第六十七話 ヴィティ、帰省する
何度体験しても、この感動はすごい。
眼前に広がる突き抜けるような青と、眼下に広がる様々な色彩に、私はただただ心を奪われていた。
フィグ様が神様で良かった、と本当にそう思う。
『都合のいいやつめ』
「人間ですからね。そういう生き物ですもの」
私がフィグ様の鱗を撫でると、シャラシャラと揺れる。器用なものだ。
「どれくらいで着くんですか?」
馬車では何日かかったことか。途中、何度か宿にも泊まったが、もうあまり覚えていない。急ぎだからと夜通し走っていたこともあったし、良くあれに耐えられたな、と今なら思う。それくらい過酷な旅だったのだ。
フィグ様の背中なら、一日くらいは快適に過ごせそう。夜空を間近で見るのも気持ちがよさそうだし、馬車と違ってお尻が痛くなることもない。ちょっと鱗が痛いけど、寝られないこともない。
『すぐだ』
ちょっとだけ残念だ、と夜間飛行を夢に見ていた私に、フィグ様が鼻で笑う。竜の時の笑い声は、キュィ、と可愛らしいもので、まったく馬鹿にされている気がしない。
「今だけは、本当に神様みたいですよ。フィグ様」
『みたい、じゃなくて、神だ』
「本当に、嬉しいです」
私のためを思って、村まで連れて行ってくれるなんて。感謝の気持ちをめいっぱいにこめて、何度もフィグ様の鱗を撫でる。
鱗の継ぎ目がほんの少しだけ痛くて、でも、それすらも愛おしいような気がしてしまう。
完璧に見えるのに、完璧じゃないところなんて、まさにフィグ様そのものだ。
「一年も経っていないのに。村へ帰れるのがすごく嬉しいです。しかも、それをフィグ様が言ってくださるなんて」
『……たまには、悪くないと思っただけだ』
哀れな人間に手を差し伸べるのも神の仕事だと、ついに察してくれたらしい。フィグ様の成長は目まぐるしくて、まるで赤ちゃんを見守っているような気持ちだな、と私は笑う。
「フィグ様は、ずいぶんと変わられましたね」
これならきっと、真の神様に……国民から愛される神様になる日も近いだろう。もう少し言葉遣いを学べば、それこそすぐにでも。
『余計な世話だ』
「ふふ。世話係ですから」
フィグ様が、キィルルル、と一鳴きする。心地の良い秋風がぶわりと肌を撫でた。フィグ様の照れ隠しは、可愛らしかった。
『ついたぞ』
いつの間にやら、フィグ様の背中が快適すぎて眠っていたらしい。主の背に乗せていただいているのに、なんたる不覚。だが、フィグ様はさして気にしていないのか、くるりと旋回して、私に眼下の景色を見せた。
「……村だ」
ブドウ畑がどこまでも続く風景は、上から見るとこんな風だったのか、と私は息を飲んだ。
まっすぐに引かれた何十本もの緑のライン。どこまでも敷き詰められたそれらは、まるで高級な絨毯さながらだ。規則正しく並んだ編み目のよう。育ちすぎた苗が少しばかりラインを乱しているところが、余計に。
「……こんなに、綺麗だったなんて」
まるで、自分の知っている村じゃないみたいだと思いながらも、遠くに点在する家々や、ラインに沿って作業をしている村人たちの姿を見つければ、あっという間にそれが自らの育った村だと分かる。
「本当に、帰ってきたんですね」
『当たり前だろう』
「……フィグ様、ありがとうございます」
村にいたころの思い出が鮮明によみがえる。いろんな感情がぐっと胸にこみあげてきて、私は思わずフィグ様の体に手を回した。フィグ様の体は大きすぎて、抱きしめることは出来ないけれど、ちょっとでもこの想いを伝えたかった。
ひんやりと冷たい体温が、直接肌に伝わって。頬ずりをすれば、チクチクと鱗が痛い。でも、嬉しい。本当に。
村だ。帰ってきたんだ。
目にたまった涙がフィグ様の鱗の上を流れ、やがて風にさらわれていく。
「フィグ様、ありがとうございます」
何度言ったって、足りないくらいだけれど。
『……当たり前だ』
フィグ様が鳴き声を上げれば、それは空一杯に響いて、村人たちが一斉に顔を上げたのが分かった。その表情までは分からないけれど、頭上に出来た大きな影に、彼らもまた、何かを叫んでいる気がする。
『降りるぞ』
「お手柔らかに、お願いします」
私がしかとフィグ様に抱き着くと、フィグ様は大層愉快そうに笑い声をあげた。
瞬間、やっぱりというべきか、ぶわりと風が私の体を舞い上げる。
けれど、怖くはなかった。村に満たされていたブドウの芳醇な香りが、私のところまで届いたのだ。甘くて、渋くて、懐かしい香り。
(村に、帰ってきたんだ)
私の胸は、その気持ちでいっぱいに満たされたのだった。
フィグ様に横抱きにされたまま、私が降り立ったのはブドウ畑の真ん中だった。
私が初めてお兄ちゃんと出会った場所でもある。フィグ様との出会いの、はじまりにもなった場所だ。
ブドウ棚の端につけられた緑色のリボン。今まさに、私の髪を結んでいるものと同じ。
そして、フィグ様の髪に揺れているものとも。
「フィグ様、知ってたんですか?」
『偶然だ』
「神様にも、偶然なんてあるんですね」
深くは追及しない。偶然だって、なんだっていい。また、ここにこれた。それだけで、私には十分だ。
フィグ様がゆっくりと私を地上へおろす。
足が、土に触れる瞬間。思わず、その感触を思い出して高揚してしまう。きっと、足がつけば全身で感じられるだろうな。自分の村に、帰ってきたんだって。
『……大げさだ』
トン、と足がついて、地面の土がふわりと沈む。
「大げさじゃないですよ」
笑ったつもりだったけれど、涙がこぼれた。
あたり一面を満たすブドウの香り。緑の隙間からあふれんばかりに主張する紫。足に伝わる柔らかな土の感触も、横を通り過ぎていくまだほんの少しだけ暖かさを残した風も。
「……本当に、嬉しいんです。村に帰ってこれたことも、フィグ様が、ここに連れてきてくださったことも。全部」
私がフィグ様の方へそっと手を伸ばすと、フィグ様はゆっくりと私の方へ歩み寄って、そして、優しく私の体を引き寄せてくれる。
フィグ様が、竜の姿であろうとなかろうと、もはや関係なかった。
まるで壊れ物を扱うみたいに、繊細な手つきで、私の髪を撫でるフィグ様の手は冷たくて、不器用なりに気を遣ってくださっているんだと分かる。
『ここは、ヴィティの匂いがする』
サラリとそんな恥ずかしいセリフを言われたって、今日ばかりは気にもならない。
「神様って、信じていれば救われるんですね」
照れ隠しに、冗談めかして言ってみたけれど、フィグ様はいつも通り、当たり前だと言うだけだった。
「フィグ様、本当にありがとうございます」
村を出るときは、もしかしたらもう二度と、この村には帰ってこれないんじゃないか、と思ったりもしたけれど。
フィグ様は、そんなに悪い神様じゃない。
「本当にありがとうございます」
何度目かのお礼と共に腕をほどいて、フィグ様から体を離す。さすがに、少し恥ずかしい。涙をぬぐって彼を見つめると、それは見事に真っ赤な顔をしていて、その姿に、私の胸は不意にキュンと締め付けられた。
本当に、人間とは都合が良い。
フィグ様にされた今までの数々の横暴も忘れて、嬉しさが勝るなんて。これまでのことを全部水に流して、こんなサプライズで、ほんの少し、本当に少しだけだけれど、確かに好意を寄せてしまうなんて。
ブドウのしっとりとした甘い香りが私とフィグ様の間をふわりと抜ける。
やがて、村は燃えるような夕暮れに包まれていった。
久しぶりに村へと帰省できたヴィティ。
ようやくフィグ様の努力も実を結び、どうやら心の距離もまた一歩近づいたようです。
ですが、サプライズはこれだけで終わりません! フィグ様はまだまだ頑張りますよ!
次回「ヴィティ、墓参りする」
何卒よろしくお願いいたします♪♪




