第六十話 フィグ、伝える
今回は珍しく(?)しっとりと大人で、素直なフィグ様視点です。
「フィグ、様」
ワタシの名を呼ぶヴィティの声がいつもより弱々しくて、無性に胸が締め付けられた。
(世話係を辞めたい、などと。許すものか)
ワタシはそのまま乱暴と呼べるほど、強い力でヴィティをソファに押し倒す。あの、誕生日の夜のように。
ヴィティが、息を飲むのが分かった。ワタシの顔を見て、美しいと思うくせに、どうしてそんなに泣きそうな顔をするのか。
『ヴィティ』
名前を呼べば、彼女はますます閉口する。紅玉のように透き通り、鮮やかな唇はまっすぐに引き結ばれているのに、心の声は大きく、せわしなく、ワタシの頭に響いてくる。
反比例するかのような体と心。どこまでも素直でない世話係には、まったく世話が焼ける。
――だからこそ、なおさら、愛おしい。
『辞めたい、などと、言ってくれるな』
「……っ!」
心の声がダダ漏れだ、とワタシが顔をしかめると、ヴィティはフイと顔をそむけた。
もちろん、それを許してやる義理などない。ワタシは強引にヴィティの顎を掴んで、もう一度こちらに顔を向けさせる。一瞬かち合った視線が、どうしようもなく熱を帯びていて、そのままヴィティを食べてやろうかとさえ、思うほどだった。
目の前の人間は、しかし、気丈にも視線を逸らして、全身を使って、ワタシから離れようと試みる。
あぁ、やはり――
『なぜ心を隠す。心の声に従え』
人間とは、面倒な生き物だ。
ワタシがヴィティの胸のあたりを、ついと指でなぞると、彼女はついに閉じていた口を開いた。
「やめてください!」
泣いてしまえばいいものを、それでもやはり、ヴィティは目に涙をためただけで、必死にそれをこらえる。
「私は、竜の世話係に、相応しくありません」
きっぱりと、けれど震える声が、ワタシの鼓膜を確かに揺らした。人の姿でいるときは、心の声を脳で聴くよりも、耳で聞く方が痛みを伴う気がする。ツンと鼻の奥、胸の奥にまで耳が繋がっているような気がするのだ。
ワタシが、ヴィティの言葉の続きを待つと、彼女はゆっくりと息を吸った。先ほどまであんなにもうるさかった心の声がシンと静まり返る。
一拍、二拍。
そんなかすかな沈黙を持って、彼女はようやくワタシに視線を合わせる。
「世話係を、辞めようと思います」
(フィグ様と、会えなくなるのは、やっぱりちょっとだけ寂しいけれど)
耳と、頭に、同時に響く声は、まるで別物だというのに。
やはり、人間とは面倒な生き物だ。
ワタシの言葉を待つように、ヴィティはじっとワタシを見つめる。少しくらい、うぬぼれて期待してくれても良いだろうに、ワタシのことを見限っているのか、それともただの強がりなのか、ヴィティが想定しているワタシからの返事は、どれも酷いものだ。
まったく、神を何だと思っているのか。
ならば、とワタシは、ヴィティの方へぐっと体重をかける。唇が触れる、ギリギリの距離まで。
マスカット色の瞳が揺れて、上等なブドウにも似た芳香がふわりと立ち込める。
『……どこまでも、共にすると誓ったはずだが』
誕生日にもらった、一番のプレゼントは、ヴィティからの言葉だった。ワタシを迎えに来た彼女のぬくもりだった。
そう簡単に、手放してなどたまるか。
ワタシは神だ。望んだものを全て手に入れなければ気に食わない。望んだものを手に入れる力も、持っている。
ならばこそ、今、それを使わずしてどうなるのか。
ワタシの言葉に、ヴィティが大きく目を見開いた。おそらく、望んでいた返事でも、予想していた言葉でもなかったからだろう。
彼女の瞳の端に、じわり、と耐えていたはずの涙がにじむ。その涙でさえ、酷く美しいもののように思えて、神はワタシだというのに、変な話だと思う。
「そんな、約束、してましたか」
途切れ途切れなのは、きっと、恐れているからだろう。ヴィティは、肝の据わった女だが、それはあくまでも希望をどこかで捨てられるから。本気で、希望を掴みとろうと願ったことがないからだ。
出自のせいだろうと予想はしているものの、神であるワタシには到底理解できない感情だ。
『約束ではない。命令だ』
許してなどやるものか。どこまでも、その罪をぬぐわせる。それで彼女が、ワタシの側にずっと、ずっと、いてくれるというのであれば。
「……ですが」
『ヴィティは、ワタシの世話係だ』
その意味が、正しく伝わりますように。
神が、祈りを捧げるなど、荒唐無稽だと思ってはいるものの、今だけはそんな風に思ってしまう。
ワタシの願いが届いたのか、それとも、別の要因か。
ヴィティが一つまばたきをすると同時に、彼女の目から一筋の涙が伝う。なめらかな肌をなぞって、ハタリ。まるで花が散るかのように、柔らかにソファへ着地して、シミを作る。そんな欠片でさえも愛することが出来そうだ、と思う。
ワタシは、ゆっくりと彼女の頬をなぞった。
ワタシと違って、鱗のない、本物の人間の肌。ワタシのように偽物の、作り物ではなくて、ヴィティ自身の。あたたかくて、なめらかで、柔らかくて。
そっと、涙をぬぐうように唇を落とす。
――ワタシは、こんなにも彼女を愛してしまっていたのか。
『そばにいると誓え。永遠に』
シェリーカラーの髪色に顔をうずめて、彼女の耳元でささやく。それは、ワタシが想像していたよりも甘くて、とろけてしまいそうな声で、ワタシ自身、少し驚いたほどだった。
人間の姿になることにも、人間の言葉をしゃべることにも、ずいぶんと慣れていたと思っていたのに、どうやらまだまだうまく制御できないらしい。
ヴィティの、心音が。息を飲むかすかな振動が。静謐な二人の空間に似合わない、騒がしい心の声が。ワタシの体いっぱいに流れ込む。
ワタシがゆっくりと彼女を抱きすくめると、ヴィティもまた、ワタシの肩口に顔をうずめた。肩のあたりが、しとりと濡れる。対して、ヴィティの肩は小さく震えていた。
「ごめんなさい……」
『それではまるで、ワタシがふられているみたいで心外だな』
「バカなことを言って、ごめんなさい」
『……ふん。今回だけだ。神は、人々の罪を許す』
いや、ヴィティにだけ、と言った方が正しいだろうか。人間の言葉は、面倒だ。
「私は、フィグ様のお側にいても良いのですか」
『そばにいろ、と命令しているんだ』
「ノアさんみたいに、立派でなくても?」
『あの女は好かん』
「口うるさいし、減らず口だってたたきますよ」
『知ってる』
「フィグ様のこと、呪ってやるって思ってるんですよ」
『やれるものならやってみろ』
ワタシが鼻を鳴らすと、ヴィティもまたグスグスと鼻を鳴らす。肩に鼻をこすりつけられている気もするが、今日ばかりは許してやろう。
『だからもう、辞めるなどと、言ってくれるな』
本心から、初めて言葉を紡ぎだせば、それは驚くほどするりと口から飛び出て、そして、驚くほど口に馴染んだ。
「……こんな時くらい、もっと素直に言ってくださってもいいのに」
『本心だ』
「じゃぁ、本心が、ひねくれた物言いなんですね」
クスクスとこぼれるように聞こえた彼女の笑い声がくすぐったい。肩の揺れは、涙からくるものではなく、笑いからくるものに変わっている。
「……フィグ様」
『なんだ』
「フィグ様が、私の主で、良かったです」
好きです、と聞こえた気がしたが、世話係として、と後ろに余計なものがついていたので、心の声には、聞こえないふりをした。
ようやく素直に思いを伝えられたフィグ様。
やっぱり、相手を思う気持ちをきちんと伝えることが大切ですね*
ヴィティもこれで考え直してくれたでしょうか? そして、フィグ様への想いに気付いてくれるでしょうか?
次回「ヴィティ、復活する」
何卒よろしくお願いいたします♪♪




