第五十七話 ヴィティ、迷う
私の部屋へと直行した兄は、そのまま私を部屋の中へと押し込んで扉を閉めた。
二人でも広すぎるくらいの部屋を、沈黙が支配する。
隣の部屋はフィグ様のお部屋だけれど、物音一つ聞こえない。引きこもりな主が不在の理由は、きっと、ノアさんだ。
またそんなことを考えてしまって、私は違う違う、と頭を軽く振る。
まだ、明かりをつけていない。そろそろ日が沈む。頼まれている部屋の掃除だって、これからだ。
――なのに。
仕事に戻る、とは言えなくて、私はただ、目の前のお兄ちゃんを見つめた。
「何があったの」
世話係を気遣うのは竜騎士様の役目だろうと思うけれど、心配そうな表情を隠そうともせずに、けれど、柔らかに問う姿勢はまさに理想のお兄ちゃんの姿そのものだ。竜騎士としてではなく、兄として、私を心配してくれているらしかった。
「……何も、ありません」
私には、何もない。周りが少し変化しただけだ。私に与えられる仕事も、確かにコロコロと変わっているけれど、それも、周囲が変化したから。私は、何一つとして変わっていない。
フィグ様と、ノアさんのことだって、私が気にするようなことじゃないのだし。
「嘘は良くないよ」
ふわりと頭にあたたかな感触。お兄ちゃんは、私の頭を良く撫でてくれるけれど、普通の兄妹ってこんな感じなのかしら。無条件で良くしてくれて、たまに、こっちがちょっとびっくりしちゃうくらい、愛情が重いけれど。
私も……お兄ちゃんに、もっと甘えても良いのだろうか。
「ヴィティは、一人で抱えすぎてしまうみたいだ。早くに親を亡くして、俺も、そばにいてあげられなくて。ずっと、一人だったからだね」
諭されるように、頭上からお兄ちゃんの穏やかな声が落ちてくる。
村長は、良い人だった。村の人たちだって、みんな良くしてくれた。けれど、確かに私は他人で、一日一日を食つなぐのに精いっぱいな村でわがままを言うことなんて出来なくて、いつの間にかそれが当たり前になっていたのかもしれない。
「ヴィティは頑張りすぎるから、心配なんだ」
我慢しなくていいよ、と背中を優しく二度たたかれて、私は唇を嚙みしめる。
どうして、こんなにも泣きたくなってしまうのだろう。
「おにい、ちゃん……」
私がゆっくりとお兄ちゃんの背に手を回せば、お兄ちゃんは私が込めた力よりも数倍の力で、ぎゅっと私を抱きしめた。
うまく言えないけれど、と前置きをして始めた話を、お兄ちゃんはしばらく黙って聞いていた。竜騎士として、そのような場面に何度も出くわしているのだろう。お兄ちゃんは聞き上手で、最後の方は、ついつい声を荒げてフィグ様の愚痴をこぼしてしまうほど。
「だから! もうこれ以上フィグ様に振り回されるのはこりごりです!」
どうしてこんなにもフィグ様のことばかり考えてしまうのだろう、とは口にしなかった。が、フィグ様のことが気になって仕方がないのはどうにも煩わしいので、ついついその気持ちが別の言葉になって出ていってしまう。
お兄ちゃんが曖昧な笑みをこぼしたのは、私が怒りをため息と共に吐き出した時だった。
それまで黙っていたお兄ちゃんが、ようやく口を開く。
「……ヴィティ、俺から一つ提案が」
「提案?」
「うん。でも、よく考えてほしい。自分の気持ちと、向き合って」
「私の、気持ち?」
「そう。俺が今からする提案は、きっと魅力的だけど、とっても悩ましいことだと思うんだ。だから、一時の感情に左右されて、安易に選ばないで」
真剣な表情になったかと思うと、冗談めかして
「俺としては、ヴィティが今の苦しい気持ちに負けて、安易な選択をしてくれる方が、嬉しいけどね」
と付け加えた。その言葉の意味はよく分からなかったけれど、多分、お兄ちゃんの歪んだ性格を物語っているのだと思う。
「提案って、何ですか?」
「簡単なことだよ。俺と一緒に、ベル家へ帰って幸せに暮らすか。それともこのまま、ここで仕事を続けるか」
「は?」
人差し指と中指を、ピッと立てて選択肢を提示する兄に、私はポカンと口を開ける。
いきなり、何を言っているのだ、と正直にそう思った。
けれど、確かに魅力的。世話係として、自分なりに精一杯やってきたつもりだったけれど、ノアさんという世話係が現れて、私はお払い箱状態。働かざる者食うべからずがポリシーな私としては、今のお屋敷は非常に居心地の悪い空間である。フィグ様を更生させることは出来なかったけれど、それも、ノアさんならきっとやってくれるに違いない。であれば、やっぱり、私の居場所はここにないような気がするのだ。
お兄ちゃんと一緒に、ベル家で暮らすのは、きっと幸せだろう。村にも帰れるだろうし、ベル家で雇ってもらえれば、今ほどではないにせよ、村への援助もいくらかは継続できる。
「……でも」
フィグ様とは、きっともう、二度と会えない。
私はただの田舎娘で、フィグ様は、この国を守ってくださる神様なのだ。
「ヴィティ」
あからさまにうろたえた私に、お兄ちゃんは追い打ちと言わんばかりに、私をじっと見つめる。
「俺は正直、ヴィティと共に過ごせたらどれほど良いだろう、と……そう、思ってるんだ。今まで離れていた分、これからはずっと」
甘言だ、と思う。お兄ちゃんはさぞ、モテただろう。歴代世話係の乙女たちを、一体何人口説き落としてきたのか。
――それとも、こうして、辞めさせたのか。
我が身内ながら恐ろしい人間である。妹でなければ、私はきっと、お兄ちゃんの手を取っていただろう。居場所のないこのお屋敷にすがるより、はるかに幸せになれそうだもの。
「だけど……」
脳裏によぎるのは、やっぱりフィグ様のことで。
ノアさんがついているから大丈夫だろう、と思う。いや、そうでなくても、本当はフィグ様だって一人で生きていけるはずなのだ。何せ、人間よりも強い竜という存在で、多少の無茶はきくと言っていたのだから。
それでも、私が、納得できていない。もっと、フィグ様と長い時間を過ごして、もっと、フィグ様のことを知って。フィグ様が、もっとたくさんの人に愛されるような、これから先、いろんな人を見送ったとしても、悲しまずにいれるような神様になれるように。
そのお手伝いを、一緒に、していきたかった。
そして、私に、認めさせて欲しかったのだ。
何かを失ってしまっても、信じられるものがあるということを――
「今すぐ、答えを出す必要はないさ。ヴィティ、ゆっくり考えればいい。でも、辛くなったら、いつでも俺のところへおいで」
お兄ちゃんは麗しの笑みを顔に浮かべて、私の頭をポンポンと優しく撫でる。
「さ、そろそろ俺は仕事に戻るよ。ヴィティは、今日は休むといい」
「でも……!」
「大丈夫。明かりも、部屋の掃除も、一日くらいサボったって、誰も困らないよ」
部屋の掃除はともかく、明かりはどうだろう。現に、お兄ちゃんは颯爽と扉を開けてから、少しだけ戦々恐々と暗い廊下へ足を踏み出している。
「やっぱり、明かりくらいは」
「大丈夫、大丈夫! 俺がつけておくよ」
私が慌てて兄を追うも、彼はヒラヒラと手を振って、真っ暗闇の中を、まるで見えるようになったとでも言うように進んでいく。軍人だから、もしかしたらそういう訓練を積んでいるのかもしれない。
閉まった扉。小窓から差し込む小さな光。
結局、ノアさんに会うのも、フィグ様に会うのも気まずすぎる私は、広すぎる部屋で一人、提示された兄からの選択肢をぼんやりと考えるのだった。
妹が弱っているところを見逃さない打算的なシスコンブラザー。
ですが、そんな彼のおかげ(?)で、ヴィティの中にもフィグ様への想いが芽生え始めているような気が……?
そして、この混沌とした状況を打破するのは女神様こと、ノアさん!?
次回「ノア、慌てる」
何卒よろしくお願いいたします♪♪




