第二十七話 ヴィティ、勉強する
王都から戻った翌日から、私は少しずつ勉強を始めた。
竜の世話係に必要な知識や技術はおそらく、家事全般をきちんとこなせることと、フィグ様のご機嫌とりなのだろう。けれど、出来ることがたくさんあって損はない。
少なくとも、竜騎士様たちは博識だし、フィグ様も長年生きてきたからか、国のことには詳しい。竜の世話係にだって、同じくらいの知識量があれば、もっと深い話が出来るかもしれない。
掃除や洗濯、料理の合間に、まずは文字を覚えるところから。村長や村の人たちのおかげで、四か国語を話すことは出来るが、読んだり書いたりするのは苦手だ。日常生活に支障のない範囲では問題ないのだが、専門用語になると途端に時間がかかる。特に、村でよく使っていたヴォヌール語はともかく、そのほかの言語で特殊なものはそもそも知らないことが多い。
この辺りで使われているグルゲン語から始めたのだけれど……もうお手上げ状態。
ツェルトの町で教えてもらったレシピをいくつか書きつけた木板とにらめっこしながら、料理と文字を同時に覚えていくのが最近のマイブームだ。
『また読んでいるのか』
ヒヤリとした吐息と、のしっとした重みを感じる。夜の厨房など、湯浴みをした後の主人が来るような場所ではないと思うのだが、フィグ様はお構いなしだ。というか、こうやって夜になっても関係なく屋敷の中をフィグ様がウロチョロするせいで、明かりをつけて回る作業が大変なことに気付いてほしい。
『うるさい』
「フィグ様って夜行性なんですか?」
竜の生態について詳しくはないが、目元や鱗なんかが爬虫類に似ていたから、夜の方が活発なのかもしれない。お昼に寝ていることが多いのも、そのせいだろうか。だとすれば、冬眠もしそうなものだが。寒さに強いというフィグ様の供述によると冬眠はしなくて済むのか。考えれば考えるほど、不思議な生き物である。
『学者か』
「竜のことを研究されている方がいらっしゃるんですか」
『……いる』
「なんで、そんなに嫌そうなんですか」
『体の隅々まで調べられてもみろ』
なるほど。それは確かに大変そうだ。いつの時代の話だろう。解剖はされていないようだけど。
心底憎たらしい、としかめ面のフィグ様に、私が思わず笑みをこぼすと、むにりと頬をつねられた。
「いひゃいです」
『学があり過ぎるのも厄介だな』
「真面目に勉強しているんですから、邪魔しないでくださいよ」
『ふん。貴様は素養がありすぎるんだ』
「褒めてます?」
『さぁな』
フィグ様は、私の後ろから手を伸ばすと、私が試作していたパン・デピスをひょいとつまむ。
「あ、ちょっと!」
『まぁまぁだな』
「つまみ食いしないでくださいよ。まだ上にシロップをかけようと思っていたのに」
『これは何だ』
「パン・デピスというお菓子です。教えていただいたレシピにレモンピールを加えてみたんですけど、火加減が変わってしまって。なかなか難しいですね」
先日、王都でタルトを食べて以来、お菓子作りにはまってしまったのだが、なかなかうまくいかない。だからこそ、こうして夜な夜な改良を続けているのだが。パン屋で譲ってもらった生地もなくなってきたし、お披露目する日も近い。そろそろ完成させなければ。
『昨晩も作っていたのか?』
「えぇ。昨日はレシピ通りでしたから、もう少しおいしく出来てたんですけどね」
『ワタシは知らんぞ』
「今朝、マリーチさんに差し上げましたので」
『またあいつか』
忌々しげに舌打ちをするフィグ様は、再びパン・デピスの欠片に手を伸ばす。まるで、誰かにとられまいとするかのように。
「フィグ様は、マリーチさんと何かあったのですか」
『別に』
「大人の喧嘩ほど、みっともないものもありませんよ。できれば、早く仲直りしてください」
『何もないと言ってるだろう』
「それは、何かある時の態度ですよ」
『ふん。気に食わんだけだ』
「どうしてです?」
『貴様には関係ない!』
もぐもぐと菓子を咀嚼しながら怒鳴られても怖くないのだが、フィグ様はそのことに気付いていないようだ。ペロリと指に残った欠片をなめとる姿も、神様のそれとは思えないが、夜分遅くに説教をするのも気が引けるので目をつぶる。
「あぁ、そうだ。明日は午前中、マリーチさんが来られて勉強を教えてもらうんです。応接間にいますから、何かあったら呼んでください」
再び舌打ちの音が聞こえた気がするが、気のせいか。
『……ワタシだって、この国のことなら少しくらい』
「教えてくださるんですか?」
『気が向いたらな』
まさかフィグ様から直々にそんなことを言ってくださるとは思わなかった。気分屋なので、明日には忘れているかもしれないが。
『ふん。馬鹿で哀れな小娘に、ちょっとくらい知恵を授けてやってもいいと思っただけだ』
「すごい罵倒ですが……ありがとうございます、フィグ様」
フィグ様は私のお礼を聞くと、満足したのか、パン・デピスをまるごと抱えて部屋へと戻っていった。
翌日、マリーチさんがキラキラとした目で玄関先に立っていたものだから、私は真っ先に頭を下げた。
「すみません、マリーチさん。今日はお菓子がないんです。昨晩、フィグ様に、パン・デピス改良版をさらわれてしまいまして……」
「……そうでしたか。それは残念ですね」
あからさまにシュンとしたマリーチさんの頭に、垂れた耳が見える。そんなに好きだったのか。
確かに、レシピ通りに作ったお菓子はほんのりと甘くて、もちもち、しっとり。噛めば噛むほど、口の中でじゅわりとハチミツが染み出るようだった。ほのかに鼻を抜ける香辛料も、食べる手を進めてしまって。作った私でもなかなかうまく出来たと思っていたけれど。
「その代わり、お昼ご飯は少し多めに作っているので、良かったらご一緒してください」
「良いんですか?」
「色々とお教えいただいているお礼ですから」
マリーチさんには、読み書き、計算、国の歴史と政治について教わっていて、ご飯やお菓子くらいでそのお礼になるのなら安いものだ。そもそも、材料は全て竜神様のお供え物として扱われるらしく、私の財布からは一ジントも出ていないのだし。
「竜神様にまた嫌味を言われてしまいますね」
あからさまにため息をつくマリーチさんは、それでもどこか嬉しそうだ。
「フィグ様と何かあったのですか?」
「何かあった、と言えばあったのかもしれませんが……」
「昨晩、フィグ様にも仲直りしてくださいと言ったのですけど」
「それは難しいでしょうね。なんといっても、本人に自覚がありませんから。誤解というのも変ですが、こればかりはなんとも言えません」
マリーチさんは難しい顔をしているが、その返答はいまいち的を射ておらず、私には何のことだかさっぱりである。何かできることがあればいいのだけれど、どうやらそう簡単な問題でもないらしい。
「可愛らしい世話係を、俺にとられるのが気に食わないのでしょうね」
何気なく付け足された言葉に、私がキョトンと首をかしげると、マリーチさんも困ったような笑みを浮かべる。
「きっと、近いうちに時間が解決してくれますよ」
マリーチさんは意味深な言葉を最後に、この話を料理や最近の国での出来事、そして計算の問題にすり変えた。
ヴィティは、お仕事に、勉強に、そしてお菓子作りに……と充実した日々を送っているご様子。
お菓子作りのそろそろ「お披露目が近い」の意味はそのうち……!
そして、最後のマリーチさんの意味深なセリフの意味が次回、明かされます!
次回「ヴィティ、驚愕する」
何卒よろしくお願いいたします♪♪
※作中単語、一「ジント」は、約二十五円くらい。
ヴィティたちが住んでいる国、ヘルベチカのお金の最小単位です。
パン・デピスは実際に存在するお菓子ですので、気になった方はぜひ作ってみてください♪♪




