第44話 ア・フィストフル・オブ・ダラーズ
本来ならば既に日が昇っていても良い頃合いの筈なのに、まるで真夜中のような暗闇に辺りは包まれているが、アラマの言う所に拠れば、これもあの三つ首のドラゴンの仕業であるらしい。「こっち側」に来てから散々、自然の法則に反するような場面に出くわしてきたが、ここまで規模の大きなヤツは初めてである。
それだけに、 我が身の奥から溢れ出る勇ましさに、震えが止まらない。
こんなことは、まだ小僧っ子だった頃、それこそ、初めての実戦を前にした時以来のことかもしれない。
傍らに目をやれば、キッドもそこはかとなく落ち着かない様子であるし、色男などは不安を隠すこともなく、何度となく弩に視線を下ろし手入れの具合を確かめている。逆にイーディスとナルセー王は、大きな獲物を前に犬歯を剥き出しにし、今にも舌舐めずりでもしかねない、獣のような面相になっていた。
『最勝の天則に依りて、ただ不敗の太陽の指す方へ……』
何時も通りの泰然自若とした佇まいなのは、ただアラマひとりである。
聖句を静かに、呟くように唱えながら、真っ直ぐに己自身と己が神との敵を見据える様は、歴戦の戦士のようだった。
――さて。
これから彼女の見つめる相手、三つ首のドラゴン、怖気催す蜥蜴の化け物に挑む訳だが、なにぶん相手が相手だけに無策で突っ込むわけにもいかない。当然、作戦が必要になるし、それは既に立っているのではあるが、実行に移る前にひとまず、現状のおさらいをしておくとしよう。
アラマ曰く、あの蜥蜴の化け物、邪龍ダハーカは、厳密に言うと殺すことの出来ない不死の怪物であるらしい。何せ、ヤツは地獄の主である邪神が、生きとし生けるもの全てを鏖殺するために拵えた化け物、つまり元々地獄の住人なのだ。死の国に住む連中を、殺せないのは道理だ。
――『しかし、打倒し、封じることはできるのです』
現に数々の伝説で語り継がれる通り、あの化け物は一度、その創造主共々敗れ地の底に叩き戻されているのだ。ましてや、今はまだヤツ一匹のみで、邪神の方はいない。地獄か煉獄かの違い程度しかないが、少なくとも状況は最悪ではないらしい。
――『まず、左右の頭を斬り落とすか潰すかするのです。そして最後に残った頭に黄金の牡牛の鎚……今は牛血と金の弾丸を撃ち込めば、死せずとも邪龍ダハーカは一度その動きを止める筈なのです。しかる後、邪龍ダハーカの体そのものを贄とすることで術を起こし、もろともにアルズーラの首を閉ざすのです!』
しかし状況は最悪ではないかもしれないが、限りなく最悪に近いことには変わりない。アラマの言っていることは、常識で考えればほとんど実現不可能な絵空事に聞こえる。だが、そもそも今度の相手は絵空事じみた存在なのだ。そんな野郎をブチのめそうと思えば、絵空事じみた手が必要になるのも道理だ。
だが悲しいかな私は、プロフェッショナルなのだ。
引き受けた以上、例え絵空事じみたことであろうとも、それを実現させるのが私の仕事だ。
だから知恵を絞って作戦を練った。魔法だとか、専門外のことは知恵を借りて、何とか戦略を組み立てた。
それを、これから実行に移す。
リハーサルもなく、演習もなく、ぶっつけ本番の出たとこ勝負。
吉と出るか、凶と出るか。普段は賽の目に任せる所だが、今度ばかりはそうはいかない。運命の女神の手を引いて、無理強いして強引に微笑ませなけりゃあならないのだ。だから、出来ることは全部する。全部した所で求める所にはまだ足りないが、それでも、やるしかないのだ。
『我は希う、希う、黄金の者よ。我らに賜らんことを、御身の酔力を』
『シトラエル、マランタ、タマオル、ファラウル、シトラミ……そしてアキナケス、汝ら剣の神々よ』
アラマは右手に二匹の蛇と翼の杖――今更知ったが伝令使の杖というらしい――を、左手に翠玉の碑板を開いて持って、そこに書かれた呪文を高らかに唱える。それと同時に、隣のイーディスは前にも一度聞いた、彼女の切り札たる剣の神への祈りを、まるで歌うように紡いだ。
『ここへ御身の最勝たる神通力を、ここへ御身の輝ける治癒力を、ここへ御身の栄えさす力を、ここへ御身の育みそだてる力を、ここへ御身の渾身たる剛力を、ここへ御身の限りなき叡智を』
『交わす剣は刃鳴散らし、尖る切っ先林成す。鞘走る音高鳴れば、敵の心胆寒からし、獅子然と告ぐ勝ち戦。矢並つくろう敵の陣、真っ向刃斬り開き、獅子吼え告げる勝ち戦』
声は互いにその大きさを増し、イーディスの体を紅い霧が、そしてアラマと私達の体を、淡い光が包み始める。
『害意を挫き、悪魔を、邪神を、詭計を弄し広く翼々たる陣を張る敵軍を打ち破り征服せんがために! あらゆる仇敵どもを、あらゆる悪意を、如意に降し、広き牧場を闊歩せんがために!』
『森々の剣、密々の戟、柳花水を斬る、草葉征矢をなす。なが勝ち誇る剣力は、アキナケスが賜物ぞ。咆えよ鳴神いかずちの、玉散る刃抜き連れて、仇なす敵を打ちひしげ!』
相手が悪魔の大親玉の、その一番の子分だというなれば、こっちだって神様の力を借りるまでだ。私達はアラマの奉ずる太陽の神の加護を、宗派違いのイーディスは、彼女の崇め奉る武神の加護を、それぞれ得る。我が身を包むのは仄かな光に過ぎないが、それでも、春の木漏れ日のような暖かさを受けて、自然と心が奮い立つ。
『金色の武器を振るい、諸魔を討たんがために!』
『剣神照覧! 揮刀如神急急如律令!』
呪文を最後まで唱え終わるやいなや、真っ先にイーディスが、僅かに遅れて私達が駆け出した。
走りながら、キッドが傍らで呟く。
「――“Paien unt tort e chrestiens unt dreit” / ――“異教徒は過てり、キリスト者こそ正し”」
恐ろしく古く、鼻にかかった言い回し。それを嘯くのは、天国から最も遠いであろう流れ者。
だが不思議と、やっこさんの引用してみせた文句を聞いて、私にはいよいよ勇気が湧いてくる。
「――ウォロロロロロロロロロロゥォォォォォォー!」
故に私もまた応じて甲高い雄叫びを上げた。
復讐の女神が如き、「反乱の雄叫び」を、旧き南部の鬨の声を上げた。
『父祖よ、誉れ高きマルドゥックよ、正義と善意のマズダよ! 我と共に駆けん! 我が槍の先に宿れ!』
『鳥たちの家よ、大気の兜よ、月の姉よ、嵐の床よ、火の兄弟よ、片眼欠く万物の神よ――ええい何でも良い! 私を助けろ!』
それぞれが、それぞれの聖句を唱えながら、私達は突撃する。
闇をも裂いて響き渡る私達の大声に、泰然と地に五体――いや、七体か――を載せていた邪悪なドラゴンは、遂にこっちのほうへと6つの眼を向けてきた。燃えるような、鬼灯めいた紅い瞳を前に、私の体は意に反し竦み上がるが、それでも強い戦意は我が足を前へ前へと進ませ続ける。
――咆哮。
邪龍ダハーカは、文字に起こすことも言葉で形容することもできないような、奇怪なる声で吠える。
「っ!?」
『あれは!』
千の術を使う魔王、と、アラマはあの化け物を評した。
それだけに、あの叫びは単なる威嚇などではなく、呪文の役割を持ったモノであったらしい。
風が、揺らぐ。
空気が、歪む。
自然の法則に反し、突然に、何も無い所に旋風が巻き起こる。
一見して普通とは違う旋風は、意志あるもののように、我らが先陣を切って走るイーディスへと、真っ先に襲いかかる。
『ハァッ!』
避けろ――と言う暇もない速度。だがイーディスは大地を蹴って空高く跳び上がり、旋風を超えて三つ首のドラゴンへと天翔ける鳥のように肉薄してみせた! 既に抜き放たれた利刃は、闇にも負けぬ紅い輝きを伴って、邪龍へと迫る!
だが、あの化け物は頭が三つもあるのだ。真ん中の鎌首が持ち上がると、その双眸からは稲妻のような光が吹き出し、その強い輝きに、思わず私は眼をつむりそうになる。
『チィィィッ!?』
イーディスは何と、波打ち迫る稲妻状の光を手にした曲剣で受け止めてみせた。しかし生憎と彼女の身は空中にあり、踏みとどまるための足場もない。原理は不明だが、あの光は力を持っているらしく、イーディスの体は撥ねられたように宙を飛ぶ。
「 WHAT ARE YOU LOOKIN' AT! / ガン飛ばすんじぇねぇぜ !」
イーディスへの追討ちを防ぐべく、キッドがヘンリー銃を乱れ撃つ。アラマの施してくれた、ミスラ神の加護は銃弾にも及び、まるでロケット弾のように輝き火の尾をひきながら化け物へと降り注ぐ。普通の銃弾では無いがためか、多少の効果はあったらしく、六つの眼が細まり、吹き出していた光線も掻き消える。
――咆哮。
だが、所詮は掠り傷を負わせたに過ぎなかったらしく、一向に勢いの衰えない叫びは新たなる呪文を吐き出す。それに応じ、邪龍の周囲の闇が濃く盛り上がり、蟠り、そして遂には形を取り始めた。
『来たのです! 女魔、邪戦士、邪獣人、屍鬼! いずれも悍ましく恐ろしき悪魔! 邪龍ダハーカに呼ばれて湧いて出たのです!』
もう、アラマが叫ぶ名が、いったいどの化け物を指しているのか――それすら解らない程の、魑魅魍魎共の大博覧会だ! しかもどいつもこいつも、一目で絶対に仲良くはなれないことが解る面をしてやがると来た!
『怯むな! 目指すべきは邪龍の首ひとつ――否、三つぞ!』
ナルセー王はそう叫ぶと槍を手に突進し、縦横無尽にそれを振るって化け物共を蹴散らし進む。色男はその後に続き、王の背中を狙う魔物どもへと次々と矢を放つ。
『希う、希う。我は希う。広き牧場にありて、よく武装せるミスラへと。武装せる者なかで栄光をもつこと第一、武装せる者のなかで勝利を博すること第一なる、不敗の太陽へと』
私とキッドもまた呪文を早口に唱えるアラマの前に立ち塞がって、迫る怪物どもへと銃弾を放ち続ける。ヘンリー44口径とコルト・ネービー36口径の銃声が混じり合い、それにアラマの声が唱和する。死のコーラス――観客へのお礼は鉛弾だ。
『不敗の太陽が輝き、新しき光よそそぐ。稔り多き大地によりて、屠られたる牛、万物を産む。注がれし蜜によりて、獅子よ――いづれ、いづれ!』
呪文が終わると同時に、次々と地面より輝くライオンが湧き出し、闇の怪物どもと真っ向ぶつかり合う。
どうも、翠玉の碑板にはアラマの、というよりミスラ神の信徒達が使う魔法を助ける力が備わっていたらしい。本来ならば、もっと色々と手順を踏まねば出来ない術も、今は本を掲げ呪文を唱えるだけでいい。不利な状況だらけの今日この頃、数少ない嬉しいニュースだが――まぁ、気休めに過ぎない。
――咆哮。
――咆哮。
――咆哮。
「うわぉっ!?」
「アヅッ!?」
『うひゃぁっ!?』
三つの頭がそれぞれ、違う調子の吠え声を吐けば、三通りの魔法が同時に放たれる。
一つ、化け物共が追加で呼び出され、二つ、旋風の大盤振る舞い、三つ、今度は空から火の玉まで降ってきた。身に纏った黄色い光は、呪術魔法に対して鎧の役割を果たしてくれるらしいが、いかんせん相手の攻撃が激しすぎる。まるで砲兵隊を相手しているかのような炎の雨に、文字通り身を切る旋風――ライオン共が現に切り刻まれている――を凌ぐだけでやっとだ。
『ええい! どけ、どかぬか雑魚ども!』
『キリがない! もう矢の残りも少ないぞ!』
加えて、女魔だか邪戦士だか邪獣人だか屍鬼だか知らないが、とにかく有象無象の化けも共の大軍団だ。これじゃあの三つ首蜥蜴野郎に近づくことすらままならない!
――そんな時だ。
「!?」
ぱっと視界が急に明るくなったかと思えば、ドラゴンの一番左側の頭が、突然炎に包まれる。その炎はすぐに消え、思ったほどダメージも与えられていなかったようだが、それでもドラゴンの肝っ玉を潰したらしく、やつの攻撃の勢いが僅かながら鈍る。
『――かかれ! かかれ!』
驚き声のするほうに眼を向ければ、闇の中から飛び出してきたのはマゴスやナルセー王の親衛隊たち――その生き残りであった。てっきり邪龍ダハーカが出てきた時の襲撃で全滅していたものと思ったが、一部は上手く逃れ、身を伏せ今まで隠れていたらしい。自分たちの王が邪龍に単騎挑むのに、いてもたってもいられなくなったのだろう。
『王を守れ! マズダの神よ! 我らが復讐に加勢せんことを!』
いずれもボロボロで、装備は劣悪、数も往時とは比べ物にならないが、この状況での加勢は正に天の助けだ。
『――お主ら! よし、かかれ! 我が下知のもと、エーラーン人の意地を見せるぞ!』
ナルセー王自身、よもや自分の配下たちに生き残りがいて、それもこの状況で駆けつけるとは思ってもみなかったのだろう。感涙に咽び泣きながらも、持ち前の獰猛さを微塵も損なうことなく、槍を片手で風車のように廻し、左手で腰間の直剣を抜き放ち振るえば、ドラゴン目掛けて駆け馳せる。
「援護するぞ!」
『はいなのです!』
「――いや待て!」
私とアラマを制したのは、弾の切れたヘンリー銃を投げ捨て、コルトを引き抜いていたキッドだった。
「彼女のほうが、先だゼ!」
言うが早いか、私達の傍らを真紅の颶風となって駆け抜けたのはイーディスだ。
『キィィィィィエェェェェェェェィッ!』
悪魔も逃げ出すような雄叫びと共にイーディスは再度地を蹴って跳び、宙を舞う。
ナルセー王に色男、さらにはマゴスや親衛隊たちの攻撃に撹乱され、注意の逸れた邪龍への格好の奇襲! だがヤツは頭が三つもあるのだ。その全てを誤魔化すのは土台無理なことで、一番左側の頭がイーディスのほうを向く。例の光の魔法を使われれば、正に二の舞だ!
「 HEY GENTLEMAN! / よお、龍の旦那! 」
――だが、それを見過ごす私達ではない!
キッドの両手が霞む程の速さで動いたかと思えば、鳴り響くのは殆どひとつなぎの二発の銃声。腰だめの構えで放たれた早撃ちにも関わらず、キッドの撃った銃弾は、狙いを過たず、邪龍の双眸を射抜いた。一粒の砂であろうと、眼を一時潰すのに充分なのだ。ならばコルトの45口径ならば、邪龍にだって涙を流させるだろう。
――邪龍ダハーカの、頭の一つが両目を瞑る。
『シィィィィィィィッ!』
斬!と快音が鳴ったかと思えば、イーディスの曲刀は、その刃渡りに見合わぬはずの、邪龍の太い首を見事に斬り落とした。夥しい血――の代わりに切り口からは無数の毒蛇、毒虫、毒鼠、その他数多不浄なものどもが吹き出すが、イーディスは剣神の加護のもと、コヨーテのような身のこなしで間合いを取る。
『キュク、バザキュク、バキュク、セメセイラム!』
すかさずアラマが呪を唱えれば、伝令使の杖の先端が、まるで松明のように輝き始め、遂には小さな太陽のように光を放った。その輝きには殺傷力こそないようだが、しかし太陽の威光を受けて、怪物共が、不浄のものどもが後ずさり、邪龍ですら眩しげに瞼を下ろす。
『王よ!』
マゴス達が、好機を逃すまいと呪を唱えれば、ナルセー王の左手の剣が金色と煌めいた。王は右手の槍を投げ捨て、剣を両手で握ると、真っ向構えて邪龍ダハーカへと突撃する。
『道を開けろ! 雑魚めら!』
行く手を阻もうとする魍魎共には、色男の角矢が突き立ち、まるで聖書にあるモーセの奇跡のように、邪龍への一直線の道が拓いた。
『――死んでいった兵たち、民たちの恨み、思い知れッ!』
ナルセー王の一太刀もまた、その刃渡りを超えた輝ける太刀筋で、邪龍の右の首を両断する。
これで、残った頭は、真ん中のひとつだけだ!
「――うぉっ!?」
『ななな!?』
「マジかよ!?」
だがここで予期せぬ展開。
突如突風が吹き荒れ、砂埃が舞い上がったかと思えば、バッと音を立てて開かれる巨大な翼。蜥蜴野郎め、どうやって折りたたんでいたものか、その背中には蝙蝠状の翼が一対生えていたのだ。
「アイツ飛べんのかよ!?」
私もキッドに同意だった。
この闇の中を、悪魔のような翼をはためかせ、あの巨体が宙へと浮かび始めるのは、悪い夢か悪質な冗談かのようですらある。
『逃がすな! 射落とせ!』
ナルセー王の号令とともに、近衛兵達が弓矢を放つが、どうにもやつの回りには翼の放つ風が渦巻いているらしく、それに流されて一向に届かない。瞬く間にヤツは高度を上げて、そのまま彼方へと飛び去ろうとする。
――逃がすわけにはいかない!
しかし、空駆ける邪龍は素早く、この両足で全力で走ろうとも、とうてい追いつけそうもない。
『――あれは!』
それでも、天は、神は、ミスラの神は、私達を見捨ててはいなかった。
アラマの声に振り向けば、聞き慣れた馬蹄が、その調べを大きくしながら近づいてくるのが解る。
「来たか!」
闇を裂いて現れたのは、我が相棒サンダラーだった。
恐らくは、アラマの杖の先に灯った光を目指して駆けつけてくれたのだろう。
ああ、よくぞ生きていてくれた! よくぞこのここ一番で馳せ参じてくれた!
「HI-YO! THUNDERER!」
掛け声と共に跨がれば、私はサンダラーへと拍車をかけて、最大速力でヤツへと追いすがる。
揺れる騎上でホイットワース=ライフルを構え、撃鉄を起こす。
スコープは外してあった。この闇の中では却って視界が狭まって邪魔だと思ったからだが、そのことが今、この馬上にある私には幸いする。
「――」
銃床を肩にあてた瞬間、周囲から音が消えた。
闇なかで、ヤツの、邪龍ダハーカの巨体だけがハッキリと見える。
頬を銃床に載せれば、ライフル銃が完全に我が身とひとつになる。
巨龍の動きは素早く、この銃は単発だ。
外せば、次はない。
サンダラーにさらなる拍車をかければ、彼はそれに応え、滝のような血の汗をながし、激しい吐息と共に駆けた。
「――」
照準を合わせる私の心は、恐ろしいほどに透き通り、まっさらになっていた。
ヤツを斃す。ただその為に、私はここへと呼ばれたのだ。
その務めを、遂に、果たす。
――邪龍が、こっちを向いた。
恐らくは馬蹄が聞こえたがためだろう。長い鎌首を空中で器用に曲げて、飛びながらコッチを見た。
――鬼灯のような赤い双眸と、私の灰色の瞳が、真っ向向き合う。
「――DUCK YOU SUCKER / ――落ちろ、糞ったれ」
私は引き金を弾き、血と金の銃弾は真っ直ぐに、ヤツの眉間へと突き刺さった。
――1ヶ月後。
「……」
「……」
復興が進み、再び活気に溢れ出したマラカンドの街路の傍ら。
私とキッドはぼんやりと安楽椅子――大工に頼んで作ってもらったのだ――に揺られてた。
私達の間には小さな円卓が置かれ、そこには二つの壺型の木の杯がのっかっている。例の、葦のストローで吸う茶の一種だ。最初飲んだ時は独特の青臭さのある苦味には閉口し、きっと好きになることはないと思ったのだが、今ではすっかり飲み慣れて、逆にこれがないと口元が寂しいぐらいだった。
「……平和だねェ」
「そうだな」
キッドが大あくびをし、目尻に浮かんだ涙をこする。
私は顔の前でぶんぶんとうるさい蝿を追い払いながら、葦のストローから中身をもうひと吸いする。
目の前を行き来する人々の数は、一度この街が滅びる前よりは減ったかもしれないが、この活気熱気を見るに、元通りになるのもそう遠いことではないだろう。マラカンドはもとより街道の交差点、文明の十字路、一大交易拠点だ。その地の利のある限り、放っておいても人は集まるのだ。
――『日はまた昇るのです、何度でも』。
アラマが言ったことは正しい。
私は、ふと遥か昔に捨ててきた、故郷の地を思い返す。
戦争で焼かれ、何もかもなくなった、旧き良き南部。
ずっと帰ってないが、あそこもまた、この街のように蘇ったのだろうか。
『――またここにいたのか』
ぼんやりと思索に耽る私の意識は、皮肉な調子の呼び声に現実に帰る。
見れば、随分と立派な格好になった色男の、やや草臥れた顔がそこにある。
『良いな暇人は。朝からタダ飯食って寝てるだけか』
良い加減、やっこさんの愚痴やぼやきも聞き慣れたので、私はあくびをそれに返してやる。
色男は、色男らしくもない苦虫噛み潰した表情を浮かべた。
『――今や英雄になった御仁だ。その程度の厚遇はあってしかるべきだろう』
横から口を挟んだのはイーディス。こちらもやはり服装が随分と上等になっている。
『なぁ、「龍殺しのまれびと」殿』
イーディスがにやにやと笑いながらそう呼ぶと、何ともこそばゆく、落ち着かない気持ちになる。
私は一介の、流れ者のガンマンだ。そういう誉れある立場など、縁遠い男なのだ。
邪龍を倒し、アラマの術で「アルズーラの首」とやらを閉ざした後、闇は晴れ、朝陽は昇り、魑魅魍魎共は消え失せた。
あれほどまでに神々しい朝陽は、ついぞ見たことはなかったが、ナルセー王はそれに見惚れるでもなく、生き残りの手勢を連れてマラカンドへと取って返した。
地方の砦からやってきた援軍たちを使って街の屍体を弔う傍らで、王は四方に密使間諜を放ち、こう吹聴させたのだ。マラカンドには今、「龍殺しのまれびと」がいる、と――。
邪龍ダハーカの出現により生じた闇はレギスタン全域を覆っていたらしく、伝説の怪物の出現の噂は、風よりも速い勢いで既に広がっていた。それを、ナルセー王は活かしたのだ。伝説の邪龍を屠る化け物がいる街を、誰が敢えて襲うと言うのか。このどさくさに紛れた火事場泥棒どもを、ナルセー王は戦わずして制した。だがそのお陰で私は、身の丈に合わない英雄になってしまったというわけだ。
『たまには王城に姿を見せろ。王は御前たちにはどれだけねぎらっても足りないと仰っている』
イーディスは、その服装に合わぬ、いつも通りの拵えの曲刀に手を置きながら、やはりニヤニヤと笑う。
彼女と色男は、最早傭兵ではなく、ナルセー王の直臣に取り立てられている。多くの犠牲があった今回の騒動の後、王が求めたのは何よりも、街を守るための歴戦の強者たちだった。イーディスは王が宮殿の外に出る際の身辺警護を、色男は親衛隊の隊長を、それぞれ担っていた。給料が良くなった色男は、それをせっせと妹に仕送りしている。
「気が向いたら、と伝えてくれ」
「右に同じ」
私達のやる気のない返事に、イーディスは肩を竦め、色男は顔をさらに渋いものにした。私は、そんな顔をしていたら折角の色男が台無しだぞ、と言って茶化したら。
『私にはアルベリヒという名前がちゃんとあるのだ』
と返し、フンと鼻を鳴らして立ち去ってしまった。
イーディスは帽子の庇を軽く傾け、微笑みを残しながら後を追う。
私達は、人混みに消えていく二人の背中を見送った。
――その時は予期していなかったことだが、二人とはこれが最後に交わした言葉となった。
その日の夕方まで、私達は安楽椅子でぼんやりと過ごした。
そろそろ日が沈もうとしている時分、闇を恐れる人々は足早に家路に向かう。
人通りが少なくなった街路を、気まぐれな風が通り過ぎ――私は、声にならない声を聞いた気がした。
隣を見れば、キッドも同じ声を聞いたらしかった。
「行くか」
「応よ」
それだけの言葉を交わして、互いに帰るための準備を始めた。
サンダラーはアラマに預けていたので、私と彼女の宿へとのんびりと戻る。
『――まれびと殿』
宿の前では、アラマとサンダラーが既に待っていた。私の荷物は全て、サンダラーの鞍の上にまとめてる。ナルセー王からの報酬である、袋一杯の銀貨も一緒だ。
恐らくは、アラマにも私達と同じ声が聞こえたのだろう。
「……」
『……』
私は、無言で彼女から手綱を受け取ると、サンダラーを引いて歩き始める。
アラマは連れ立って、一緒に歩く。互いに、言葉はない。
いくつもの街路を通り、幾つもの家々の傍らを横切る。この街で過ごした日々の想い出が、次々と私の心のなかを過ぎった。思えば、いろんなことがあったが、それを全て切り抜けられたのは、他でもないアラマのお陰なのだ。彼女には、友情とも愛情ともつかない、なにか強い気持ちを覚えた。こんな風に感じるのは、エゼルの時以来かもしれない。
私たちは市壁の門を潜った。
そこでは既にキッドが待っていて、山盛りの荷物を背負って、路傍の岩の上に腰掛けていた。
彼方を見れば道の先に、陽炎のように宙が揺らぎ、見えぬ何かが蟠っている。
幻影の門だ。
あれを超えれば、それでさようならだ。
『また』
今まで無言だったアラマが、遂に口を開き言った。
『また……いつか、お会いできますよね?』
そう問う彼女の顔はしかし、既に寂しげな微笑みが浮かんでいた。
アラマは賢い。私の答えなど、最初から解っているのだろう。
「……」
私は彼女の金色の瞳を見つめながら、暫時、口ごもった。
考えた末に出てきた言葉は、あまり洒落たものではなかったが、それが私に言える精一杯の返事だった。
「……SOMEDAY / ……いつか、な」
『……』
二度と来ないであろう、いつかの再会を約し、私は幻影の門へと歩き出す。
キッドが、立ち上がり、私の横に並んだ。
「……」
「……」
横並びに歩きながら、私達の間にも言葉はなかった。
「イーディスに、さよならを言わなくて良かったのか?」
幻影の門が近づいてきた所でようやく、私はキッドに聞いたが、彼は笑って嘯くだけだった。
「湿っぽいのは、好きじゃないかンね」
だが、彼の顔を見れば、それがやっこさんの大好きな芝居であることは私でも解った。
「……」
「……」
幻影の門の前に、二人して立つ。
その時、背後からアラマの声が聞こえた。
『まれびと殿!』
彼女は涙を浮かべながら、懸命な大声で言った。
『お慕いしております! ありがとうなのです! さようならなのです!』
私は振り返り、微笑みながら最後にこう返した。
「アラマ、俺の名前は――」
それだけ言うと、私達は門を潜った。
――今度の話はここで終わりだ。
私は西部へと帰り、そこでいつもの私に戻る。
キッドもまた西部に帰ったが、やっこさんはいつもの自分には戻らなかった。
「“永遠に、永遠にさようならだカシウス! もし再び会えば、微笑みを交わそう!”」
最後の最後まで、キッドは海の向こうのガンマンの言葉を引用しながら、私に別れを告げた。
二度も父を殺すハメになったのだ。やっこさんなりに思う所があったらしく、故郷に帰って足を洗うらしい。迂闊に戻れば縛り首だぞ、と忠告したが、やっこさんは「なァに、上手く誤魔化すさ」と嘯くばかりだった。
あの別れ以降、キッドとは会っていない。
ガンマンとしてのやっこさんの噂も全く途絶えてしまった。
捕まったとも死んだとも聞かないから、きっと上手くやったのだろう。
なに、キッドが殺したって死なない野郎なのは、この私がよく知っているのだ。
私はこの後もガンマンとして生き続けた。
その途中で、またも妙な所に迷い込んで、悪魔の親玉に拐われた姫様を助け出したり、恐ろしい吸血鬼と生きるか死ぬかの闘いを繰り広げたりしたが――――それはまた別の話だ。
――いつか気が向いたら、その時に話すとしよう。
―― THE END ――
――予告編
――人は、彼をこう呼ぶ。
青褪めた馬のエゼル、あるいは灰色のエゼルと。
黒い髪、黒い肌、緑の外套、六つの短銃。
そして異界のガンマンより受け継ぎし一丁のライフルに、天性の灰色の瞳。
やつがひとたびエンフィールドを手にすれば、死が奏でられ、殺戮の歌が流れる。
林賊、匪賊、馬賊……世に蔓延る悪党どもよ。良い葬式を――その代金は、エゼルが支払おう。
密林で、荒野で、そして塔高き街路で。
魔法の銃火が煌めき、空も地も、真っ赤に染まる。
異世界西部劇――装いも新たに新章開幕
――『新・異世界ウェスタン』
乞うご期待!




