第七十五話 ヴィティ、意識する
洗濯の後、私がすべきは目覚めの悪いフィグ様を起こし、着替えさせること。そして、昼食の準備。なのだが……。
「今、フィグ様に会うなんて……」
ノアさんに、変に意識させられてしまったせいで、フィグ様と顔を合わせるのは恥ずかしいことこの上ない。
さすがにいくら鈍感な私でも、フィグ様が私を憎からず思ってくださっているだろうことは分かる。あの、誕生日の夜に起きた出来事が夢でないとするのならば、多分、私をからかっているわけではないということも、少なくとも私のことを良いようにとらえてくださっていることも、分かっているつもりなのだ。
けれど、私は世話係で、フィグ様は主人。私は人間で、フィグ様は竜。付け加えるならば、私は凡人で、フィグ様はこの国の神様である。
私がこの気持ちを受け入れてしまってはいけない。そう思うことが出来たからこそ、あの夜から、今まで通りにやってこれたのに。
「どんな顔をして、フィグ様にお会いすればいいか……」
多少のことでは物怖じしない自信があったのに、こと恋に関しては初心者だ。どうしたって動揺してしまう。しかも、普通の恋じゃない。相手が相手だ。ハードルが高すぎる。
仮に、だ。仮に、主人と世話係の恋愛が許されたとして、神様と人間の恋愛はどうなのだろう。結婚とかできるの? っていうか、そもそも、竜だし。あまりにも違いすぎる。人間同士でだって、身分がどうの、とか、性別がどうの、なんてルールがあるくらいなのだ。竜と結婚するなんていうのは、犬や猫と結婚するようなものと一緒ではなかろうか。
(そう考えたら……やっぱり、無理よ)
フィグ様は人間になれる特殊な力をお持ちだけれど、それだって仮初の姿である。年だってとらない。いや、正確に言えばとっているけれど、フィグ様はきっと私が生きている間もずっとあの姿のままでいられるはずだ。
「って、こんなことを考えてること自体がもう変に意識しちゃってるんだわ!」
バカバカ、と私は自分の頬をペチペチとたたいて気合を入れなおす。
仕事は仕事。例え、フィグ様にどんな感情を抱いていようと、やるべきことはきちんとやる。それでこそプロと呼べるのだ。
お兄ちゃんの前でもクールなノアさんというお手本を頭に思い浮かべて、よし、と私はフィグ様の寝室へ向かった。
「フィグ様」
扉越しに声をかけても、わずかな物音がするばかりで、それ以上は返事もない。いつも通り、主はまだ惰眠をむさぼっているらしい。
「フィグ様、おはようございます」
もう、こんにちは目前だが、そんなことは今更気にしない。何度かノックを繰り返し、やっぱり返ってはこないフィグ様からの挨拶を待つ。できれば、顔を合わせずにすむので、起きていてほしい。そんな願いを込めていつもより長めに待ってみるも、フィグ様はぐーすかと夢の世界から戻っては来ない。
「……入りますよ」
今日ばかりは起きていて欲しかった。切実に。
思わずこぼれたため息に混じるのは、緊張と覚悟。通常は呆れだけで構成されているはずなのに、今日はその感情すら入り込む余地がない。
意識しないように、といつも通りを装ってはみても、心臓はバクバクとうるさかった。意識しないようにすればするほど、意識してしまうのが人の性らしい。
「フィグ様」
ベッドの数歩手前で歩みを止める。これ以上近づいて、フィグ様の顔を見てしまっては、どうにかなってしまうかもしれない。
寝起きは最悪でも、そのお顔立ちは常に美しいのだから。
「フィ、グ、さ、ま!」
モゾモゾと毛布が動く。大量の毛布を纏って大仰に丸まっているそれは、もはやそういう生き物みたいだ。どうすべきか、と私がためらっていると、やがて動きが止まった。
『起きてる……』
不機嫌丸出しの小さな声。その言葉とは裏腹に、主が毛布から出てくる様子はない。
「起きてるなら、お着替えをなさってください」
『気が向いたらな』
今すぐ向いてくれ。いつもであれば、ここで毛布をはぎ取って、無理やりにでもフィグ様をベッドから追い出すのだが、今日はどうにもそういう気分になれない。毛布をはぎ取るためには、ベッドへ近づく必要があり、ベッドへ近づけば当然、フィグ様と接触してしまう可能性だってあるわけで……。
「フィグ様」
だから、私はベッドの外から声をかける他ない。明らかに、仕事に支障が出ている。
フィグ様も、今日は私がつっかからないのを良いことに、調子におのりになられているようだ。毛布から這い出す気もないらしく、毛布をひしと掴んでより丸まった。
(あぁ、もう! 防御力を上げるんじゃない!)
これでは、一向に仕事が進まない。昼食の準備だって始めなければいけないし、あまりにも時間がかかってしまっては、フィグ様の部屋のベッドメイキングをするノアさんにだって迷惑がかかる。主がベッドで寝そべっていては、ベッドメイキングなど出来るはずがない。いや、ノアさんならやってのけるかもしれないけれど。もし、そうだとしても、私のせいでノアさんに余計な手間を取らせてしまうことに変わりはないのだ。それではいけない。
「フィグ様! 起きてください!」
私が決死の覚悟でベッドの方へ歩み寄り、毛布へ手をかけた瞬間――ヒヤリ、と手首のあたりを掴まれる。私は咄嗟に手を引っ込めた。
『ん?』
手を払われたフィグ様も驚いたのだろう。少なくとも、今までの私ならばそんなことはしなかったはずだから。毛布からモゾモゾと器用に顔だけを出して、パチパチと目を瞬かせている。
寝起きだというのに、どうしてこんなにも整った顔をしているのだろう。普通、寝起きってもっと不細工になるんじゃないかしら。顔のむくみ一つないフィグ様の姿は、やっぱり、仮初のものなんだ、と改めて思う。
「お、おはよう、ございます」
なんとか取り繕うような笑みを付け足してはみたものの、フィグ様にはごまかせなかったようだ。
『……変な物でも食ったのか』
「いいいいいえ! まさか!」
『なんだそれは』
「別に! 何もありませんよ!」
口笛はカスカスでうまく鳴らず、フィグ様の表情はますます険しく。
『熱でもあるのか』
「ないですよ! ないです! いつも通り、ほら! 元気ですから」
言いながらズルズルと後退する姿は、フィグ様にどう映っているのだろうか。相当まぬけな姿をさらしている自覚はあるが、今は緊急事態だ。仕方があるまい。
「そ、それではフィグ様、お着替えはこちらに置いておきますから! ゆっくり、お着替えになられてくださいね!」
『待て』
逃げようとする私を、言葉一つでその場に縫い留めてしまう神様の力を、今日ほど恨んだことはない。ピシリ、と体を凍らせるようにまとわりつく冷気。どう抵抗したって、フィグ様にはかなわないのである。
「……な、なんでしょう」
『何を隠している』
また余計なことをしたんじゃないだろうな、と睨みつけられるが、私だって好きでこうなっている訳じゃない。
「何も、隠してはおりません」
答えた瞬間、先ほどまであれほどベッドから出るのを渋っていたフィグ様が、私の眼前へと回り込んだ。そのまま、流れるように私の顎がクイと持ち上げられる。
雪のように輝く白銀の髪。その隙間から覗く、冷たくて、けれど、透き通った水晶の瞳。
(あ……)
私の顔がみるみる真っ赤に染まっていくと同時、フィグ様の口角がほんの少しだけ持ち上がった。
ノアさんに自覚させられ、すっかり意識してしまっているヴィティ。
今まで散々フィグ様とのふれあいには慣れてきたはずですが、意識すると突然それすら恥ずかしくなってしまったようです。
恋の初心者、ヴィティ。自らの心の変化に、まだまだ大混乱です!?
次回「ヴィティ、戸惑う」
何卒よろしくお願いいたします♪♪




