第五十八話 ノア、慌てる
マリーチさんの暴走を止められるのはノアさんだけです!
……ということで、今回はノアさん視点です。
「マリーチ様!」
ろうそくの明かりがポツリと廊下に浮かび上がって、わたくしはその人物のもとへ駆け寄った。
竜神様も、わたくしも、そしてマリーチ様も、この屋敷を明かり無しで歩くことくらいなんてことはないだろう。こういうのは、慣れだ。体が覚える。そうでなければ、覚えさせる。
だから、ヴィティさんのために、と明かりをつけて回っていたのがここへ来てからのこと。
けれど、誕生日のサプライズを計画しているうち、色々と新たに仕事が増えてしまった。仕方がないとは思いつつ、申し訳なさを押し殺して、再び明かりをつける仕事をヴィティさんへ任せたのだ。
それがなぜか今日は、ヴィティさんが明かりもつけずにいなくなってしまった。何かあったのでは、と思わざるをえない。
竜神様に、ヴィティさんのプレゼントを贈るよう言いつける、なんて骨の折れる仕事を任されなければ、もっと早くに気が付けたはずなのに。
よくよく考えれば、ヴィティさんはどこか元気がないようだった。こんな時こそ、仕事を代わりにわたくしがこなすか、ヴィティさんを気遣って話を聞くべきだったのだ。
主様とはいえ、わたくしのマリーチ様の貴重な時間を奪い、ヴィティさんを翻弄するような輩は捨て置いても良かったはずなのに。
「ヴィティさんは?」
「あぁ、ヴィティなら自室にいるよ。ちょっと、まずいことになったかなぁ」
のんびりと告げるマリーチ様は、柔和な雰囲気を崩さず、眉だけを器用にハの字にして見せた。あぁ、こういう困った顔も好き……じゃなかった。今はヴィティさんのことが一番である。
うっかりにやけてしまいそうになる顔を無理やりに固めて、マリーチ様に続きを促す。
まずいことになった、と彼は言ったはずだ。
「お誕生日のサプライズって、どうしてこうもうまくいかないんだろうね」
まったく困ったな、と口で言う割に、その顔は作り物のようで、本質はさして気にしていなさそうだ。というよりも、この状況を楽しんでいるようにすら見える。
「ヴィティさんの、お誕生日のサプライズが何か?」
「うん。それで、ヴィティが、君に嫉妬しているみたい」
「嫉妬?」
「最近、やけに竜神様と仲が良いみたいだね」
「仕事です」
「そう。仕事だよ。君の場合は、ビジネスライク。でも、ヴィティにはどうしてだか、それがそうは見えない」
「……なぜ?」
「恋は盲目、ってやつかな」
寂し気に笑うマリーチ様は、それはもう人類国宝に値する。ずっと一緒に育ってきたが、彼のそんな顔を見るのは初めてだった。哀愁が少し混ざった、けれど、どこか慈しむような表情は、こちらが恍惚としてしまいそうなほど。おそらくこれも、盲目ゆえ、だろう。
「ヴィティさんは、その……竜神様のことを本気で?」
「本人は気づいていないけどね」
そう。普段の様子を見るに、恨んではいても好いてはいない。そんな風に見える。傍目には、ヴィティさんがあの横暴な竜神様に振り回されていて、いくらヴィティさんが物おじすることなく対峙しているとしても、やはり、何をどう間違えたって、好意を寄せることにはならなさそうだ。
いくら、長い時間、二人っきりで過ごしていたとしても、だ。
あの性格の悪さを鑑みれば、嫌いになることはあっても、好きになることはない。少なくとも、わたくしの前で見せる竜神様の態度なら、の話だが。
「もしかして……」
だが。もしも、もしも万が一……いや、億が一にでも、ヴィティさんが本当にあの竜神様のことを良く思っているのだとしたら。
「それは、大変まずいことになってしまったのではないでしょうか」
少なくとも、今のわたくしの立場はさしずめ泥棒猫。ヴィティさんのために、と仕事を受け持ったことも、ヴィティさんから仕事を奪ったということになるだろうし、主がヴィティさんと一緒にいたいと思っているから、とそういう役回りを与えたはずが、誕生日サプライズのせいで、今はその主様まで奪ってしまっていることになる。
わたくしにその気は一切ないが、これは大変にまずい。
しかも、ヴィティさんが自覚していないのなら、なおのこと。きっと、モヤモヤとした気持ちを抱えて、眠れぬ夜を過ごすに違いない。
経験者だから分かるのだ。
この、目の前の、やたらと乙女を誘惑することに長けた男を長年思い続けてきただけに、これからおそらくヴィティさんが経験すること、気持ち、それら全てが手に取るようにわかる。
「マリーチ様! 今すぐ、フィグ様を説得しましょう」
「へ?」
「すぐに! プレゼントを用意していただかなければ!」
「や、ちょ、ちょっと待って!」
駆け出そうとしたわたくしの手を引く、マリーチ様の手。
瞬間、わたくしの体にブワリと血が巡り、握られた部分が……いや、全身が熱を帯びる。
手、手が! 手が握られている!
心臓が早く脈を打つ。こんなにも涼しいのに、汗ばんでしまいそうだ。まずいまずいまずい。早く、マリーチ様から離れなくちゃ。この手を離さないと……いや、離せない! 離したくない! でも!
葛藤の末、必死の形相でわたくしはマリーチ様の手を振りほどくことを決意する。
代わりに、しばらくこの手は洗いません!
そう心に誓って。
「マリーチ様! このままでは、わたくしたちは、主様の幸せも、ヴィティさんの幸せも奪ってしまうことになります」
「で、でも……俺は、ヴィティが今の状況を苦しんでいるなら、助けてあげたいんだ」
「確かに、今は苦しいでしょうけれど」
恋とはすなわち、そういう苦みも痛みも伴うのだ。それすら受け入れられるなら、それは恋ではなくもはや愛なのだから。
しかし、わたくしの答えが見当違いだとマリーチ様は首を振る。そして、艶やかな笑みを浮かべた。
――あぁ、そうだ。こういう表情を出来るのが、おそらく愛とやらだ。
「ヴィティとベル家で暮らしたいんだ。俺の方が、竜神様よりも数倍、ヴィティを幸せに出来る」
「は?」
紡がれた言葉に、思わずわたくしは絶句した。だって、そうでしょう。ヴィティさんとマリーチ様は、血のつながった兄妹と聞いた。だから、わたくしも安心したのだ。
ベル家に帰ってくることの少なくなったマリーチ様のことを調べれば、竜騎士としてやけに精を出している。その発端に、ヴィティさんがいたのだ。その時のわたくしの慌てようといったらすさまじいものだった、と今なら自覚できるけれど、とにかく、それが安堵出来るようになった矢先これだ。
美しきかな、兄妹愛。美しすぎて若干の狂気を感じるのは、どうして。
ズクリ、と胸に刺さる痛みが、わたくしに警鐘を鳴らす。正気を保て。この想いは、絶対に外へ漏らしてはならない。
「……けれど、ヴィティさんは、竜神様のことを」
「そう。本人は、自覚していない」
若葉萌ゆるグリーンの瞳が美しく弧を描く。穏やかなその瞳の奥に、ギラギラと輝くものが見えて、わたくしは先ほどマリーチ様に握られた場所を、自らの手で握りしめる。
こんなことなら、あともう少し堪能しておけばよかった。
「マリーチ様。差し出がましいようですが、一つ申し上げます」
「ノアの言うことに間違いはないからね。聞いてみよう」
「ヴィティさんは、絶対にフィグ様のことをお慕いになられておりますわ。お兄様」
「はは、これは手厳しい」
絶対に、なんとしてでも、マリーチ様の暴走を止めなければならない。
フィグ様とヴィティさんの恋路を見守り、最大の敵とも呼べるこのシスコン竜騎士を止め、ひいては、その愛の矛先をわたくしに向けさせなければならない。
考えろ、考えろ……。わたくしは、元ベル家一のハウスキーパー。ここでくじけてはいけない。
焦る気持ちをひた隠しにして、口をまっすぐに引き結ぶ。
「マリーチ様。お誕生日パーティのお仕度、後は任せました」
足の速さなら、マリーチ様にも負けない自信がある。わたくしは、心の中で全力のクラウチングスタートを決めた。
ノアさんが、なんとかシスコンマリーチさんを止めようと頑張りましたが……ノアさんのこのお気持ちが、きちんとヴィティに届いたのでしょうか!?
一晩悩んだヴィティが出した答えとは……。
次回「ヴィティ、決める」
何卒よろしくお願いいたします♪♪




