第七十七話 ヴィティ、認める
フィグ様は、残酷なほど優しかった。
特別な力を使うこともせず、私が抵抗できる最低限の力だけで抱き止めたのだから。
けれど……私がそれを拒むことは出来なかった。
息が出来ないくらいにとろけてしまいそうになる。あの、ワインにも似た、ブドウみたいな、濃厚で芳醇な甘みが、ブワリとまとわりつくように口内で混ざりあう。
幸せにしてやる。神様にそう言われてしまっては、抗いようもない。
「っ……はぁ……」
離れた唇。その冷たさが名残おしい。そう思っている時点で、私はフィグ様のことをもう嫌いにはなれないらしい。
『……ヴィティ、愛してる』
頬にすべるフィグ様の指先は震えていて、いつもよりも弱々しくきらめく双眸が揺れていた。
ノアさんにささやかれた時はフィグ様がそんなことを言うはずがないと思っていた。
けれど、私は心のどこかできっと願っていたのだ。
繊細で美しく、柔らかな、フィグ様の本来の声で、心の底からの声で、その愛が語られることを。
『ワタシは、ヴィティを、愛しているのだ』
どうして、私なんかを。そんな野暮なことは、今更聞けなかった。
フィグ様と過ごした時間は、決して長くはない。ようやく、一年が経とうかとしている程度である。けれど、毎日顔を合わせて、他愛のないやり取りをして、積み重ねてきた日々は確かに、私たちに想いを抱かせるには十分すぎる。
『ヴィティが望むのならば、ワタシは人になろう。良い神とやらにも、なってやろう。人間と共に生き、竜として国を守ると誓う。だから』
――だから、どうか側にいてくれ。
フィグ様の瞳から、宝石のように光り輝く涙がこぼれ落ちる。それは、白磁の肌をすべり、空気に触れて花びらのように舞った。
この世界で、一番綺麗な愛だけが、そこにあった。
フィグ様の長い髪をそっと指ですくいあげる。首元に腕を回すと、やはり、そこには鱗のザラついた感触。
竜の証。私とは違う種族なのだと主張する、硬くて継ぎ目のある皮膚だ。
『ヴィティ……』
「フィグ様が、竜でも……」
人間でなくても、私は、フィグ様が好きだ。
竜の、雪のように透き通った白銀の体も、空を駆ける翼も、構造色にきらめく鱗も、氷同士をこすりあわせたような鳴き声も。全て。
私も、竜になれたらこんな風に悩まずにすんだのに、と願わずにはいられない。フィグ様は、竜は人間になれるけれど、人間は、竜にはなれなくて。
「フィグ様に、人間になってほしいわけではないんです。竜のフィグ様は、お美しいですから。ただ……」
人間は、竜ほど長くは生きられない。お別れをした後、フィグ様を悲しませてしまうことも不本意だし、フィグ様をまた長い孤独に放り出してしまうことも、私は望んでなどいない。
私は竜の世話係で、竜を、幸せにすることが役目なのだ。
絡ませていた腕をほどき、フィグ様から一歩分の距離を開ける。これが、私たちにとっての正しい距離だと言い聞かせるように。
『貴様は、やはり阿呆だな』
「ひどい言いぐさですね」
『ワタシを幸せにするのが役目だと分かっているくせに、なぜ、身を引く』
「今は良くても、後、百年と経たないうちに、フィグ様を悲しませる自信があるからですよ。私は、フィグ様に愛していただけているようですから」
『ならば、百年後に考えれば良いことだ』
「また、孤独になってしまいますよ」
『そうならんように、貴様が世話をするのだろう』
「私は、どんどん年老いて、可愛くなくなっていきます」
『竜の血を飲んだだろう。すぐには老いなどこん』
「身分も不相応です」
『ならば、貴様を世話係から解雇してやろう。主人の妻として迎え入れれば問題あるまい』
「出自も不相応ですよ」
『出自? ワタシは、山の生まれだ』
「フィグ様が、どれほど私を思ってくださっているのかは、良く分かっているつもりです。けれど……」
『何が不満だ。貴様の、気持ちだけを聞いている』
「私の、気持ちだけでは……」
『何も解決せんか? ワタシが、神なのだぞ』
フィグ様は、今しがた開けたばかりの一歩分の距離を無遠慮に埋める。私が後退すれば、その分、彼は前進した。
やっぱりこの神様、傲慢で、思い通りにならないと気が済まない子供みたいな性格で、負けず嫌いで、冷酷非道だ。
こちらの言い分は全て分かっているくせに、それをあくまでも無視して、自分の意志を貫きとおそうだなんて。
『何とでも言うがいい。この国は、ワタシが全てだ』
「悪魔にでも付きまとわれている気分です」
『ヴィティを手に入れられるのならば、ワタシは悪魔にでもなってやるが』
「よくそんな恥ずかしいことが、さらっと言えますね」
『竜は、心の声を聞く。嘘をついたとて仕方があるまい』
「普段からしょっちゅうごまかしてるくせに」
『ふん。知らん』
「ほら、また」
『うるさい! とにかく、貴様は、黙ってワタシの側にいればいいのだ! 世話係が不満ならば、すぐにでも解雇してやる! 神の妻になればいい』
「さすがにそれは、国王様でもお許しになられないかと」
『ならば、国王を殺すまでだ』
「やめてください! 物騒な!」
『貴様が認めれば、すむ話だ。ワタシは、ヴィティの立場など気にはせん』
つまり、認めなければ、国王を殺してでも私を付け回すと言いたいのだろうか。あの、ロマンチックな告白はどうした。悪魔も魔王も、この神様には負けそうだ。
「……フィグ様には、まだまだお世話が必要そうです」
私が小さくため息を吐き出すと、フィグ様はむっと顔をしかめる。
『喜ぶところだろう』
「えぇ。こんなに、熱烈な告白をしていただけるとは思いませんでした。こちらが意地を張っているのが、馬鹿みたいで……」
本当に、私が悩んでいたことなんて、神様にとってはくだらないことにしかなり得ないのだろう。どうあがいたって、彼に勝てる気がしない。
身分の問題なんて、種族の問題に比べたら小さなものだろうし、神にとっては、種族なども関係ない。神と人間のお付き合いが許されるはずなどない、と人間が騒いだところで、神が許せば全てオッケーなのだから。
「……どうして、フィグ様のこと、ちょっとでも好きだと思っちゃったんでしょう」
私がため息交じりに呟けば、フィグ様は急にポカンと口を開ける。どうして、急にまぬけ面なのだろう。しかも、口をハクハクとさせて、その頬を赤らめているではないか。
「フィグ様?」
まさか、あれだけのことをしておいて、というか、これだけの全力投球な告白をぶつけあって今更それが恥ずかしくなったとか?
『ヴィ、ヴィティ……もう一度、言ってくれ』
「は?」
名前を呼んだだけだ、と私が首をひねると、『違う!』と一喝される。
『その前だ!』
「前って……どうして、フィグ様のこと……」
言いかけて、私もようやく理解した。どうやら、死ぬまで秘めておこう、墓場まで持って行こうと考えていた想いを、フィグ様の屁理屈に油断して口にしていたらしい。
『ワタシは言ったぞ!』
だから、貴様も言え、と。私がチラとフィグ様を見やると、顔にまだ赤みが残ってはいるものの、少しの余裕を取り戻したらしかった。私を見下す態度は横柄で、私は一体この神様のどこに惚れてしまったのだろうか、と冷静になってしまう。
『ヴィティ』
名を呼ばれ、顎を掴まれ、再度腕の中にすっぽりと閉じ込められてしまえば、私ももう、認める他ない。
「……フィグ様のこと、好きですよ」
呟いた途端、私の顔じゅうにキスの雨が降ってきて、私はジタジタと神様の寵愛から逃れるために体を動かすのだった。
ついに自らの気持ちを認めたヴィティ。
長かった二人のすれ違いも、これにて無事に解決です!
ですが、果たして、フィグ様とヴィティの関係を知ったシスコンお兄ちゃんの反応はいかに……?
次回「ヴィティ、続ける」
何卒よろしくお願いいたします♪♪




