オウトモオビルに乗って行こう
何度か練習で握りはしたが、未だに違和感がある。
一也は自分が両手で握っている物を確認した。
黒い。黒く染めた粗い織りの布だ。そしてその下に芯として存在する円形に曲げられた木がある。
何度見てもハンドルに変わりない。
「うむ、やはり三嶋君が一番上手そうだな。姿勢からして様になっている」
「儂らが総力を上げて開発したんじゃからのう。馬よりよっぽど速いぞ。餌や水の心配もせんでええしな」
「その代わり、暴走や機関停止の心配をしなきゃいけないってことは無いでしょうね?」
両脇から声をかけてきたのは、伊澤警視と谷警部だ。
本来人のいい谷警部なのだが、伊澤警視と組むと影響されるらしい。
一也の切羽詰まった問いに対して、目を光らせた。重々しい声が響く。
「万全の整備をしとる」
「えっ、それだけ?」
「万全の準備をしとる!」
「――分かりました」
こう強く言い切られては、頷くしかなかった。
諦めよう。ここまで来たら、やるしかない。
「一也さんに託しましょう、私達の運命を」
「そういう悲壮感たっぷりの声は止めてくれ」
自分の左側に座る小夜子に答える。そのまま後ろを見ると、視界に映るのは後部座席に仲良く並ぶヘレナと順四朗である。
「念の為、安全帯しといてくださいよ」と声をかけると、ヘレナから「あったりまえだ、乗った瞬間にしたよ」と力強く返答された。
だが順四朗は目を閉じたまま、黙っている。
「あの、順四朗さん大丈夫ですか。そろそろ行きますよ?」
「......思えば短い人生やった」
「縁起でも無いこと言うなよ」
項垂れたまま、一也にぶつぶつと呟く順四朗にヘレナは容赦ない。
諦めたのか、腹を括ったか。ともかく落ち着いてはいるようだ。
「では幸運を祈るぞ、第三隊の諸君」
「記念すべき蒸気動力式自動車の最初の発進じゃ、壊さんでくれよ。あっ、勿論、君ら自身ものう」
「今のって絶対私達より、この機械の心配の方が優先でしたよね?」
下がる伊澤警視と谷警部に、小夜子が目を剥く。
一也も気持ちとしては分かるのだが、もはや注意散漫にしている訳にはいかなかった。
右手を下げる。ハンドルの下、鍵を掴む。回す。ウォン、と低い振動を感じた。
「駆動部点火」
左手が動く。
自分が座る運転席と小夜子が座る助手席の丁度中間、床から飛び出している黒い棒を掴む――変速機構だ。
ギアを停止から一速に、そして右足は減速板から加速板へと切り替えた。
ゆっくりと亀が歩くような速度で動き始め、体に感じるのはそれに比例した軽い振動だ。
視界が後方に流れていくが、その速度がみるみる内に速くなる。車体後部から突き出た二本の煙突が、ぽぅんと黒い煙を吐き出した。
「よぉし、こうなったら――」
一也の中で何かが振り切れた。
土を固められた道を踏み締めるのは、黒い護謨製の四つのタイヤだ。
ハンドルを右に、左に切る度に、前後左右にしっかりと取り付けられたそれが鳴る。
ギュキュッと土を噛み、蒸気動力式自動車がその威容を帝都の街角に晒す。唖然とした面持ちでこちらを見る人々が、次々後方に置き去りになっていく。
そうだろう、それはそうだろう。四人乗りの乗り物など、馬車くらいしかないこの明治時代だ。
「――何人たりとも、俺の前は走らせねえ!」
本当に運転出来るのかという恐怖に近い疑念を、興奮で塗り潰す。
「きゃー! 退いて退いてぇ、ごめんなさあーい!」
「ひぃぃぃ、堪忍でありんすぅ!」
小夜子と時雨の悲鳴も、とりあえず無視する。
「ふ、ふはは、ふはははっ! いい、中々いいな、この自動車という物はっ! 三嶋君、やるじゃないか!」
「うっわっ、怖っ、速すぎへんか、これえ!?」
遂に理性が弾け飛んだか、ヘレナは何か大切な物を喪った顔で檄を飛ばす。
順四朗は左右を忙しく見ながら、目を回していた。だが、もはや一也を止める物は何も無い。
「秩父まで一直線だ! 待ってろ、九留島ぁぁあ!」
運転手の気迫に応えるかのように、明治初、いや、日本初の蒸気動力式自動車はぽぅんとまた煙を吐き出した。
******
そもそもどういった事情があり、一也が自動車を運転する羽目になったのか。
それには些か説明が必要だろう。
大きく分けると、九留島子爵への疑念が固まり捜査対象として確定したこと、そして秩父の場所の二点が大きな理由と言える。
結論から言うと、九留島朱鷺也子爵への捜査令状は下りた。
ヘレナが執拗に本庁に働きかけたこともあるが、一也らがまとめた資料は無視するには少々内容が過激だった。
この十年間に、三割の流刑囚が死んでいるという事実は覆せない。
渋々ながらも三月の十日頃、本庁も捜査令状を第三隊に発行した。
無論、ヘレナはこの時点で独逸大使館から教会名義の捜査令状も得ている。ここまでは問題が無かった。
これに並行して九留島子爵には質問状を提出しているが、これにも回答が無い。
こうなれば、こちらから乗り込むしかない。第三隊の四人が決意も改め、秩父へ踏み込むと最終確認をしたのも道理である。
高城兄妹の去り際の挑発は別にしても、もはや後戻りは出来ない状態と言っていい。
質問状まで無視するというのは、かなり露骨な反抗である。
九留島子爵を強制捜査の対象とすることはやむ無し、と警視庁からも意見があがったことも追い風となった。
ならば障害は何なのか。それは意外な形でやってきた。
「予算が無いらしいわ」
奥村順四朗の一言に第三隊が凍り付いたのは、二月も暮れのことだった。捜査令状が下りる前に、主計部に打診していたのである。勿論固い表情をしたのは、一也も例外ではない。
「え、ちょっと待ってください。予算が無いってどういうことですか?」
「いやな、三月って年度末やろ。うちの部署だけやなくて、他の部署見てもな、秩父への長期遠征への予算なんて無いねんて。こっからやと遠いから、四人分の馬借りなあかんしな」
「馬って、いつもの馬車じゃないんですか!?」
一也は驚いた。
しかしよく考えてみれば、これは仕方がない。
蒸気機関車が通っている横浜がむしろ例外であり、海路を除けば明治時代の移動手段は騎馬か徒歩である。
馬車が使えるのは路面が鋪装された都会だけであり、ちょっと地方に行くと使えないのだ。
"甘かった。完全に失念していた"
一也は自分の見通しの甘さに歯噛みした。
だが、それを悔いても始まらない。
そもそも順四朗が告げた内容によれば、今回の遠征自体が実行が怪しいようだ。
「金が無い?」
案の定、ヘレナはおかんむりである。
柳眉をひそめる彼女に、順四朗が説明する。
どうやら、上層部は今回の遠征を次のように考えているらしい。
九留島朱鷺也子爵を現地で調べるのはいい、だが実態を明らかにする調査となると日数がかかる。
片道二日としても仮に滞在日数が二週間となれば、結構な日数だ。
その間、四頭もの馬に飼料を与えるだけの予算は今は無い。
「おまけにやな、都合悪いことに使えそうな警視庁の馬が出張っとんねん。馬喰から借りたら、余計高くつくやろ」
「ちっ、こんなところで躓くとはな」
「でも、そんな長期間にならないんじゃないですか? 私達、あの人達を調べるよりも懲らしめに行くんですよね?」
「小夜子さんがそう言うのは分かるけど、捜査の名目で行くからな。叩きのめすから短期決戦です、とは言えないんだろ」
順四朗の言葉にヘレナが頭を抱え、一也は小夜子を諭す。
こうなると手詰まりだ。
一也としては馬に乗る必要が無くなったことはホッとしたが、どうにも残念ではあった。
しかし話はここで終わりでは無かったのだ。順四朗が言うには、秩父までの交通手段があるにはあるらしい。
「何や、あるんやったら問題あらへんでおすな。順四朗さんたら、勿体つけやんよ」
「問題無かったら、己が真っ先に言うがな」
笑う時雨に対し、順四朗は難しい顔である。
何となく嫌な予感がした一也だが、それでも恐る恐るそれが何か聞いてみた。
「で、その馬の代わりの移動手段って何ですか?」
******
そう、まさかそれが自動車とは思わなかった。
確かにこれは餌は不要だ。
この自動車の機構であるが駆動部の点火にだけは電気を使用し、駆動部の動力自体は石炭を熱源としている。
より正確に言うならば、細かな石炭を加熱し爆発する際の爆発力でもって蒸気を噴き出し、その圧力でピストンを上下動させている。
つまりは蒸気機関車と原理は同じ。
駆動部から二本の細い煙突が後方に突きだしているのは、駆動部に溜まった煤を排出する為だ。
「こんな鉄のお化け、よう一也ん運転しよんな」
「しょうがないでしょ、歩いて行く訳にもいかないし」
振り返らずに順四朗に返答しつつ、なるべくゆっくりと蒸気動力式自動車を運転する。
恐らく時速20キロ出るか出ないかだ。
それでも四人を一度に乗せられる乗り物としては、十分に速い。
一也の感覚で言えば、自転車でそこそこまともにペダルを踏んでいるくらいだ。
"馬よりはましか。それにしても今の車と大分違うよな"
なるべく慎重に運転する。
速度を落としたのは、急ぐ必要が無いことと同乗者を気遣ってのことだ。
そもそも自動車なる乗り物が日本で乗り回されるのは、一也の知る限りもっと後のはずである。
当然道も車を想定して作られていない。アスファルトの鋪装もない。
そろそろ東京の端っこのはずだが、この辺は畑しか広がっていない。
春の初め、その長閑な風景を煙と爆音を立てながら、一也はどうしても気になっていたことを呟く。
「この自動車って屋根無いんだなあ。雨降ったらどうすんだよ」
そうなのだ。
この蒸気動力式自動車は、オープンカーなのだ。
フロントガラスこそあるが、窓はそれしかない。車体自体はミニバンくらいの大きさはあるが、座席は四人分しかなく後部座席の後ろの収納庫に荷物を詰め込んでいる。
その収納庫の更に後部に、黒い箱のような駆動部が搭載されているという、相当物々しい作りであった。
伊澤博士の研究室と谷警部の兵器課が共同開発していたらしいが、造形についてはどうにかならなかったのだろうか。
もっとも借りられるだけ有り難いことには違いないが。
人体実験という恐ろしい言葉は振り払う。
「そう言えばそうですねー、あっ、左に大きめな石」
「オーライ」
軽く右にハンドルを切り、小夜子が示した石をかわす。
一応練習もしたし、運転自体にも慣れてきた。
「まさか自動車免許取っていたのが、こんな形で役立つなんてな」と呟きつつ、ドドドドと恐ろしい音と煙を吐き出しながらひた走る。
畑仕事に精を出す農家の人々は、口を大きく開けて見送るばかりだ。
「こ、これは凄い乗り物でありんす! 鉄の棺桶とでも表現出来そうなっ!」
「止めろ、不吉な言い方は!」
一也の背中に憑依する形で同乗する時雨を注意する。だが、居住性など無視して作られた自動車だ。車体より先に人間がもたなかった。
「あかんわ、胃がなんや、気持ち悪うなってきて――」
「お前、蒸気機関車の時もそうだったよな。情けないぞ」
「えっ、車酔いですか!?」
手で口許を抑え始めた順四朗をヘレナは容赦なく叱り飛ばす。それを聞きつつ、どうしようか一也は迷う。
だが結局は小夜子の「無理しても仕方ないですよ」という勧めに従い、停止せざるを得なかった。
現代日本であればコンビニの駐車場にお邪魔するところだが、場所だけは豊富にある明治時代だ。
雑然と広がる野原に乗り入れ、乱暴に車を停める。
すぐに順四朗が這うような姿勢で車からよろめき出て、そのまま草むらに消えていく。余程気分が悪かったらしい。
「大丈夫ですかね、順四朗さん。相当気持ち悪そうだけど」
「仕方ないな、まだ半時間少々くらいしか進んでないのに」
これでも一応一也は心配しているのだが、ヘレナは素知らぬ顔だ。
「鍛え方が足りないからだ」と言いつつ、竹筒から冷たい水を喉に流し込んでいる。
「ヘレナさん、強いなあ。順四朗さんほどじゃないけど、私もちょっと気持ち悪いんですよね」
「わっちも煙吸ったせいか、体が黒うなってもうて」
小夜子は多少へたってはいるが、時雨はまるで平気そうだ。
そもそも幽霊が煙の影響など受けるはずが無い。それに何より、浮いているのだ。
「時雨さんは全然大丈夫だろ。それこそ駆動部の中に放り込んでもさ」
「それはいくらなんでも燃えるでありんすよ。幽霊は火には弱いんすから」
「冗談、冗談です」
軽口を叩きつつ、肩を回す。久しぶりの運転なので緊張していたらしい。
一也は一応MT免許は取得してはいる。
だが実家の車はAT車であった上に、運転の機会は多くは無かった。久々のMT車の運転に気を使ったのも無理は無い。
それに現代の自動車と比べると、流石にこの蒸気動力式自動車の乗り心地はよろしくなかった。
木製の椅子に座布団をくくりつけて、それが座席になっているのだ。
"快適なドライブとは言えないけど、仕方ないか"
武器や荷物が積み込めるだけ、馬よりはいいだろう。
そう思って割り切る。そして車のボンネットに寄りかかりながら、畦道を振り返った。
緩く曲がる畦道の向こう、何軒かの農家が並んで立っている。帝都東京の喧騒は既に遠いらしく、人が少ない。
うーんと伸びをしている小夜子に声をかけてみた。
「小夜子さん、ここってどの辺? 地名分かる?」
「さっき看板見ましたよ。練馬って書いてましたねー」
「練馬でこんな田舎なのかよ......いや、そっか」
よく考えてみれば、小夜子の実家がある吉祥寺ですら村であった。
それならば、練馬が畑だらけでも可笑しくはない。
頭の中の地図を書き換える一也の耳に、雲雀の甲高い鳴き声が飛び込む。
白い雲が青空に映えている。どこか肌寒さは残るものの、目の前に広がるのは穏やかな畑の風景だ。
今日は三月十五日、春の芽吹きが風にも漂う。
"二十三区でこれだと、秩父は山の中だからもっと田舎か"
一也はポン、と軽くボンネットを叩いた。目的地はまだまだ先だ。




