第三十八話 ヴィティ、呼ばれる
フィグ様は、何か言いたげに口をもごもごとさせた後、私の隣にドカリと腰かける。ソファが立てた音は、いつもと違って軽やかに聞こえた。
「お疲れですか?」
たくさん食べて、竜騎士様たちをドヤして、酔わないとはいえ大量の酒を煽って。普段、引きこもりで、人との会話もほとんどないような竜神様が、ここまではしゃいだのだ。気づいていないだけで、フィグ様自身も多少なり疲れはあるだろう。
『……別に』
そういう訳ではないが、と彼は視線をさまよわせる。やがて、ズルズルと体をこちらへ傾けたかと思えば、フィグ様は私の肩に頭を預けた。
「楽しかったですか?」
『ま、まぁまぁ、だな』
口をとがらせ、不本意そうに答えるフィグ様の本心は、きっと、楽しかった、だろう。
「去年までのお誕生日は、どんな感じだったんです?」
『一々覚えている訳がない』
「それもそうですね」
二千五百回目の誕生日。フィグ様にとっては、これもそのうち忘れてしまうようなものかもしれない。
いつか、フィグ様がもっと良い神様になって、みんなから愛されるようになれば、それこそ今回以上に素晴らしいお誕生日パーティは何度も開催されるだろうから。
「いつか、そういう日が来ると良いですね」
『むしろ、なぜワタシが今も祝われていないのか理解不能だな』
「……そういうことを、おっしゃるからじゃないですか」
『失礼な』
「嘘をつくのが苦手なもので」
『ふっ、貴様の嘘はひどかったな』
クツクツと笑みを嚙み殺すフィグ様は、やがて、ゆっくりと息を吐いた。
『……まったく、貴様が来てから騒がしい』
「それはすみませんでしたね」
嫌味たっぷりに謝罪を述べても、フィグ様は、ふん、と鼻を鳴らすだけだ。嫁をいびる姑よろしくお小言が続かないのは、やっぱりお疲れだからだろう。静かなフィグ様というのは、なんだか落ち着かない。
『無礼者め』
「お疲れなら、ベッドでお眠りになられては?」
『疲れてなどない』
「フィグ様も、たいがい嘘が下手ですよ」
プイと顔をそむけたフィグ様は、さらに私の方へと体重をかける。眠いならベッドで寝てほしい。このままじゃ、私が神様の寝床になってしまう。
『それも悪くないな』
「悪いことしかないですよ」
どこの国に、人間を寝床にする神様がいるというのか。二千五百年も生きているというのに、ちっとも人間に優しくすることを覚えないなんて、まだまだ世話が足りないらしい。一体、何年世話をすれば、皆から愛される、真の神様が出来上がるのだろう。
『うるさい』
「私が死ぬまでには、もう少しまともになっていらっしゃると良いんですけど」
我が主ながら、この先が不安でしょうがない。
『小娘ごときに、どうこうされるワタシではない』
「そうですね」
だからこそ、不安なのだが。この調子では、次の盛大なお誕生日パーティも、開催されるか不安である。
『……来年も』
「え?」
『来年も、また、やればいいだろう』
「お誕生日パーティ、気に入ったんですか?」
『うまい飯と酒が出る。悪くないと思っただけだ』
子供みたいなお願いごとを、見栄やプライドで飾り付けるフィグ様の言い方は、いつだって回りくどい。素直じゃないから、たくさん誤解されてしまうし。
でも、そういう言い方をする時こそ、フィグ様の本音が隠れているのだ。
「また、来年もやりましょうね」
『ふん。盛大に祝わせてやろう』
「盛大に祝われてください」
可愛いところもあるじゃないか。私が思わず笑みをこぼすと、フィグ様はバツが悪そうに、さらに私の方へと体重をかけた。
「重いですよ」
『誕生日というのは、その人間が主役になる日のことだろう』
「だからって、何でも許されるわけじゃありません、よ!」
ぐぎぎ、とフィグ様を体全部で押し返すと、対抗するように、彼は体に力を込める。
「何なんですか! もう!」
今日はやけに絡んでくるな。久しぶりだからだろうか。それとも、酒がまわってきたのだろうか。
「フィグ様!」
さすがにこれ以上は、と私が声をあげようとした時には遅く、私の体とフィグ様の体がソファへなだれこんだ。
フィグ様のサラリとした髪が、私の頬をかすめる。
顔を上げれば、ちょうど真正面に整いすぎたフィグ様の顔があり、雪の結晶のように美しいアイスブルーの瞳とかち合った。耳のすぐそばに置かれた腕からヒヤリとした冷気が伝わる。
そうでなくても、フィグ様の体温が感じられる距離に、私の鼓動がドクン、と大きく高鳴った。
じゃれていただけなのに、どういう訳か、主に押し倒された――そう考えて、良さそうだ。
やけに、冷静に回る頭と、それに追いつけず動揺する体はちぐはぐで。
すぐにフィグ様を押しのけて、この腕の檻から逃げ出さねばならない。
分かっているはずなのに、なぜ、体が動かないのか。
フィグ様は、宝石のように輝く瞳いっぱいに私を映した。ゴクリ、と彼の喉仏が動く様が見える。
竜神様が口を開く。冷たくて、酒と菓子の匂いが残ったような、どこか甘くて芳醇な吐息が、私にも届く。
『ヴィティ』
こんな時に、初めて名前を呼ぶなんてどうかしている。
竜神様とは、なんとずる賢いのだろう。麗しい顔で、狡猾な瞳で、穏やかな声で、全身で私を求めるなんて。
弱肉強食。この世の全てに当てはまる理は、人間と神様にも適用されるらしい。
捕食者の目だ、と思った時には、そんなフィグ様の顔がもはや唇の触れる寸前まで近づいていた。
「っ……」
私にできることは、息を止めることと、目を閉じること。それも、自らの意志というよりは、人間の本能として残された唯一の行動だった。
ドンドン、と打ち鳴らされた音が私たちの、ほんの数リィンの隙間を駆け抜けた。
私たちは互いにハッと目を見開いて、片方は不承不承を露わにし、片方は羞恥に顔を染めて体勢を戻す。もちろん、前者がフィグ様で、後者が私だ。
チッと舌打ちの音が聞こえたかと思えば、私を覆っていたフィグ様が立ち上がる。
『人間のくせに邪魔をするとは。何用だ!』
先ほどまでの上機嫌をすっかり忘れて、扉の向こうを怒鳴りつけたフィグ様に、
「ヴィティを呼びに来たつもりでしたが。竜神様もまだ起きてらっしゃったとは。これは失礼しました」
と扉の向こうからお兄ちゃんの声がした。どうやら、片付けの最中にフィグ様と共に消えた私を呼びにきたらしい。
「フィグ様、私、戻ります」
『……ふん。まぁいい。今日はもう寝る』
「えぇ、おやすみなさい」
できる限り赤い顔を見られないように、とフィグ様の隣を通り抜けようとすれば――その手を取られて、そのままフィグ様の腕の中に閉じ込められた。
「ちょっ!」
まだ何かあるのか。身構えた私に対して、フィグ様の行動は素早い。
『……ヴィティ、次は逃がさんぞ』
甘い声が鼓膜を震わせたかと思えば、首の裏にチリ、と冷たい痛みを感じて、私は咄嗟にフィグ様の腕から逃れた。
何を、とフィグ様を振り返ると、彼はまさに神と呼ぶにふさわしい傲慢不遜な笑みを浮かべていた。
『誕生日とやらも、悪くない』
お誕生日の夜は、二人にとってなんだかちょっと、特別な日になったようです。
ぐっと距離を縮めた二人。とはいえ、その感情をお互いに自覚しているかと言われると怪しく……。
その想いを自覚するのは、ヴィティとフィグ様、果たしてどちらが先なのでしょうか?
次回「ヴィティ、鼓動高鳴る?」
何卒よろしくお願いいたします♪♪
※作中単語、数「リィン」の「リィン」は、およそ一「ミリ」。
ヴィティたちが住んでいる国、ヘルベチカの長さの単位です。




