かせて話したレイチェルをヴィクトリアは今でも覚えている。
レイチェルはヴィクトリアに「脱悪役令嬢!」と言い続けた。ヴィクトリアは自分の髪の赤さを自慢するために、長く伸ばして靡かせることをしなくなったが、そうなると自分の背後に誰もが見ていた幻覚を見なくなるらしいと気付いた。当初こそ、がっかりされることもあったが、ヴィクトリア自身を評価されることが増えて行った。ヴィクトリアが傲慢な振る舞いをすれば、それはもうヴィクトリアの行動として見られ、咎められるようになった。これはいけないことなのだと、ヴィクトリアは自身の過ちが大きくなりすぎる前にそれに気付くことができる環境を作れた。
「ねぇ、ヴィクトリア。わたくしたちずっと一緒よね?」
「……」
レイチェルがヴィクトリアに微笑む。美しい、麗しい、聖なる乙女の微笑みだ。レイチェルの声はどこまでも無垢で穢れなく、神殿では多くの信者が彼女の視界に入ろうと必死に祈っている。
ヴィクトリアとレイチェルが「親友」であることは、王室と神殿の関係を強固なものとした。それも、ヴィクトリアが評価されたことだった。レオニスがレイチェルを側室に迎えるより、聖女として神殿を率いる存在になったレイチェルがヴィクトリアと強い結びつきがある方が、利益が大きかった。
次の春に、レオニスは即位することとなり、ヴィクトリアが王妃になる。レイチェルは民衆の信仰を束ねる存在になる。帝国は繁栄し、表面上は平和が完璧な顔で微笑み君臨するのだろう。
だがヴィクトリアの心には、影があった。
王宮の廊下ですれ違う貴族たち。見知った顔の女官たち。彼らの顔が、笑顔が、どこか空虚に感じるのはいつからだろう。親しい者たちの言葉がまるで他人のもののように響く。
外見も記憶も、確かに同じものなのに。まるで別の存在が、彼らの身体を動かしているようだった。
なぜ?
いつから。
徐々に、徐々に、だ。
数年前、国中に疫病が流行った。だがそれらはレイチェルの聖なる力と、そしてヴィクトリアの迅速な対応により想定よりずっと少ない被害で済んだ。病人は多く出たが、危篤状態に陥ったとしても神殿の秘薬により快復した。
ヴィクトリアも両親が病に倒れたが、薬により生き延びることができた。
違和感は、思えばそこからだったようにも感じる。だが、覇気がない様子、少しどこか、感じる違和感は酷い病から生還したのだから、体力が落ちるだろうと、辛い体験が性格に影響することもあるだろうと、高齢になる両親の変化を「そういうもの」とも受け止めた。
だが、それが間違いだったら?
ヴィクトリアは夜ごと、王室の図書館に籠った。先代皇帝の手記を探し出し、この国の過去の記録を紐解いた。
そこに記されていたのは帝国に本来存在していた「神聖なる存在」を奪った「外なる神」の存在だった。
「……レイチェル」
ヴィクトリアは友の名を呼ぶ。
友の変化も、気付いていた。だが、慣れない重圧、全く似合わない聖女という役割の仮面が彼女に深く食い込んだのだろうとも思った。ヴィクトリアも王妃となるための準備で多忙となり、友の変化に注意を払うことができなかった。
レオニスの顔も、かつての姑息な野心を抱く光が消え、冷たく計算高いものに変わっていったが、これはこちらの方が性格がよさそうだったのでどうでもいい。ただヴィクトリアは、レイチェルの変化だけは、受け入れてはならなかったのだと自分の過ちを悔いる。
「……神殿の噂は聞いておりますよ。死した者さえ、生き返らせるそうですわね」
「神の御力が増しているのよ。素晴らしいことだわ」
ヴィクトリアは気付いた。
本当はもっと、ずっと前に、多くの人が死んでしまっていたのだ。
そして死体に徐々に、何かが置き換わっている。
ヴィクトリアは帝国の貴族たちが、自分の傍にいる者たちが、まるで知らない存在のように感じた。だが、だが、それでもヴィクトリアはそれを騒ぎ立てはしなかった。統治することに変わりはない。死体だろうがなんだろうが、変わらず動き、国民として在るのなら、ヴィクトリアはそれらを治めるべきだと考えた。
だが、だが。これだけは、耐えられない。己の周りの百人が、千人が、万の人間が昨日とは別人になろうと、構わない。だが、友だけは。レイチェルだけは、失うことに耐えられない。
先代皇帝の手記を読み、疑いと予測が確信に変わり、ヴィクトリアは恐怖に震えた。レイチェルが失われていることに、気付かなかった自分を嫌悪し、秘密の小部屋で自身を罵倒し、呪い、頭を打ちつけ慟哭した。
「レイチェル、貴方の中にいるのは誰なのです。誰が貴方を奪ったのです」
レイチェルは微笑んだ。だがその微笑みはもはや完全に、ヴィクトリアの知る者ではなかった。
ヴィクトリアの心臓が凍り付いた。外なる神。滅んだ、終わった、続かなかった世界の神が、たまたま目を付けただけのこの場所。
ヴィクトリアは隠し持った薔薇の短剣を振り上げた。




