第六十三話 ヴィティ、甘やかされる
いよいよ秋めいてきたな、と庭掃除をしながら私は思う。
青々としていた木々の葉が色づいてきたし、ホルンの麓、フィグ様のお屋敷にはずいぶんと冷たい風が吹き込むようになった。
それこそ、近いうちに初雪でも降るのでは、と思う。
フィグ様からいただいた外套を着てはいるものの、やはり、肌寒いと感じる日が多い。
最近は、仕事も、フィグ様との時間も、ノアさんや竜騎士様の計らいでちょうど良いバランスを保っている。おかげで私の精神状態は良好だ。
暑い日差しもすっかり影を潜めて、日の暖かさが心地よく感じられることも、精神状態と大いに関係しているかもしれない。
『ヴィティ』
「ひぁっ⁉」
相変わらず音もなく忍び寄ってきたフィグ様に後ろから抱きすくめられ、私はビクリと体を震わせた。
「フィグ様!」
『随分と冷えているな』
いつも冷え冷えなフィグ様に言われたくはないが、確かに、今日は朝からずっと庭掃除をしていたせいか、私の体はすっかり冷たくなっていた。フィグ様ほどではないけれど。私の手をなぜかにぎにぎと離さないフィグ様に、これでは満足に掃除もできない、と私はため息をつく。
(近い。フィグ様、また近いですよ)
『なんだ』
「なんだ、じゃありません。フィグ様、お掃除できませんから」
『必要ない』
「必要ない、って……」
『誰も使っていないだろう』
「それはそうですけど」
『飯を作れ』
「おなかすいたんですか?」
私の質問には答えず、フィグ様は、ふん、と私をからかって満足したのか離れていく。
「え、ちょ! ちょっと!」
主に「飯を作れ」と命令されては断ることも出来ない。慌てて集めた落ち葉を麻袋に詰め込んで、フィグ様の背を追った。
「あの……フィグ様?」
『なんだ』
「お部屋でお休みになられていてはいかがでしょう」
ご飯を食べ終わったというのに、ダラダラと厨房の机でべちゃりと溶けているフィグ様のお姿はあまりにもだらしない。
なんとかフィグ様を移動させたいが、あいにくと私は食器を洗っていて手が空かない。こういう時に、お兄ちゃんかノアさんがいれば、湯浴みに連れていくことも出来よう。
『ヴィティ』
「なんですか?」
『そ、その……食器洗いとやらは、そんなに、大変なのか』
「へ?」
『ワ、ワタシでも、出来るのか』
「えっと……人間の言葉で、お願いします」
『グルゲン語だ!』
マジ?
私は、フィグ様の口から飛び出した言葉をもう一度頭の中で再生する。確か、食器洗いが大変かと聞かれた。ここまでは良い。問題はその後だ。なんていったかしら。
(ワタシでも、出来るのか?)
夢だろうか、と私はフィグ様を見つめる。
「フィグ様」
『拾い食いなどしておらん!』
「じゃあ」
『変なものも食べておらんわ!』
「吹雪か、何か、来たりするんですか」
『なぜだ』
「……だって、あのフィグ様が、食器を洗うだなんて……。もしかして、偽……」
『偽物でもないぞ』
「失礼ですが、本当に、食器をお洗いになられるんですか」
『何が悪い』
「悪いどころか良すぎて気持ちが悪いです」
『貴様!』
「普段のフィグ様を見ていれば、誰だって思います!」
『失礼な! 主自ら働いてはならんと言うか⁉』
「滅相もない。泣きそうなくらい嬉しいですよ! 嬉しいですけど……」
何か裏があるのではないかと疑ってしまう私の気持ちも、理解してほしいのだ。だって、フィグ様、生まれてこの方一度もそんなことしたことがないでしょう。っていうか、神様は食器なんて洗わない。少なくとも、私の知ってる神様は。
「……どういう、お気持ちの変化なのですか?」
『ふん。貴様に更生されるのは癪だからな。ワタシ自ら、変わらねばならんと思っただけだ』
「……すみません。やっぱり、グルゲン語でお願いします」
『グルゲン語だ!』
フィグ様は、フスーッと勢いよく鼻を鳴らすと、私の隣に並んだ。隣に並ばれると、改めてフィグ様の背の高さが分かる。私より頭一つ分ほど高い。やはり美丈夫。どこにいても絵画のようだ。
でも。
「こんなにも、キッチンが似合わない方を見るのは初めてです」
『うるさい』
「本当に、ご自身でなされるんですか?」
念のため、とダメ押しに確認すれば、何度もそう言っているだろう、と睨まれた。理由も動機も意味が分からないが、とにかく、本当にやる気を出してくれたのなら良いことである。これ以上はやる気をそいでしまうかもしれない、と私は洗い場の前をあける。
『何をすればいい』
「そうですね、本当は最初から教えるべきなのでしょうけど……途中まで終わってしまっていますから、途中からお教えしますね」
私が、もっていた麻布を手渡すと、フィグ様はきょとんとそれを見つめた。
「それで、食器をこするんです。汚れを落とすんですが、ゴシゴシやると傷ついてしまうので、出来るだけゆっくり、丁寧にやってみてください」
フィグ様は恐る恐る水の張られた樽の中へ手を突っ込み、そっと食器を一つ取り上げる。麻布で食器をゆっくりと洗う手つきは、なかなか悪くない。
「フィグ様、意外と繊細ですね。お上手です」
『ふん。べ、別にワタシだってこれくらい』
「滑りやすいですから、落とさないように気を付けてくださいね」
『それくらいわかってる』
スイスイと何度かこすると、食器から汚れが取れていくのが面白いのか、フィグ様はいつの間にか目をキラキラとさせて手を動かしていた。偉いぞ、フィグ様。
『次は』
「次は、こっちの綺麗な布で食器を拭きます。どうせ日に当てて乾かしますから、軽くで良いですよ」
フィグ様は想像していた以上に手先が器用なのか、食器を一枚も割ることなく、次から次へと洗い物を片付けていく。なんだかんだ、ずっと一緒にいて私の動きを見ていたのだろうか。食器を乾かす場所も覚えてはいるようで、重ねることなく一つずつ木板の上に並べていった。
「フィグ様、素晴らしいです……」
全てを終えたフィグ様に、私が心の底からの感嘆を漏らすと、フィグ様はムフーッと嬉しそうな鼻息を鳴らした。心なしか、口角も上がっているように見える。
『これで、少しはヴィティも楽になるのか』
「え?」
『他の、ことも……やってやる。そ、その……たまには、悪くない、からな』
フィグ様の声はだんだんとしぼんでいったけれど、全部、きっちり聞こえた。
「もしかして、フィグ様」
私のために?
そう言いかけた瞬間、
『貴様のためでは! ないからな! そそそ、その、なんだ! べべ、別に、愚かな人間に、じ、慈悲を、与えてやってもいいと、思っただけだ! 本当にそれだけだからな!』
と早口でまくしたてられた。
『たまには貴様を甘やかせと言われたからでは断じてない! ちょっと気が向いただけだ! 神だからな! 神ならば、何でもできなければならんのだ!』
これ修行だ、とでも言いだしそうなフィグ様だが、彼の背後にある真実がばっちり最初に語られてしまっている。
(お兄ちゃんか、ノアさんに、頼まれたのかしら)
それを素直に聞くフィグ様というのも、変な話だが。
(それにしても、甘やかす、なんて……)
思考の追いつかない私は、ただただ呆然とフィグ様を見つめた。
耳まで真っ赤なフィグ様は、私に返事する余地すら与えず『少し眠る!』とキッチンから逃げ出すように駆けていく。
ピカピカと輝く食器の白が、取り残された私には、やけにまぶしかった。
フィグ様、それもうほとんど言っちゃってますよ! な捨てゼリフでしたが、ヴィティはまったく意味が分かっておりませんね。
ヴィティのお誕生日のお祝いも少しずつ近づいてきましたが、このままヴィティにサプライズを隠し通せるのでしょうか??
次回「マリーチ、暗躍する」
何卒よろしくお願いいたします♪♪




