第七十六話 ヴィティ、戸惑う
離してください、と喉元まで出かかった声が、言葉にならないのはどうしてなのか。
心臓の震える音だけが耳の奥に鳴り響いていて、それ以外の一切が口をつぐむ空間は、まさに神様の領域と呼ぶにふさわしいだろう。
フィグ様の瞳は、普段、凍ってしまいそうなほどに冷徹な色をしているのに、今日は高温の炎みたいに熱く色づいていた。
触れた手は冷たく、感じる体温だって低い。なのに、溶けてしまいそう。
彼の名を呼ぶことでさえ戸惑うような緊張感。全てが、フィグ様の気分一つでどうにでもなってしまいそうな空気。
私は、ただただ竜神様の瞳を見つめることしかできなかった。
『ようやく、気づいたのか』
こちらの気持ちを全て読み取るからか、神様としての傲慢か。フィグ様はきっぱりと断言して、瞳をゆるやかに細めた。
『人間のくせに、ずいぶんと手間をかける』
神様、というより、魔王様みたいなセリフである。フィグ様が言うと余計に。
『ふん。この状況でへらず口をたたくとは。やはり、ヴィティ。貴様は良い』
だから、魔王様みたいですよ。フィグ様。
なんとか必死に胸の高鳴りをしずめようとフィグ様に毒づいてみても、まったくの空振りだ。自信があるから、余裕たっぷりに振舞えるのだろう。高慢で自尊心の塊みたいなフィグ様の性格が、ここにきて彼自身を援護している。なんということか。
『素直に認めればいいだろう』
なんとしてでも、私の口からその思いを吐き出させたいようである。分かっているくせに、こういう性格の悪さが腹立たしい。
というか、私だって、ついさっき気づいたのだ。
だから、動揺だってしているし、確証は持てない。少なくとも、私とフィグ様の間に、どうしたって越えられない壁が二つも三つもあるのだから、そのことを受け入れられない限りは、この気持ちだけを認めたってむなしいだけ。悲しみばかりが生まれる愛が廃れるのは、時間の問題なのである。一時の感情に流されて、今が良いからといって、未来が必ず幸せになるわけではない。それが分からないほど、私は浮かれてなどいない。
『こんなところでも肝を据わらせるやつがあるか』
私の気持ちを読んだフィグ様は、忌々し気に呟いた。不服を露わにする姿が、全身で「いいからワタシを好きだ」と言え、と訴えかけてきている気がする。
『分かっているのなら、口にすればいい』
不遜、傲慢、冷酷無慈悲。責任など取る気もないくせに、そんな甘言を吐くなんて。
(ずるい)
つ、と頬のあたりにあたたかなものが伝う。
私は、一拍遅れて、自らが泣いていることに気付いて「え」と声を上げた。
泣くつもりなんてなかった。少なくとも、泣く要素なんか、どこにもなかった。強いて言えば、自らの感情に体が追い付かなくなった、のだろうか。
今朝、ノアさんから突きつけられて気づいた感情に向き合う間もなく、今を迎えた。
恋路の果てにある障害に気付いて、けれど、成すすべもなく、気持ちにフタもさせてはもらえず。
挙句の果てに、そんな不安などつゆほども知らない当の本人からたぶらかされ、弄ばれて。
戸惑いが全部、言葉の代わりに涙となってこぼれ落ちていく。
そりゃぁ、フィグ様が好きだと、今更になって気づいたと、言葉にできればどれほど楽か。けれど、怖い。フィグ様とは、主と世話係で、身分だって釣り合わない。神様と人間で、竜と人間で、種族も違えば、寿命も違う。普通の家族のように、普通の恋人たちのようには、年を重ねていくことも出来ない。
心の声が聞こえるフィグ様には、分からないのかもしれないけれど。
口に出すということは、声にして、言葉にするということは、私はそのすべてを認め、受け入れなければいけないのだ。
漠然とした不安も、苦しみも、悲しみも、どうしようもない自分の弱さも。
「フィグ様のバカ!」
私が叫んだその瞬間、私はフィグ様の腕の中に閉じ込められていた。
『馬鹿は貴様だ、ヴィティ』
ゾッとするほど無機質で、低い声だった。言葉一つで簡単に人の命を奪ってしまえそうな、底冷えのする神様の声だ。
『ワタシが、貴様を不幸にするなどありえん』
「フィグ様は、神様だから、そんな風に思えるんです」
『ワタシは、竜だ』
「知ってます。特別な力を持って、この国を守ってくださる、竜神様でしょう。私たち、人間とは違う生き物でしょう!」
『違う! 貴様ら人間が、ワタシを勝手に神にしたのだろう!』
骨が軋むほどに、強く抱きしめられる。痛い。体も、心も、全部が痛い。
霜焼けを起こしたようにジンジンと、熱を持って痛む胸が叫ぶ。こんなにも、愛は怖いのか。
私がグスグスと泣きじゃくると、フィグ様は、やがてゆっくりと私を抱きしめていた力を緩めた。
『ワタシは、ただ、ヴィティと一緒にいたいだけだ』
雪が、針葉樹からほろりと崩落するかのように、フィグ様の声が降る。それは、ズシリと重くて、冷たくて、やっぱり私を痛めつけるのに――どうしてだか、世界で一番綺麗だと思ってしまう。
『なぜそれが分からん、愚か者め……』
フィグ様の手がほどかれて、私の目に、再びフィグ様の麗しい顔が飛び込んでくる。
いつもはあんなにも強気で、自信に満ち溢れている瞳が、ゆらゆらと頼りなさげに揺れていた。それはまるで、迷子のようで。
『ワタシは、どうすればいい……。どうすれば、ヴィティを幸せにしてやれる』
サラリと揺れるシルバーブルーの、絹のような髪が、優しく私の頬をくすぐる。フィグ様の顔が肩口に押し当てられ、ひやりとした氷のような体温が布ごしにも伝わった。
「神様なんて……竜なんて……、やっぱり、いなきゃよかったですね」
もしも、本当に神様というものがいるのだとしたら、私はやっぱり、神様を呪ってやりたいと思う。
そうでなければ、私たちはきっと、ずっと、こんな思いをしなくて済んだのだ。
フィグ様は、竜騎士様たちや世話係をとっかえひっかえしながらも、なんだかんだで竜としての矜持を保って楽しく過ごしていただろう。好きなように振舞い、毎日、酒を浴びるように飲んで、気に入らなければ怒鳴り散らして、退屈な平穏を享受していたはずだ。
私だって、ただの農民でいられた。決して裕福ではないけれど、村長とそれなりに楽しく暮らして、ブドウの剪定を生きがいにして、たまに、村人たちと楽しく語り合って。飢えで死んでいたかもしれないし、病気にかかって倒れていたかもしれないけれど、それが、本当の幸せだったのかもしれない。
『ワタシに愛されることこそが、真の幸せに決まっているだろう……』
「フィグ様から、愛してるなんて、言われたことは一度もありませんよ」
『……いくらでも言ってやる。言ってやるから、貴様も言え』
「なんですか、それ。言いませんよ。言ったでしょう、私とフィグ様はあまりにも違い過ぎる。フィグ様を、悲しませてしまいます」
『そんなこと、貴様は言ってない』
「心をお読みになられたでしょう」
『知らん……。言葉にされたもの以外、信用ならん』
「……強情ですね」
『貴様もな』
「フィグ様。私は、フィグ様のように長くは生きられません。神様の隣に立つような人間でもないんです。だから……」
『うるさい。うるさいうるさいうるさい‼』
フィグ様は、ガバリと顔を上げた。目元と鼻を赤らめている姿も、まるで子供みたいで。
やっぱり、こんな人が神様だなんて、何かの悪い冗談であってほしい、と思う。
『貴様は、ワタシの命令に従えばいいのだ! 幸せにしてやる! だから、ごちゃごちゃと詭弁を並べ立てるな!』
瞬間、私の唇に、つめたくて、けれど優しい感触があった。
フィグ様への気持ちに気付いたはいいものの、そこに立ちはだかる壁を意識してすくんでしまったヴィティ。
残念ながら、フィグ様にはこの乙女心は分かりませんでしたが……。
フィグ様の強行突破! ヴィティは決心できるのでしょうか。
次回「ヴィティ、認める」
何卒よろしくお願いいたします♪♪




