第四十六話 ヴィティ、感激する
「お兄ちゃん?」
すっかり放心している兄の脇腹を小突く。
彼はビクリと大げさなまでに驚いて、激しく頭を振った。長く息を吐いて呼吸を整え、再び眼前の女性を見つめて……やっぱりお兄ちゃんは、信じられない、と口を開ける。
「……ミス・スリーズ……」
干上がった声は、ほとんど音になっていない。それでも、ミス・スリーズ、と呼ばれた女性は、顔色一つ変えることなく
「なんでしょうか、マリーチ様」
そう明白に兄の名を呼んだ。
竜騎士様はすべからくおモテになられるので、もしかして、お兄ちゃんのファンの女性かもしれない、とは思ったが、どうやらそれどころではないらしい。
兄の動揺ぶりは、それこそ、知人以上の関係性であることを物語っている。普段、飄々としているだけに、異様な姿だ。
大臣と副大臣も、彼女と兄の間に飛び交っている視線の意味を汲み取ろうとあっちへこっちへと虚空に瞳をさまよわせる。
無音なのに、うるさいくらいの四人の視線がそれぞれに交錯する様は、最も部外者である私でさえも、異空間に飲み込んでしまうようだった。
それもこれも、お兄ちゃんのせいだ。責任を取って、早くこの空気を何とかしてほしい。
私は再びお兄ちゃんの脇腹をつつき、すっかりどこかへ旅立とうとしていた兄を、なんとかこちら側へと呼び戻した。幽体離脱はなんとか避けられたようである。
ゴホン、とわざとらしいほど大きな咳ばらいをすることで、兄はなんとか正気を取り戻したのだが、数多の女性を射抜き、心を掌握してきた彼も、目の前の女性を見つめることは出来ないらしかった。
視線をあさっての方向へと投げて、
「なぜ、ここへ?」
と、まるで浮気がばれた夫の真似ごとをする。
(……え? 真似だよね? 本気じゃないよね。お兄ちゃんがそんなことする人だとは思わなかった)
私が思わず冷たい目を向けると、兄はブンブンと首を振って、浮気じゃない、とアピールする。怪しすぎる。
「マリーチ。この方は、君と知り合いかね」
見かねた副大臣も、部下の痴態をこれ以上さらす訳にはいかないと思ったのか、それとも興味本位か、複雑な表情だ。
「い、いえ……その、えぇ、まぁ、はい」
「イエスか、ノーか。どちらだ。マリーチ」
「イエス、です」
「そうか……」
見損なったぞ! と続きそうなセリフだが、それはもう一人の当事者、ミス・スリーズによって遮られた。昼ドラ展開神回避である。
「わたくしは、ベル家のハウスキーパーをしております。マリーチ様は、主様のご子息であられますので、知り合いということになるかと」
ケロリ、サラリと述べられた言葉に、お兄ちゃんは天を仰ぎ、大臣と副大臣は目を見合わせた。少しがっかりしているように見えるのは、気のせいだろうか。かくいう私も、お兄ちゃんの不倫や浮気なんてのは信じたくない、と思いつつも、どこかで修羅場を所望していただけに、内心はやや残念だ。
「以前、ヴィティ様に代わって、竜の世話係を一日勤めさせていただきましたが、仕事の内容も、待遇も申し分なく、今回、応募させていただいた次第です」
「え⁉」
「ヴィティ様。ご挨拶が遅れ、申し訳ありません。先日、お留守を預かりました、ノア・スリーズと申します」
スリーズさんは、笑みを浮かべることもなく、淡々とその事実を語る。
まさか、お兄ちゃんと王都へ行っていた日、代わりに来てくれていた女性だったとは。
一日フィグ様と一緒にいて、それでも世話係の仕事を申し分ないと言ってくれる貴重な人材に、私は思わず身を乗り出す。
少しばかり愛想はないかもしれないけれど、受け答えにソツもなく、何より、あの日の仕事の出来栄えは完璧だった。屋敷に戻ってすべての家事が終わっていた上、普段、私が出来ていないような場所の掃除や、頼んでいなかった家事までこなしてくださっていた、あの臨時の世話係様が、まさか目の前の女性とは!
あぁ、神様。なんと素晴らしきかなこの世界――
フィグ様、万歳。彼女こそ、私の女神様です。スリーズ様、万歳!
私は大きく手を上げ、そのまま机へと向かって頭ごと下げる。
「その節は、本当にありがとうございました!」
いまだ天を仰ぎ見る兄と、地に伏せる私。正反対な対応に、大臣たちは困ったことだろう。もはや、この混沌を抑え込む人間はこの場にはいない。
「スリーズさんのお仕事は、完璧でした! 本当に、ほんとうに! スリーズさんがよろしいのであれば! ぜひ、お願いしたいです‼」
人事権なんて私には一切ない。が、なんなら、私が解雇されたっていいくらいだ。代わりにスリーズさんを雇っていただきたい。
一日世話係体験をしたのに、懲りずにまたこうして来てくれる人なんて、きっとこの世界中を探したってそういない。
「ヴィ、ヴィティ!」
ようやく現実に追いついて、ちょっと待ってくれよ、と言いたげな兄に、今度は私が大きくかぶりを振った。
「お兄ちゃん……いえ! マリーチさん! 以前、彼女が来てくださった時の、その素晴らしい働きぶりを知らないのですか! あの日は、埃一つ廊下には落ちておりませんでしたし、夕食まで作っていてくださいました。フィグ様のお部屋だって美しく整えられていて、洗濯物はいつも以上にパリっと爽やかな仕上がりでした!」
一気にまくしたて、私はグルンとスリーズさんへ体ごと向き直る。もう一度深く頭を下げて、どうぞ世話係になってください、と全身で表現すれば
「……ヴィティさん、落ち着きなさい」
粛々とした大臣の声が聞こえた。
「マリーチ。君の言い分はどうだね」
「い、いえ……。確かに、ノア……いえ、ミス・スリーズの普段の働きぶりは、ベル家でも素晴らしく、最も優れたハウスキーパーだと聞いておりますが」
だからこそ、なぜ、ベル家をやめて竜の世話係なんかに、とお兄ちゃんは消え入りそうな声で呟いた。
ベル家での待遇がどの程度のものか私は知らないが、お兄ちゃんを養子としてここまで育ててくださった方のことだ。悪くはないだろう。少なくとも、フィグ様のもとで働くよりは数千倍マシに違いない。
「国を守護する神様にお仕えできるなんて、国民としてこれ以上名誉なことはありません。ベル家には大変お世話になり、まだまだ恩義を返しきれたとは言い切れませんが、竜神様にお仕えすることで、同じく国を守る軍家であるベル家にも、恩返しができるかと」
淀みなく語るスリーズさんの目は、嘘も偽りもなく見える。同じくらい、愛想もないので、本心かどうかも分からないけれど。
「素晴らしい。どうだね、マリーチ」
君さえ良ければ、彼女を。満足げに目を細める大臣と、いくら探しても見つかりそうもない粗探しに飽きた副大臣が、お兄ちゃんをじっと見つめる。
お兄ちゃんは、優秀なハウスキーパーが、突如、あの、竜神様に仕えたいと言い出したのだから、混乱しているのだろう。
「スリーズさん、一つ、確認が」
「はい」
「竜の世話係になるということは、竜の血を飲むということです。竜の血は毒で、死に至ることもあります。それでも、よろしいのですか」
せめて、お兄ちゃんの代わりに、と私が、彼女に投げかけると、お兄ちゃんの瞳が一瞬、期待に揺らめいた。断る理由はこれしかない。断ってくれ、と言わんばかりの兄は、ひしとスリーズさんを見つめる。
だが。世とは無情なり。
「もちろん、承知しております。わたくしは、それでも志願したのですから」
スリーズさんの、意志が、ワインレッドのように輝く瞳と共に、兄を貫いた。
竜の世話係を志望する女神・スリーズ様にすっかり感銘を受け、彼女をどうしても世話係にしたいヴィティ。
けれど、マリーチさんはかなり渋っているご様子です。
果たして、ヴィティは兄の反対を押し切り、無事に彼女を新たな竜の世話係としてゲットすることは出来るのでしょうか。
次回「ヴィティ、決める」
何卒よろしくお願いいたします♪♪




