第八十一話 ヴィティ、信じる
本格的な冬の訪れに、私は身震いを一つして小窓の外を見上げる。
普段から真っ白なホルンの山はいつも以上に真っ白で、夏には青々としていた庭もすでに一面の銀世界だ。
「もうすぐ、一年になるのね」
この屋敷に連行されてきてから、二度目の冬。早いものだ、と私は息を吐く。かまどに火を起こしているとはいえ、決してあたたかいとは言い切れないホルンの麓。吐き出された息も白んでいた。
まさか、ここへ来た時は、フィグ様を……竜神様のことを、好きになるだなんて思ってもみなかった。
そもそも、お兄ちゃんとだって最悪な出会いだったし。
「ありえない、よね」
子供に聞かせるおとぎ話だって、もっと現実的である。これまでのことを思い出しても、本当にありえないの一言に尽きた。
マリッジブルーとやらになっているのか、どうにも弱気で、婚約発表が近づけば近づくほど、それが恐ろしいもののように思える。
確かにフィグ様は、悪い噂がはびこりまくったどうしようもない神様だが、それでも、国を守ってくださっている神様であることに変わりはない。
そんな神様の隣に立つ人間が、今でさえ、世話係であり、元をたどればただの田舎娘だなんて。
国民はどう思うのだろう。これでさらに、フィグ様に悪評が立ったりしないだろうか。いや、立つに決まっている。どうせ、私がフィグ様に脅されて仕方なく、なんて人身御供のような扱いにされること間違いなしだ。今度はそういうお話がラブロマンスとして売れたりしちゃうのかもしれない。最悪だ。
少なくとも、私が村でその話を聞いたら、確実に思う。あぁ、きっと婚約を結んだ女性は、脅されて生贄にされたんだな、かわいそうに、なんて思ってしまうに決まっている。
かといって、国民の前で「私がフィグ様を選んだんです!」なんて叫ぶわけにもいかない。
フィグ様は、意外と可愛いところもあるんですよ。そう、国民たちにアピールしてもいいが、婚約発表の場でそれを話したところで、逆に怪しいだけだ。白々しさも相まって、余計怪しい。言わされてるんだ、と思われるのがオチである。
フィグ様の態度を改善させ、国民に分かってもらう以外には誤解がついて回るだけだろう。
……とにかく、フィグ様が悪く言われないように、私自身も良き人であらねばならない。
(不安しかないわ)
どうしたもんか、と気づけばピカピカになっているカトラリーを脇へよけ、舞い落ちていく雪を眺める。
「私、良い奥様になれるかしら……」
これ以上、フィグ様の顔に泥を塗らないためにも、今度から率先して自らが良い人であることを示さなければ。
ここ数日、毎時間こぼしているのではなかろうか、と思われるため息をつけば、後ろからスルリと冷たい温度に抱きしめられた。
『飯は』
「フィグ様!」
『貴様は、一人でもうるさいのだな』
「失礼な。勝手に聞かないでくださいよ」
頭の上にのしり、とフィグ様の顎を乗せられて、私は「もう!」と声を荒げる。
『マリッジブルー、というのだろう』
「うるさいですよ。放っておいてください」
『ふん。神に愛されるのだからな。貴様は堂々としておればいいのだ』
「そんなに面の皮の厚い女じゃないんです」
『普段のふてぶてしい態度はどうした』
「肝が据わってる、と言ってください。神様の妻だなんて、誰だって不安になるでしょう。私は、どうせ人間ですもの」
『自らの立場をついにわきまえたか』
神の言うことは聞けぬくせにな、と付け加えられ、すいませんね、と心の中で謝るも、どうしたってその声がふてぶてしくなってしまって悔しい。これではフィグ様の言う通りである。
「少し早いですが、昼食にしますか?」
『あぁ。そのために、わざわざここまで来てやったのだ』
「フィグ様は、本当に食べることが好きでいらっしゃいますね」
食べることとお酒を飲むこと、そして寝ることしか趣味のないフィグ様の、奥さんになるのだと考えれば大したことなんて何もないのに。というか、むしろそんな男と婚約するなんてどうかしている、とさえ思えるのに。
立ち上がろうとするも、フィグ様にしかと後ろから抱きしめられているせいで身動きが取れない。
「フィグ様」
邪魔です、と口を開こうとした瞬間、
『……何を、心配することがある』
とフィグ様にしては珍しく、穏やかな声が頭上から降ってきて、私は動きを止める。
「神様の、隣に相応しい人にならなくちゃいけない、とか。フィグ様が、私のせいで悪く言われてしまわないか、とか、色々あるんですよ。こっちには」
それに、やっぱり私のことなんて好きじゃなかったと言われてしまうかもしれない。結婚前に思い直し、婚約を解消。気まぐれなフィグ様なら、やりかねないじゃないか。
『失礼な』
「……フィグ様の、愛情表現は分かりにくいですからね」
『貴様もだろう』
「それはそうですけど。フィグ様の心の声は、聞こえませんし」
お兄ちゃんくらい溺愛しろとは言わない。あれはさすがにウザイし、妹としても複雑な気持ちになる。けれど、フィグ様はいまいち何を考えているか分からないところだってあるし、本当に私のことが好きなのか、不安になってしまうのだ。
マリッジブルー、恐るべし。
『竜は、嘘をつかん』
「知ってますけど」
だから、信じろと。私が回されたフィグ様の腕をほどこうと手をかけると、更にぎゅう、と強く腕に力がこもる。
『信じろ、と、言えば……満足なのか』
意地っ張りな、フィグ様の声がボソボソと聞こえる。こういう肝心な時だけ、フィグ様の声は小さくて、そういうところもずるいな、なんて思ってしまうから、私も相当重症だ。
「それは心の声、ですか?」
『ふん。だったら何だ』
愛してる、とは言わないところがフィグ様らしい。やっぱり、どこまでも横柄な態度である。フィグ様も相当ふてぶてしいぞ。
『は、早く! 飯を用意しろ! 腹が減った』
恥ずかしくなったのか、フィグ様は自ら腕をほどくと、私を立ち上がらせた。
かまどの弱く燃える火にかけられた鍋から、良い香りが漂っている。
「……わかりました」
フィグ様を信じますよ。その言葉は飲み込んで、こういうところで言葉にしない私も、きっとずるいやつだと思われているのだろうな、と苦笑する。フィグ様は、私の心の声を勝手に聞くから、それに甘えてしまっているのだ。
きちんと言葉にして、伝えなければいけないこともあると知ってはいるのだけれど。
「あっという間に、冬になってしまいましたね」
竜の体の色によく似た雪がキラキラと反射している。その一つ一つが、フィグ様との思い出を語ってくれるようで、私はふっと笑みをこぼした。
(出会った時には、こんなにもあったかい時間が送れるなんて……本当に夢にも思わなかったのに)
鍋で煮込まれたシチューをくるりとかき混ぜる。雪よりもあたたかな乳白色が優しく溶けて、ふわりと濃厚な香りが立ち込めた。
これから先――フィグ様と一緒に過ごす日々が、ずっと変わらずあたたかなものでありますように。
やっぱり、勝手に心の声を聞いたフィグ様が、ガバリと私を再び後ろから抱きしめた。
冬の空気を纏った彼の体温が、今だけはあたたかい。
「フィグ様……。ずっと、一緒にいてくださいね」
私が呟くと、
『神を信じろ。さらば救われん』
なんて、まるで神様みたいにフィグ様は笑った。
婚約を目前に、ヴィティも少しマリッジブルーなご様子ですが……とはいえ、フィグ様とあたたかな時間を過ごせているようです。
いよいよ婚約発表! ついにフィグ様が超絶素直になります!?
次回「ヴィティ、婚約する」
何卒よろしくお願いいたします♪♪




