第十三話 ヴィティ、歌を聞く
「フィグ様、どちらに」
『吹雪を止めるのだろう』
なぜか私の手を引いたまま、フィグ様はずんずんと屋敷を歩く。その方向は、明らかに玄関先だ。引きこもりの主が、まさか自ら進んで外に出るとは。
だが、少し待ってほしい。純粋に足が速いというのもあるが、このまま外に出るには寒いと思うのだ。いや、フィグ様は寒さには慣れていると言っていたけれど。
私がそんなことを口に出そうとした瞬間、目の前に背中が迫って、私はその背中にコツンと鼻頭をぶつける。どうやら、前を行く彼が足を止めたらしい。
「ちょっ……」
『人間は、寒さにも弱いのだったな』
「……は、え、まぁ……。気にしてくださったんですか」
いきなり止まるのはやめてほしいが、珍しく気遣いが光っている。私は鼻をさすりながら、そっと彼から手を離した。離れたことで、フィグ様の手のひらの冷たさを実感する。こんなに冷えているのに、本当に寒くないのだろうか。
『ワタシは良い。貴様、外套はあるのか』
「おかげさまで、お洋服には困りませんよ。先日、マリーチさんからもいただきましたし」
『……また、あいつか』
小窓の外に吹き付ける雪風がガタガタと音を立てる。今から止めにいくはずの吹雪が、どうしてまた荒れているのか。私がキョトンと首をかしげると、フィグ様は苦々しい顔をして突っ立っていた。その辺を飛んでいた苦虫でも食べてしまったのだろうか。
『……を買って……る』
「え?」
『ど、どうせ外に出るのなら! 貴様が欲しいものを買ってやってもいいと言ってるんだ!』
フィグ様は、突如大声で宣言する。あまりの脈絡のなさに、グルゲン語を理解している私にも全く理解不能だった。
『うるさい! 早く支度しろ!』
フィグ様は、まるで言い逃げするかのように廊下をバタバタと走り抜けていく。私はただその後ろ姿を見送った。
欲しいものも何も、私は食料を調達したいだけなのに。
(あ、でも、フィグ様が良いというのなら、ついでに石鹸やろうそくも買っておこうかしら。それから、カトラリーも。フィグ様が使う香油も新しく……)
馬車で夜中に通り過ぎただけだが、確か、最も近い町、ツェルトには様々な店があったはずだ。ここへ来てから一度もこの屋敷の敷地外へ出ていないので、もはやその町の記憶も怪しいことに気付く。フィグ様は完全に引きこもりだが、かくいう私も引きこもり予備軍である。
「確かに、フィグ様の言う通りかもしれないわ。どうせ外に出るのなら、色々見て回ってもいいのかも」
私のために提案したのではないだろうが、フィグ様がせっかく気を遣ってくださっているのだ。嵐が来そうなくらい珍しい……いや、すでに外は大吹雪だったか。
「あんまりお待たせするとまた、お小言が始まっちゃうわね」
良く分からないフィグ様の心の内を考えることはやめよう。私はかぶりを振って、自室へと足を進めるのだった。
マリーチさんからもらった外套を着こんで玄関先へと向かえば、いつも通り、神様とは思えないラフな格好をしたフィグ様がこちらにチラリと視線を寄こす。せっかく外へ出るのだから、もっと良い服を切ればいいのに。私の心を読んでか、冷ややかなアイスブルーの瞳が何かを言いたげに細められる。
しかし、その口が開かれることはなかった。表情には、少しの緊張がうかがえる。やっぱり、普段引きこもっているから、外の世界へ出るのが怖いのだろうか。よーちよち、こわくないでちゅよぉ。
『馬鹿にするな』
「すみません、つい。緊張されているようでしたので、気が紛れるかと思いまして」
『気の遣い方が下手すぎる』
「フィグ様とお揃いですね」
わざとらしく笑みを浮かべると、フィグ様は不服そうにため息を吐く。いつもならもう一つや二つ、皮肉が続きそうなところだが、フィグ様はそのままだんまりを決め込んだ。
口を結んで、大きな玄関扉を見つめる彼の顔は、やはり緊張しているように見える。険しくも、その端正な横顔に、私も思わず息を飲む。
「……どうか、したんですか?」
『別に』
珍しい。やはり、今日のフィグ様は少し変だ。いや、いつも変であることは間違いないのだが、なんというか、フィグ様らしくない。こちらの都合など意にも介さず、自由気ままをまき散らし、わがままを貫く。そんな彼の愛嬌も、生物的強者としての余裕も鳴りを潜めている。そういえばさっき、苦虫を食べたんじゃないかって顔をしていたから、もしかしてそのせい?
『静かにしろ』
キィン、と冷たく響き渡る声は、どこまでも鋭利に場を凍らせた。いつもの、特別な力を感じているわけではないのに、少しの挙動でさえ許されないような気がする。
『……先に言っておくが、ワタシが良いと言うまで、決して外には出てくるな』
それは有無も言わせぬ、主の命。私の頭上からズシンと強烈な重圧が襲い、足元からは、体をその場に縫い留めんとする冷気が上がってくる。体感は氷点下。寒波に頭が痛くなり、私は思わず顔をしかめた。
フィグ様は、そんな私の髪を掬い取ると、やがて、その一房へそっと唇を落とした。
それは、まるでそうなることが自然の摂理だとでも言うように――
「フィグ、様……」
何を、と聞く前に、彼が大きく玄関扉を開け放つ。同時に荒れ狂う豪雪が屋敷の中へと舞い込んできて、私は咄嗟に顔を覆った。大玉の雪がホスホスと腕に触れ、触れたそばから溶けていく。
『待っていろ。良いというまで、絶対に開けるな』
その言葉が、次から次へと舞い込む雪と共に解けたころ、玄関扉が大げさなほどにバタンと大きく音を立てて閉まる。ギシギシと軋んだ木材と蝶番の音が聞こえて、私の体がようやく自由になった。へなへなと崩れ落ちそうになるのを、なんとかこらえ、私はゆっくりと顔を上げる。
絶対に開けるな、と言われた扉の向こうで、一体何が起きているのか。私は、扉にべとりとへばりついて耳をそばだてる。扉をたたく吹雪と豪風。その音の隙間に、わずかながら、音が聞こえる。
キチチチ……キィリリリリ……。
決して良い音ではないのかもしれない。だが、私の胸にツンと刺さって離れないそれは、かつて私が想像したことのある、あらゆる美しいものの音よりも美しかった。
(神様の歌声って、こんな感じなのかしら……)
私は、うっとりと扉に寄りかかって目を閉じる。いつまでも、こうして堪能していたい。
だが、その願いも叶うことはなく、音は無情にも小さくなっていく。美しい音色がすっかり消えてしまったころ、風の音も、雪の音も、私の耳には聞こえなくなっていた。
『もういいぞ』
耳ではなく、直接頭の中にフィグ様の声が聞こえ、私はビクリと肩を揺らした。低く、地を這うような声は、威圧感こそ残っているけれど、どこか穏やかだ。念のため、と扉にもう一度耳をくっつけると、確かに、シンと静まりかえっている。
「……あ、開けますよ……」
別に許可など必要ないのだが、なんとなく、私はそう扉の向こうへと声を投げかけた。どうしてか、緊張で手が汗ばんでいる。
この扉を開けて、本当に雪が止んでいたら……、そう思うと、少しだけ怖い。フィグ様が、神様であることは散々承知しているのに。
『早くしろ』
いつものせっかちな声に、私は覚悟を決めて扉を開く。
チカッと目に飛び込んできた閃光に、私は目を伏せた。だが、それも一瞬で、そろりそろりと再び顔を上げれば、そこには白銀に輝く大地と――
「フィグ、様……?」
透き通るような、プラチナやシルバーや白や青に輝くとてつもなく大きな、何かがいた。
外の大吹雪を止めると言って出ていったフィグ様。
ヴィティが聞いた不思議な「歌声」の正体とは一体何だったのでしょうか?
そして、ヴィティが玄関先で見た、「何か」とは……!?
次回「ヴィティ、竜を知る」
何卒よろしくお願いいたします♪♪




