第五十九話 ヴィティ、決める
翌朝、私は隣の部屋の扉をノックしようと腕を振り――ダメだ、と振り下ろした。
早朝にノアさんから、
「マリーチ様から、体調がよろしくないとお伺いしました。本日はお休みなさってください。ご用がありましたら、お申し付けください。もしよろしければ、今日はゆっくり竜神様と一緒にお過ごしになられてはいかがでしょう。竜神様が、いくつかヴィティさんに質問があるとおっしゃっておりましたから」
そんなことを早口でまくしたてられて、私はただただポカンと彼女を見つめてしまった。
ワインレッドの瞳が、私の反応を捉えて、一瞬だけ見開かれたような気がしたけれど、それも見間違いだったかもしれない。
ノアさん、笑ったら絶対に可愛いと思うのに……。いまだ、ノアさんの表情シリーズは、真顔のみだ。辞めると言ったら、驚きくらいは見れるだろうか。コンプリートは無理そうである。
「フィグ様が、ですか?」
「えぇ。わたくしではなく、ヴィティさんとお話がしたいと」
フィグ様と話すのは気まずいが、そんな風に言われては無下にするわけにもいかない。ノアさんではなく、とそこをやけに強調されたのが気になる。最近はなんだかよく分からなくなっちゃったけど、フィグ様は、一応私の主でもあるものね。
でも……。
(辞めるって言ったら、フィグ様も驚くかしら)
驚くフィグ様よりも先に、鼻で笑って、結局口だけか、とののしるフィグ様の顔が目に浮かぶ。
(それも悲しいような……)
人間ごときに振り回されるなどありえない。そんな不遜な態度が似合うフィグ様なら、平気で言いそう。むしろ、ようやく辞める気になったのか、と問われそうだ。
私が深いため息を吐き出すと、ノアさんが一瞬だけ眉を下げた。
「ヴィティさん。何か悩み事があるのでしたら、ぜひ、わたくしにご相談なさってくださいませ。それに、竜神様にも。きっと、話した方が楽になることもあるかと存じます」
丁寧な言葉遣いに、優しい気遣い。あぁ、やっぱりノアさんはすごい。
かなわないな、と思った瞬間、私の心はほとんど決まったようなもので、
「いいえ。大丈夫です。フィグ様とも、お話してきますね」
と、私は扉を閉めてしまった。どうせ、こちらからも話しておかねばならないことがあるのだから、ちょうどいい。
(やっぱり、田舎娘に神様の世話係なんて無理なんだわ。私には、こんな豪華なお屋敷よりも、あの素朴なブドウ畑がお似合いだもの)
村に、帰りたい。
ホームシックに陥る暇もなく仕事が与えられてきたせいか、余裕があるからこそ、今更になって、今までやり過ごしてきた想いがあふれる。
(ベル家のハウスキーパーになる前に、村へ一度帰ろうかしら。お兄ちゃんならきっと、分かってくれるはず)
朝日の差し込み始めた小窓の外を覗いて、広大な緑に囲まれた先、自らの生まれ育った村の方へ、私は目を向けた。
こうして、私は、ようやく早朝の気持ちに決心をつけ、フィグ様の扉の前まで来たのだ。来たのは良いものの……やはり、最後の一歩が踏み出せない。
(ウジウジしないの! 私は、いつだって前向きなのが良いところなんだから!)
自分を奮い立たせるように拳を握りしめるも、それが扉をたたくところまではいかない。
(もう、決めたのに……)
後悔しているというのだろうか。それとも、誰かに引き留めてもらいたいのか。
ノアさんが来て、仕事がなくなって、フィグ様から変な命令を受けて、でも、それもまたなくなって。
「もう、振り回されるのはこりごりだわ」
無理やりにでも嫌なところを思い浮かべなければ、この扉を打ち鳴らすことは出来ない。
フィグ様の理不尽な怒り、横柄な態度。料理は何度作り直させられたっけ。それに、掃除の邪魔もされた。寝起きは最悪だし、食糧庫にワインを取りに行くだけでも、ちょっかいをかけられるし。ヘアセットのやり直しも、服の選びなおしも、文句ばかり言うくせに、まったくこちらを手伝おうとする素振りさえなくて。
「……ほんと、よく我慢したじゃない」
はぁ、と大きくため息をついて、私は八つ当たり気味に拳を振り下ろす。それこそ、扉を破壊するくらいの勢いで。
えいっ! と振り下ろそうとした瞬間――
『朝から騒々しい』
内側から扉が大きく開かれて、覚悟していたよりも早いタイミングで、私の拳と扉がコツンと音を立てた。固い木製の扉が意図しない速度でぶつかったのだから、私も反射的に「いた!」と声を上げる。自分でやっておきながら、痛いだなんて、変な話だけれど。
『何をしている』
不満を隠そうともしないフィグ様に、私がしどろもどろになるのも仕方がない。
覚悟を決めたとはいえ、それは自分のタイミングで、の話。まさか、向こうからやってくるなんて思ってもみなかったから、ペースが乱されてしまう。
「べべ、別に! その! フィグ様が‼ お話があるとおっしゃっていたようなので‼」
嘘は言っていない。ノアさんから、確かに早朝にそう聞いた。なのに、視線が合わせられなくて、挙動不審になってしまう。自覚はあっても制御できない。
『扉の前でぶつくさと耳障りだ。言いたいことがあるなら、はっきり言え』
いつも通りの高圧的な態度も、今の私にはグサリと刺さる。そうだ。やっぱり、フィグ様は横暴で、こんな物言いしかできなくて、乙女心なんてちっともわかっちゃいないのだ。
『貴様の減らず口も、大概だな』
「フィグ様ほどではございません! それに!」
私がバッと顔を上げてフィグ様を睨みつけると、フィグ様の顔が強張った。きっと、今私の頭の片隅によぎった言葉が、そのままダイレクトに届いたのだろう。心を読むから、声に出さなくたって、フィグ様には丸聞こえなのだ。
でも、だから何だというのだ。
「この減らず口とも、お別れですから。良かったですね!」
やけくそになって、思わず大声を出してしまう。こんな、子供みたいな癇癪を、ぶつけたかった訳じゃないのに。
けれど、口から出てしまった以上は撤回することも出来なくて、私は、ハァ、と肩で息をする。
『……どういう、意味だ』
グルゲン語で話せ、といつもなら冗談の一つや二つも出ることだろう。けれど、フィグ様もあっけにとられたのか、そんな憎まれ口すらたたけないようで、目をぱちくりとさせている。
「そのままの意味です」
『ヴィティが、改心する気になった、ということか』
「はぁ⁉」
『減らず口をたたかぬよう、神への信仰心を清く持つということだろう』
「なんでそうなるんですか!」
ニュアンス、というものを汲み取るなんて、そんな器用なことがこの主に出来る訳がなかった。これでは、わめき散らした私が恥ずかしい。
勢いでなら言えたことも、改めて言うには勇気が必要だ。なけなしの勇気は、もう先ほど精一杯に振り絞ってしまったのに。
我に返った私が、どうしようか、と床に目を伏せると、きっちりと磨かれた大理石の床に、自らの情けない顔が映り込む。
『……入れ』
私が腕に冷たい体温を感じたと同時に、ぐいと体が引っ張られて、私は前へとつんのめる。
「フィグ様!」
抗議の声も無視して、フィグ様は私をそのまま、いつぞやのソファへと放り投げた。
ヴィティはどうやら、竜の世話係を辞めることを決心してしまったようです。
けれど、どうしてだか、フィグ様にうまくその決心を伝えることは出来ません。
そんなヴィティの心を読んだフィグ様が、彼女に伝えることとは……?
次回「フィグ、伝える」
何卒よろしくお願いいたします♪♪




