第八十二話 ヴィティ、婚約する
「さ、寒……!」
やっぱり上着を着ちゃダメですか、と私が口にするとノアさんも複雑な表情だった。
「少しの間ですから、我慢してください」
「ですよねぇ……」
王城の中はしっかりと暖炉の熱が保たれていてあたたかい。それでも、さすがに真冬の、それも雪の降る深夜にドレス一枚では寒い。ノアさんが気を利かせてブランケットをかけてくださったけれど、それでもしんと底冷えのする寒さが足元から上がってくる。
こんな格好で、外に一瞬でも出なきゃいけないなんて本当にどうかしていると思うのだけれど、王様の言うことは絶対! なのだ。
こういう時にこそ、フィグ様の神様ムーブが発動すれば良いのに、どういう訳かフィグ様もノリノリなのだ。フィグ様は雪にも、この寒さにも慣れているので、すっかり私がか弱い乙女であることなど忘れているのだろう。
(フィグ様と婚約なんて、やっぱり間違いだったかしら)
ため息をつくと、ノアさんがあたたかいワインを差し出してくださった。
「よくお似合いですよ」
最終的にお兄ちゃんが泣きながら選んでくれたドレスは、春のように優しい緑と花のように繊細で柔らかなピンクの色合いが可愛らしいものだった。所々に入った白と金の刺繍が豪勢で、こんな良い物を、と思ったのだが、新年と同時、王城で婚約発表をするともなれば、これくらいでなければいけなかったのだろう、と今なら思う。
人生で一度きりのことにお金を数えてはいけない。私は貧乏性をうまく抑え込んだ自分を褒めつつ、ワインに口をつけた。
ホットワインが体の内側からじんわりと熱を広げてくれる気がする。
年が変わるまで――婚約発表まで後少し。あからさまな緊張がのど元までせりあがってきていて吐きそうだ。
「大丈夫ですか?」
「なんとか……。ノアさんがここにいてくださらなかったら、お屋敷へ帰っているところでした」
私が正直に答えると、ノアさんは真顔ながらに「それは嬉しゅうございます」と優しい声で頭を下げた。ノアさんのハウスキーパーとしての美しい所作を見ていると、ここが王城ではなく、いつものお屋敷のようにも感じられるから不思議だ。
「フィグ様は、もう着替えられましたかね?」
「どうでしょう……。竜神様は、直前まで飲み食いをされていたようですし、マリーチ様の言うことは特にお聞きになりませんからね」
「お兄ちゃん……」
そもそも、フィグ様の見張り担当になっているお兄ちゃんも、ギリギリまで私にすがりついて泣いていたから、もうダメかもしれない。
「もしも遅刻されるようなことがあれば、わたくしと一緒にお屋敷へ帰りましょうか」
「ノアさんが今、一番イケメンに見えます」
真顔で気を利かせてくださるノアさんほど、頼りになるものはない。後光が見える、と私は両手で顔を覆う。
こんなやり取りをいくつか重ねているうちに、扉が外からノックされ、私とノアさんは目を見合わせる。
「行きましょう」
ノアさんが私からそっとブランケットを取って、手際よくそれをまとめると、空いた手で私を立ち上がらせた。
普段は絶対に履くことのない装飾付きの美しい靴は慣れなくて、ただでさえ緊張で足が震えているのだから、うまく歩けない。
ノアさんのエスコートを借りながらゆっくりと扉を開けると、外で私たちを待っていたであろう兄が、大きく目を見開いた。
「ヴィティ……綺麗だよ……」
再び、兄の目に涙がたまる。さっきも散々泣いていたのに、まだ泣けるのか。
「マリーチ様。今はあまりお時間が」
「あっ……あぁ……そうだね。行こうか。竜神様はあっちに」
ノアさんの無慈悲ともとれる対応に、そそくさと兄は涙をぬぐって歩き始める。国民を巻き込んだ新年の幕開けということもあって、さすがに私情を挟むわけにはいかないらしい。一応兄も軍人である。この辺りはしっかりしているようだ。
長い廊下を歩き、お披露目を予定しているバルコニーが近づいてくる。次の角を曲がれば、そこにフィグ様が立っているはずだ。カツン、と大理石がやけに音を立てた。
角を曲がる――
バルコニーへとつながる窓の前。フィグ様は、息を飲むほど美しかった。
艶やかなシルバーブルーの髪は何度櫛を通したのか分からないほどきらめき、透き通っていて、分厚い紺のマントが、内側に潜むしなやかな彼の体躯をむしろ際立てていた。珍しいデザインだが、こういうものが後に貴族や民衆の流行りとなるのだろう。
普段のんべんだらりとしている姿を見ることが多いフィグ様からは想像もつかないほど凛とした立ち姿は、まさに、地上へ降りてきた神そのもの。
なるほど、フィグ様をあがめる人が一定数いる理由も分かる。
「……フィグ、様」
無意識に震えた声。だが、私のそんな微かな声でさえ、フィグ様の耳にはきちんと届いたのか、フィグ様はゆっくりとこちらへ振り返った。
サラリ。耳元で揺れた髪の隙間から、氷のように澄んだ瞳に捕らえられ、私は足を止める。
フィグ様は私の姿を見止めると、驚いたように目を見開いた。
口を二度、三度、ハクハクと動かしてはいるものの、そこから声は出てこない。何度か記憶にある反応だ。私が着飾った時には、大抵こうなっている。
私も、フィグ様を見つめてからその名を呼ぶまでに結構な時間を要したから、フィグ様の反応にとやかく何か言うつもりはないけれど。
(可愛い、とか、綺麗とか……良く似合ってる、とか……それくらいは、言ってくれてもいいんじゃないかしら。っていうか、さすがにもう、婚約を誓う仲でしょう。今日くらい、素直になって、フィグ様)
心の声が聞こえていることを逆手にとって、そんな無茶なお願いをしてみる。
ちょっと、調子に乗り過ぎたかも、と思った瞬間。フィグ様はツカツカとこちらの方へいきなり距離を詰めてきて、それから、その勢いとは裏腹に、優しく私を抱きしめた。
『かわいい。綺麗だ。良く似合ってる。愛してる。貴様を……ヴィティを、このまま誰にも見せずに、ワタシだけのものにしたい』
滑るような速度で言葉が駆け抜ける。耳元でささやかれた愛の言葉に私が顔を真っ赤にすると、フィグ様がガバリと私から離れた。彼の顔もまた、真っ赤だ。
寒空の下に出るというのに、私の体はまるで夏のように熱い。フィグ様はきっといつもみたいに、氷のように冷たいのだろうけれど、それでもなぜか熱そうに見える。
『こ、これで満足か……』
苦々しく吐き出された言葉も、照れ隠しにしか思えなくて愛おしい。
「ま、満足です……」
私の答えに、フィグ様はちょっとだけ嬉しそうに口角を上げた。
そろそろ時間だ、と国王様お付きの方に促され、ノアさんとお兄ちゃんは一歩後ろへと下がった。
ここからは、私とフィグ様、二人だけでいかねばならない。国王様たちも、別室から様子を見ていると聞いているし、何より、多くの貴族や国民たちが、私たちの婚約を見に来ているのだ。
「……フィグ様」
緊張と不安でいっぱいになったままフィグ様を見つめると、フィグ様はいつも通りの様子で「ただ立っているだけでいい」と私の手を掴む。そのまま無理やり手を腕に回されたけれど、フィグ様の堂々とした神様然とした態度が今日だけは頼もしかった。
新年を告げる鐘が鳴る。
私とフィグ様がゆっくりと開かれた扉の向こうへ足を踏み出すと、一斉に視線が集まった。けれど、誰もが息を飲み、余計な音はない。
フィグ様の――神様の姿に、神様を呪う気でいた人までもが、その毒気を抜かれたのだろう。
フィグ様はバルコニーの中心に立つと、私を見つめ、やがてその視線をみんなへ向けた。
「この娘は、ワタシのものだ」
それは静かで、けれど、どこまでも響き渡る竜の声。舞う雪に吸い込まれることもなく、むしろ、雪に乗って遠くまで届いていきそうな声だった。
フィグ様が、私の手をとって、どこから出したか、するりと指輪を私の薬指にはめる。
「ワタシは、この国の神ではなく、彼女を――ヴィティを守る、ただの竜だ」
今まで見たことのない、満面の笑み。
雪の花が開き、ホロホロと零れ落ちる透明な輝きが、ただ私の目の前にあった。
めでたくゴールイン! です!
ヴィティたちの婚約を、一緒にお祝いしてくださいましたら幸いです♪♪
お話はまだもう少し続きます。最後まで少しでもお楽しみいただけるよう頑張りますので、よければあと少し、お付き合いください*
次回「ヴィティ、愛する」
何卒よろしくお願いいたします♪♪




