第三十六話 ヴィティ、涙する
「フィグ様!」
私は思わず、その大きな体に顔をうずめた。鱗がバリバリしていて痛いし、肌を刺すような冷気に凍りついてしまいそうになるけれど、だからといって、フィグ様から離れることは出来なかった。
フィグ様は、国を見捨てたわけではなかった。死んだわけでもない。また、こうして私の前に姿を見せてくれた。いつもは傲慢で、無慈悲で、冷酷非道な神様なのに、今回だけは、全てを許してくれたとでもいうように。
不安でいっぱいだった私の胸が、ついにその思いにこらえられなくなったというように張り裂ける。それは、耐えていたはずの涙となって、ボロボロと私の頬を伝った。涙はフィグ様のつるりとした鱗に落ちて、なめらかな表面を滑る。
「ごめんなさい、フィグ様。ごめんなさい」
『ふん……。すべてを許すのが、神だと言ったのは貴様だろう』
フィグ様は、キィリリ、と小さく鳴く。喧嘩別れをして、まだ怒っているとばかり思っていたのに、その鳴き声は透き通っていて、どこか嬉しそうにも聞こえるから不思議だ。
『人間ごときに振り回されるようなワタシではない』
フィグ様は私を見下ろして、再び美しい鳴き声をあげると、一度バサリと大きく翼を拡げた。純白のそれは、分厚い雪雲の隙間から覗く陽にまばゆく反射する。まさに、神様の姿だ。
『まったく、人間とは愚かだな』
「えぇ……本当に。フィグ様のご気分を害してしまって、ごめんなさい」
どうしてフィグ様があんなに腹を立てたのかは分からない。けれど、その原因が自分にあるのなら謝りたいのだ。幸いにも、フィグ様は全てを許してくださるという。
『……ふん。別に、怒ってなど』
どこか気まずそうに顔をそむけるフィグ様に、私は再び、ぎゅうと抱き着いた。婚約もしていない相手に抱き着くなんて、はしたないのかもしれない。でも、相手は竜である。犬や猫みたいなものだ。ズビズビと鳴る鼻を押し付けたって、フィグ様は寛大だから許してくれる。
『ワタシは竜だぞ! あと、鼻をおしつけるな!』
「……フィグ様が、竜で良かったです」
どこまでもつやめく鱗も、白や銀にきらめく体も、大きな翼も、冷たい手も。
素直に抱きしめられるのは、フィグ様が人間の姿じゃないからだ。だからこそ、私は、フィグ様がいなくなってからの時間を埋めるように、物理的な距離を、ゼロに近いところまで埋められる。
「フィグ様が、見つかって良かったです」
主不在では、竜の世話係としての役目も失われてしまう。村への援助もなくなるかもしれない。
いや、そんなのは建前だ。本当は、私自身の新しい家が、ほんの少しだけ悪くないと思えてきたフィグ様との日常が、なくなってしまうことが怖かったから。
心の声が聞こえていようがいまいが、そんなこと、今は関係ない。
どんなにむかつく竜神様だって、私にはもう、なくてはならない主様なのだ。
フィグ様は、ゆるゆるとしなやかに、私の目線まで視線を下げた。
『……バカな小娘だ』
「そうですね。なくして、初めて気づくんですもの」
この国を他国から守るようにそびえ立つ霊峰、ホルン。その雪山と同じアイスブルーの瞳が、私をいっぱいに映す。
『貴様の主は、ワタシだ。貴様は、ワタシが良いと言うまで辞めてはならん』
「じゃぁ、フィグ様も、私がいなくなるまで、いなくならないでくださいね」
『主に命令するとは、生意気だぞ』
「世話係ですもの。竜の、お世話をしなくてはいけませんから」
『どこまでも、共にすると誓え』
「フィグ様が、人の住む地に戻ってきてくださるのなら」
『まだ言うか』
「フィグ様こそ、いつまでここにいるおつもりですか」
『ふん! 屋敷へと戻ってきてほしいのなら、素直にそういうんだな!』
勝ち誇ったようにギラギラと狡猾な瞳を向けるフィグ様に、私は思わず肩をすくめる。
(ちょっと下手にでたら、すぐこれなんだから)
しょうがない。ここは私が大人になろう。フィグ様には、お屋敷に帰ってきてもらわねば、私の仕事もままならない。
『分かればいい』
「じゃぁ、そういうことで」
『おい!』
「なんですか?」
『言葉と! 態度で! 表せ!』
「心の声は、ばっちり聞こえてましたよね?」
『後ろに余計なものもついていただろう!』
首を軽く振った私を、ヤレヤレじゃない、と脳内で怒鳴りつけるフィグ様は、すっかり横暴な神様に戻っている。
「ようやく、私たちらしくなってきましたね」
『ドヤ顔をするな』
ギロリと上から睨みつけられ、私は思わず吹き出した。
やっぱり、フィグ様がいなくちゃ。あんなに広いお屋敷で一人なんて、気がおかしくなってしまうもの。張り合える相手がいてちょうどいい。
「フィグ様」
『……なんだ』
「私と一緒に、お屋敷へ戻りましょう」
『ふん。考えてやらんこともない』
「この場所は、か弱い美少女には少し寒いですし」
『グルゲン語で話せ』
「グルゲン語でしたけど」
私が真顔に戻れば、今度はフィグ様が笑い声をあげた。
「ほんと、ひどい神様ですね……って、ぎゃぁっ⁉」
『か弱い美少女の出す悲鳴とは思えんな』
「急に掴まないでくださいよ! っていうか! 高い高い! 落ちる!」
『落とすか』
「フィグ様ならやりかねないかと!」
『落とすぞ』
「ごめんなさいごめんなさい! 嘘です! 許してください! フィグ様、かっこいい!」
私を掴んだまま、ゆっくりと空へ向かって羽ばたくフィグ様は、木々のすれすれを縫うようにして屋敷へと向かう。木にぶつかってしまいそうなくらいギリギリの低空飛行は、あからさまに嫌がらせだが。
雪混じりだった風は、数分とたたないうちに、ヘルベチカを横断する初夏の風へと変わる。私の頬を撫で、髪を揺らす風は穏やかで、いつも通りの日常を運んでくる予感がした。
屋敷の庭で、フィグ様は相変わらず人の姿に戻りながら、優雅に着地した。一瞬だけ、私を空中に一人置き去りにして。これで二度目だが、やはり許すまじ。内臓が浮いて、体がバラバラになってしまうようなあの恐怖に、私は本能でフィグ様を恨んでしまう。
だが、フィグ様は何が面白いのかニヤリと笑って、横抱きにした私を見下した。見下ろしたのではない、見下したのだ。
『今度はもっと高いところからやってやる』
「悪魔め」
『何か言ったか?』
楽しそうなフィグ様に、私はむかつく、とフィグ様の体からの脱出を試みる。だが、フィグ様はしかと私の体を捕まえたまま。
「……おろしてください」
『嫌だ』
「……重いですよ」
『か弱い美少女なのだろう?』
「うるさいですよ」
だんだんと冷静になってくれば、フィグ様に横抱きされて広大な庭を横切っていることが恥ずかしくなってくる。
しかも、何名かの竜騎士様が私たちの姿を見つけて、何事だと小窓を開け始めたからなおさらだ。いなくなったと思っていた神様が、世話係を横抱きにして突然戻ってきたのだ。竜騎士様たちが慌てふためくのも当たり前である。
玄関扉が開け放たれ、お兄ちゃんが驚きとも、困惑とも、そして喜びともつかぬ複雑な顔をしてこちらに近寄ってきた時には、消えたいと思った。
「フィグ様……!」
おろしてください、と真っ赤な顔で訴えれば、フィグ様は何やら楽しそうに鼻を鳴らして、なぜかお兄ちゃんに好戦的な視線を向けた。
『覚えておけ、竜騎士よ。この娘は、ワタシの世話係だ』
突然謎の宣言をされ、お兄ちゃんは目を白黒させるが、それをどうとらえたのか、フィグ様は満足げに屋敷へと足を踏み入れる。
ニタニタと下劣な笑みを浮かべる竜神様、もとい、悪魔の姿を見上げて、私は、やっぱりこの神様、戻ってこなくて良かったかもな、と苦笑した。
無事に仲直り出来た(?)ヴィティとフィグ様。
やっぱり、なんだかんだお互いにいなくては、張り合いがないようです。
これで無事に、フィグ様のお誕生日のお祝いも出来ますよ!
次回「ヴィティ、祝う」
何卒よろしくお願いいたします♪♪




