第十六話 ヴィティ、町へ出る
フィグ様は、人の姿に戻りながらゆっくりと降下し、最後は器用にも私を抱きかかえて着地した。一体全体どうなっているのか私には分からないが、少なくとも、フィグ様が竜の姿から完全な人の姿に戻るまでの一瞬の間、私は空に一人だった。もちろん、その時、私はすごい速度で地上へと落下したし、もちろんフィグ様を呪った。
フィグ様は、涼しい顔一つ崩すことなく抱きかかえていた私をおろすと、
『行くぞ』
と歩き出す。
「ちょ、ちょ……‼」
待ってください、の声も干上がってしまった私は、震える足でフィグ様を追う。マリーチさんといい、フィグ様といい、男共は乙女のか弱さをなめているのではなかろうか。それなりに丁重なおもてなしを希望したい。もっとも、マリーチさんにはともかく、フィグ様には絶対に聞き入れてもらえないことは明白だが。
まばらだった家々が、やがてその間隔を詰める。同時に賑わいが増して、窓辺に置かれた花壇や、軒先に干された洗濯物が私の視界を鮮やかに彩った。うっすらと積もった雪の隙間に、美しく舗装された石畳も見える。そんなことさえ、獣道が当たり前な私にとっては新鮮だ。
ただ、全てが良いことばかりではなく……行きかう人々が、フィグ様を見つけるなり、さっと目をそらしていることには、見て見ぬふりをした。物好きな女がいたものだ、と私をジロジロと観察するような視線からも目をそむける。
なんとなくいたたまれなくて、私がフィグ様の方を盗み見ると、彼は全く気にしていないのか、気持ちが良いほど堂々と前を向いている。
(こんなに人が多くて、うるさくないのかしら)
そもそも、町のあちらこちらから聞こえる音だけでも、普段の、だだっ広い屋敷での二人暮らしに比べれば、十分すぎるほど賑やかだ。加えて、フィグ様は心の声を聞く。おそらく、ツェルトに住む人たちの態度からしても、良い声ばかりが聞こえてくるとは限らないだろうに。
『もう、慣れている』
前を向いたまま答えたフィグ様の声が、いつもよりもさらに冷たくて、私は思わず目を伏せた。足元の雪がシャクシャクと音を立てる。フィグ様の一歩に、私の二歩。その距離は以前埋まらないまま。
今は少しだけ、フィグ様のお側にいてあげたい。なぜか、私はそう思う。
『……なぜ』
少し前を歩いていたフィグ様がピタリと立ち止まり、私は慌てて足を止める。今度は、鼻をぶつけないように。
「どうかしたのですか」
私がそっとフィグ様の顔を覗き込むために正面へと回り込むと、彼は私をじっと見つめた。フィグ様の顔はむず痒そうに、奇妙にゆがんでいて、少し面白い。
『情けをかけて、貴様は救われるのか』
町のど真ん中で、突然哲学を語りだす神様の世話係をさせられている程度には、救われていないと思う。そもそも、情けをかけた覚えもない。
『何が目的だ』
「まったく話が見えません。それより、食料を調達しましょう。哲学的なお話は、おうちに帰ってからいくらでも付き合いますので。ほら、日が暮れてしまいますよ」
フィグ様と違って、私にはフィグ様の心の内を読むことが出来ないのだ。意味不明な会話で、買い物の時間がなくなるのは惜しい。購入したいものも多い。
フィグ様には申し訳ないが、今やるべきことは食料調達。ついで、日用品の調達と、古くなったものを買い変えることだ。私には、帰ってからもやるべきことがあるし、うかうかはしていられない。
私がいまだ足を止めたままのフィグ様の手をむんずと掴んで歩き出すと、私たちを遠巻きに見守っていたであろう町の人々から一瞬のざわめきが聞こえた。きっと、このざわめきも、フィグ様には何倍もの音になって聞こえているはずである。そう考えると、フィグ様が引きこもりであることにも納得できる気がした。
あまり長居するのは、フィグ様のためにも良くはなさそうだ。自業自得とはいえ。
「フィグ様、今日は何が食べたいですか」
『な、ならばあのチーズ焼きを……』
「後から変更はなしですよ」
そんなにチーズ焼きが気に入ったのか。フィグ様は意外と庶民的な食べ物が好きらしい。覚えておこう。
「ワインも買いましょう」
『あ、あぁ』
どこか上の空なフィグ様を引きずって、私は次から次へと店をまわっていく。
幸いにもお金はある。世話係としての賃金が、日に日に溜まっていくばかりだからだ。確かに、世話係になる前に「援助する」とは言われたが、それにしたってもらい過ぎなくらいにはいただいている。
賃金は一日の終わりに支給される、と聞いた時には驚いたけれど、これも世話係があまりにもすぐに辞めていくからであろう。まさか、そんな勤務形態がこんなところで活かされるとは。
どこに何の店があるのか、店員と会話をしながら情報をもらい、少しずつ買い物を済ませる。
ツェルトに来るのはもちろん初めてだが、町での買い物も人生で初めて。心が浮足立っていないか、と問われれば、答えはもちろんイエス。
だが、いかんせん、人の多いところはフィグ様の負担になるのだろう、と分かってからは気持ちも落ち着いた。
私が町へ行こうと誘ったから、きっとフィグ様はついてきてくださったのだ。不器用だから、そうは言わないだけで。
『……うるさい』
「フィグ様は、もっと素直になるべきです」
『うるさい、ワタシは別に!』
「……あ、すみません! おばさま、こちらの石鹸はいくらですか?」
店先のおばさまは、私とフィグ様の顔を交互に見やってから、おずおずと答えた。
フィグ様も完全に嫌われているわけではないらしい。確かに、神様と聞いては、畏れ多いという気持ちの方が大きいのかもしれない。世話係の噂は聞いているだろうから、決して歓迎ムードではないけれど。
『うるさい』
「も、申し訳ありませんっ!」
「あぁ! 違うんです、おばさま。今のは私に対してです。本当に申し訳ございません」
おばさまに勘違いさせないでください。私がフィグ様に鋭い視線を送ると、フィグ様は気まずそうに目をそらす。相変わらず、口笛はへたくそだ。私と同じくらい。
「おばさま、何か困ったことがあればおっしゃってくださいね。こちらの神様は、決して良い噂もありませんけれど、その噂が全てではありませんから」
「え、えぇ……」
困惑するおばさまに笑みを投げかければ、隣の主はおばさま以上に困惑した顔で立ち尽くしていた。勝手に神の恩恵をばらまくな、と言いたげである。口をつぐんでいるのは、先の失態のせいか。
人に慣れているわけではないのか、竜のくせに猫かぶっているあたり、フィグ様の本質が透けて見える。誰だって、好きで嫌われているわけではないのだ。どんなに気丈に振舞おうと、神様としてちやほやされたいのは、フィグ様とて同じだろう。
「二エジョー、一アルですが……その……本当によろしいんですか?」
石鹸と交換にお金を渡す私に、おばさまが震える声で尋ねる。
「良いも何も、当たり前のことです。神様だからと言って、お金を支払わなくて良いなんて、ありえませんから」
「で、ですが……」
「どうしても、と言うのであれば、一アルだけ、おまけしてくださいませんか。また買いに来るので」
ニコリと私が微笑むと、おばさまは少し戸惑った後、小さくうなずいた。後ろにいるフィグ様のことを気にしているようだが、フィグ様はすでにこのやり取りから興味を失っているようで、くあぁ、と小さくあくびをしている。神様にあるまじき態度だ。
村での貧乏な生活が抜けず、思わず石鹸を値切ってしまったが、今までは支払ってすらいなかったのかもしれないと思うと、私はなんと可愛らしいものだろうと思える。
お礼を述べて、また歩き、全ての買い物を済ませるころには、フィグ様の姿に町の人々もすっかり慣れたようだった。
ヴィティも、初めての町、人生初のおつかい(?)を楽しめたご様子。
フィグ様も、ヴィティの神(?)対応になかなかまんざらでもなさそうですね。
お買い物の最後に、フィグ様からのプレゼントが……?
次回「ヴィティ、気に入られる?」
何卒よろしくお願いいたします♪♪
※作中単語、二「エジョー」と一「アル」は、約二千五百円くらい。
ヴィティたちが住んでいる国、ヘルベチカのお金の単位です。




