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13.かつての戯れ

「陛下、今朝の事でお話が……」


 クラースと共に挨拶回りをしていると、宮廷に残ったはずのグスタフが広場に現れクラースに耳打ちをした。


「すまない、ロズリーヌ。直ぐに戻る」


 そう言ってクラースはグスタフと共に広場から出て行く。嫁ぐ前に一通り重要人物については把握しているが、代わる代わる挨拶に来る貴族達に少し疲れを感じているところだった。

 だが、王妃としての務めを怠るわけにはいかない。ロズリーヌは微笑みを絶やさず、次々と声をかけてくる貴族たちに丁寧に応対していた。


「王妃殿下、本日はご壮麗なお姿で」

「どうか我が家の晩餐会にもお越しくださいませ」


 彼らの言葉に適切な返答をしつつ、ロズリーヌはちらりとクラースが去っていった方を見やる。何事もなければいいが……。

 そこへ、ひときわ華やかな装いの女性が軽やかに歩み寄る。


「王妃殿下、ごきげんよう。お初にお目にかかりますわね」


 柔らかな金髪を結い上げた伯爵令嬢が、優雅に一礼する。淡いローズピンクのドレスが揺れ、まるで花が咲いたかのように鮮やかだった。


──彼女は確か、シルヴィア・マルムクヴィスト伯爵令嬢


 ロズリーヌの記憶の中にある情報と、目の前の女性の姿を重ねる。マルムクヴィスト伯爵家は古くから王家に忠誠を誓う家系であり、シルヴィア自身も社交界で評判の高い令嬢だ。


「ごきげんよう、シルヴィア様。本日はお楽しみいただけていますか?」

「ええ、とても素敵な昼食会ですわ。お料理も格別ですし、このような和やかなひとときを過ごせるのは嬉しいことですわね」


 シルヴィアは涼やかに微笑みながら、ふと視線を周囲に巡らせる。そして、少し残念そうな色を滲ませた。


「陛下はお席を外されているのですね」

「はい、急用が入ったようで」

「まあ……お忙しいのですね」


 シルヴィアは優雅に肩をすくめ、手にしたグラスをゆっくりと揺らした。その仕草には、どこか懐かしむような雰囲気が漂っている。

 その言葉に、ロズリーヌは一瞬だけ違和感を覚える。

 この令嬢の関心は、自分ではなくクラースに向いている。いや、最初から彼にしか興味がないのだろう。

 令嬢は、まるで懐かしむように目を細めた。


「陛下とは……昔、少し親しくさせていただいたことがあるのです。お戯れ程度ではありましたけれど」


 さらりと投げかけられたその言葉に、周囲の空気がわずかに揺らぐ。

 ロズリーヌは穏やかな表情を崩さぬまま、相手を見つめた。


「そうですか。それは存じ上げませんでしたわ」


 ロズリーヌは涼やかな笑みを浮かべながら、シルヴィアを見つめた。

 シルヴィアはグラスを傾け、深いルビー色の液体を揺らしながら、まるで独り言のように呟く。


「そうですわね……ヴィオラ様との婚約が解消された後くらいでしょうか。あの頃の陛下は少しお寂しそうでしたもの」


 まるで遠い昔を懐かしむかのような声音。だが、その言葉は意図的に放たれたものだと、ロズリーヌはすぐに察した。

 ロズリーヌはシルヴィアの言葉を受け、穏やかな微笑みを崩さぬまま、手にしていたシャンパングラスを軽く持ち上げた。


ヴィオラ──以前、クラースが婚約していた女性。

そしてシルヴィア──彼の孤独を埋める存在であったのかもしれない女性。


 どちらもロズリーヌが嫁ぐ前の話であり、今さら気にするようなことではない。クラースが過去に誰とどのような関係を築いていたか、それはロズリーヌには関係のないことだ。

 そう、自分に言い聞かせながらも、心の奥に小さく燻るものを感じてしまう。

 シルヴィアの言葉には、ただの回想にしては妙な含みがあった。そして、それをわざわざこの場で口にする意図も――。

 けれど、ここで感情を表に出すつもりはない。王妃としての立場もあるし、何より、シルヴィアの思惑に乗る気はなかった。


「そうですか……でも、私が陛下と過ごすようになったのはつい最近のことですので、過去のことについてはよく存じ上げませんわ」


 ロズリーヌはシルヴィアを見つめながら、あくまで礼儀正しく返した。


「でも、今の陛下は本当に多忙でいらっしゃいますけれど、それでも私たちの時間を大切にしてくださっているように感じますわ」


 シルヴィアの微妙な言葉に気づきつつも、ロズリーヌはそれ以上深く追求せず、穏やかに会話を続けた。

 シルヴィアは少しだけ唇を尖らせ、やや意外そうにロズリーヌを見つめた。だが、すぐにその表情は元の優雅な微笑みに戻り、ワイングラスを軽く回す。


「なるほど……王妃殿下が陛下と過ごしている時間は、確かに短いものですものね。でも、陛下はいつも温かく、王妃殿下を気にかけていらっしゃる様子が伺えますわ」


 その言葉に、ロズリーヌはさらに微笑みを深めた。

 シルヴィアの言葉の裏には、確かに見えない意図が感じられるが、それを直に受け取るつもりはない。今、ここで感情を表に出すことは何の得にもならない。


「ありがとうございます、シルヴィア様。それこそ、私も彼の思いやりに感謝しているところです」


 ロズリーヌは静かに答えた。

 その時、突然背中に強い力が加わった。ロズリーヌは驚き、バランスを崩しそうになったが、何とか踏ん張って姿勢を保とうとする。だが、その力が予想以上に強く、思わず一歩前に進んでしまう。


「えっ──!」


 と、声を上げる暇もなく、体が前の方に倒れ込むように向かってしまった。

 ロズリーヌの手に持っていたシャンパングラスは、その衝撃で揺れ、グラスの中身が飛び散る。シルヴィアが持っていたワイングラスも同様に揺れ、ロズリーヌがシルヴィアにぶつかる形で、そのワインがシルヴィアのドレスにかかってしまった。


「申し訳ありません、シルヴィア様!」


 ロズリーヌはすぐに謝罪の言葉を口にし、驚きと焦りを隠せない表情でシルヴィアを見つめた。


「まあ、驚きましたわ……」


 シルヴィアは軽く息をつき、ドレスを確認する。その顔には一瞬だけ、不快感が滲んだが、すぐに微笑みに変わる。


「大丈夫ですわ、王妃殿下。お気になさらないで。私も悪いのです。昔の話とはいえ、私にとっては陛下との素敵な思い出でしたので、つい王妃殿下にお話してしまったのがいけなかったのかもしれませんわね。」


 シルヴィアは優雅に微笑みながら、濡れたドレスの裾をそっと摘まんで広げた。まるでロズリーヌの過失など気にしていないかのように振る舞うが、その言葉の端々には、明らかな意図が滲んでいた。

 周囲の貴族たちは、シルヴィアの言葉を聞き、ひそひそとささやき始める。


「王妃殿下がわざとシルヴィア様にぶつかったのではないかしら……?」

「もしかして、陛下とシルヴィア様の関係を快く思っていないのでは?」


 そんな声が、遠巻きに聞こえてくる。ロズリーヌは唇を引き結び、静かに耐えていた。

 反論するのは簡単だが、ここで不用意な言葉を発すれば、シルヴィアの思惑通りに「嫉妬深い王妃」の烙印を押されかねない。


「何事だ?」


 そこへ、クラースとグスタフが戻ってきた。クラースは騒ぎに気づき、ロズリーヌとシルヴィアの間に視線を移す。

 シルヴィアは彼の姿を認めると、わざとらしく息をつき、しおらしく微笑んだ。


「陛下……申し訳ございませんわ。王妃殿下とお話していたところ、私の不注意で、このようなことになってしまいましたの……。」


 その言葉に、周囲の視線がロズリーヌに集中する。

 シルヴィアが自分の「不注意」だと口にしているのに、あえて追及するわけにはいかない。しかし、それでも「王妃が原因で起きた出来事」だという印象は拭えない。

 ロズリーヌは一瞬、クラースの反応をうかがった。彼は静かに状況を見つめていたが、その表情は読めなかった。

 シルヴィアはそんな彼の態度を確認し、さらに言葉を重ねる。


「本当に、大したことではございませんの。ただ、私がもう少し気をつけていれば……王妃殿下にご迷惑をおかけすることもなかったのに……。」


 シルヴィアの控えめな態度とは裏腹に、その言葉はあたかもロズリーヌが彼女に何かしたかのような印象を与えるものだった。周囲の貴族たちの視線は、ますますロズリーヌへと向けられる。


「まあ、やはり王妃殿下は……」

「お可哀想に、シルヴィア様……」


 ささやき声が聞こえ、ロズリーヌの立場が徐々に危うくなっていく。

 何か言わなくては。そう思うのに言葉が出てこない。王妃として相応しい人間になろうと変わろうと思った。だが、そう簡単に人は変わらない。

 非難の目がサムエラ国でのロズリーヌを呼び起こす。自国で非難の目に晒され続けたロズリーヌ。心もとない言葉を浴びせられ、それに耐えるしかなかった過去。


──また、同じ。


 冷えた空気が、肌に突き刺さるようだった。シルヴィアの作り上げた状況に、かつての恐怖が重なる。サムエラ国でのあの日々と同じように、正当性のない非難の視線が自分を囲んでいく。

 声が出ない。何を言えばいいのか、どう言葉を紡げばいいのか。それすらも分からなくなっていた。

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