その夜、銃士は嘆き
夜間業務は昼間の業務と一対として考える業務だ。
建物を中心として清められた吉原は、元々そこに根付いていた霊にとって居心地が悪くなる。
それでも昼間は大人しくしているが、霊の活動が活発になる夜になると事情が変わる。
鳴りを潜めていた霊達は、苛々に任せて起き始める。騒音や物理的接触などの直接的な被害を起こそうとする霊もいれば、人に疑心や他人への害意などを誘発させる霊もいる。
そうした霊を発見して対処するのが、浄霊祭の夜間業務にあたるのだ。
"昼間の掃除は夜のお仕事の前座も兼ねてるってわけか"
路地の暗闇に潜みながら、一也は目を凝らす。
昼間、小夜子がこの一帯に仕掛けた処置により、霊がこの路地に誘いこまれやすくなっているらしい。
「誘霊灯っていう呪法なんですよ。洒落が利いているでしょ?」と小夜子は得意そうに説明してくれた。
一也が見ても何を仕掛けたのかは良く分からなかったが、どうも霊符を一定の置き方をすることにより一種の迷路を作っていたようである。
"とりあえず細かいことはいいや。今日で三日目だ、きちっと終わらせて帰るぜ"
グローブに包まれた手を擦る。
二月の上旬ということもあり、夜は冷え込む。
一日目、二日目と特に誰も怪我することはなく順調に浄霊祭は進んでいる。今日さえ無事にこなせば、それで終了なのだ。
多少疲労は感じるが、何ほどの事も無い。
襟巻きで寒気を遮断しつつ、ひっそりと気配を消す。
別の区画ではヘレナと順四朗が、また別の区画では伊澤博士らが同じように仕事をこなしているだろう。
"あいつらは何をしてるんだろう"
意識の片隅、かちりと別の思考が閃く。
九留島朱鷺也子爵、そして彼に従う高城兄妹の三名の行動を、一也は知らない。
いや、正確に言うならば伊澤博士から伝聞で聞いてはいる。いるのだが、当の伊澤博士すら明確には知らないらしく、歯切れの悪い情報しかくれない。
時折姿は見かけるものの、ろくに言葉も交わさない。
向こうも必要最低限の挨拶くらいしかしない。
別に仲良くしたい訳でも無いが、気分は良くは無かった。
そもそも気に入らないのは、警察の仕切る浄霊祭に他の人間が首を突っ込んできている点だ。
陸軍の重要な地位に就いているのかどうか知らないが、部外者には違いない。
陸軍と警視庁――治安を守る意味では似た組織であり、同族嫌悪と親近感が互いの間にはあるとは聞いている。一也も箱根の合同演習の時にそれは感じた。
だから、上層部同士でしか通じない話があり、結果として九留島子爵がこのような形で横槍を入れているのだろう。
それもある意味、やむを得ないのかもしれない。
だが理屈で分かっていても、感情が容易に従うかはまた別の話だ。
自分の心にもたげる反発心を完全に制御出来る程には、一也は大人では無かった。
また、そこまで大人になりたいとも思っていなかった。
"忘れよう、どうせ浄霊祭が終われば関係ない人達だ"
すっきりしない心に区切りをつけたその時、懐で動く物があった。
すぐに身体に振動のように伝わる声が聞こえる。式神を使った小夜子の連絡である。
「二体そちらに行きましたよ。詳細判別は不可、悪霊なら退治を」
式神経由の声、それに弾かれるように動く。
「了解、害意が無い霊なら回収します。任せてくれ」
「気をつけて。一体は結構反応大きいです」
互いに短く交わした通信を切り、一也は即座に決断した。
二挺の内、魔銃を握り、呪印弾のマガジンに差し替える。
業務の性質を考えて、一番最初に撃ち込む弾丸は水色の弾底の弾丸――霊への攻撃力が高い弾丸にマガジン内でセットしてある。
三日目まで温存してきたこともあり、使ってみる気になったのだ。
まだ見えない。
だが小夜子の式神が媒体となり、気配は朧気に伝えてくれる。
不安は無かった。それを信用して、暗闇の中で感じるままに迎撃体勢を整える。
見えた、二体だ。両方とも人型、路地の曲がり角、左の方から。
"あれ、何か追われてるっぽいんだけど"
二体の霊は、並んでこちらへ迫ってきている訳では無かった。
後方の一際大きな霊が、前方のやや小さな霊を追いかけているようである。
しかし、あまり悠長に構えている暇は無かった。
壊れた樽などの小さな障害物の間を縫いながら、二体の霊は一也の方に迫ってくる。
気配に驚いたのか、路地の暗がりに潜んでいた野良猫がギャッと鳴いた。
ちょっと迷ったが、どちらにせよ何もしない訳にはいかない。無言のまま、一也が構えた魔銃の銃口がぴたりと動きを止めた。
「撃たせてもらうぜ――霊殺弾」
青い燐光が路地の暗闇を引き裂いた。
三嶋一也は困惑していた。
何とも言えない微妙な表情を作り、一也は目の前の二人と対峙する。
先程の吉原の路地からほど近いとある遊郭の裏手で、彼は予想もしない事態に直面していた。
「もう一度言います。その貴方の背中に隠れている幽霊をこちらに」
「引き渡してもらえませんこと? お願いいたします、特務課第三隊の銃士殿」
一也に迫るのは、九留島子爵の従者である高城清和と美憂の兄妹だ。執事服とメイド服の上から外套を羽織り、二人は一也の行く手を塞いでいた。
「堪忍、堪忍でありんす。わっち、この人に憑いていくと決めたんす。放っておいていただきませんえ?」
その反対、一也の背中から聞こえる声はか細い女の声であった。
聞き慣れない廓言葉のせいだけではなく、声量自体が小さく聞き取り辛い。
背中越しに振り向くと、薄い水色がかった半透明の何かが見えた。
一也に分かるのは、おおよそ着物姿の女性らしいということだけだ。顔はよく分からない。
それよりもっと重要なことは、この女性が宙に浮いているという点である。下半身に目をやると、やはり足が無い。膝から下が半透明どころか、完全に見えないのだ。
それでいて転ぶでもなく、ふわふわと空中に漂っていた。
「あ、あのさ。三人共ちょっと落ち着こうよ。そう、人間落ち着きが大事だよ」
「失礼ながら、その者は既に人間ではないのです」
「兄様の言う通り、成仏出来ない幽霊に過ぎません。さ、銃士殿、お早くお引き渡しを」
とりあえず時間を稼ぎたいのだが、清和と美憂は一也を放してくれない。
言葉尻を捉えて食らいついてくる。
しかも二人が迫れば迫るほど、一也の背後に隠れる幽霊は益々身を縮めるのだ。
つい数分前には、こんな事態など想像すらしなかった。
"どうせえっちゅうんだよ"
面倒くさい事態になったなあ、と心の中で嘆息しつつ、一也は何気無く一歩だけ後退した。
その動きに合わせて、懐でカサリと揺れた物にはっと気がつく。そうだ、ここは他の人に相談するしかない。
「小夜子さん、聞こえる? 一也です」
「聞こえますよ。さっきの二体、どうなりました? こうして通信出来るから、多分何事も無かったんですよね?」
「ああ、怪我とかは無いんだけどさ――」
式神を通して話し始めつつ、一也は軽く肩をすくめた。
水を差されたと思ったのか、美憂が顔をしかめている。知ったことではない。
「――手短に説明する。さっきの二体の霊の内、反応の大きい一体を仕留めた。一撃だったからそれは問題無かったんだけど」
「お兄さん、格好良かったでありんすよ」
「は? 一也さん、今の声なんですか。女性の声が聞こえてきた気が」
女の幽霊の声が聞こえたのだろう、小夜子の声が尖る。
業務中にも関わらず遊郭の女といちゃついているのかと疑われては、目も当てられない。
必死でそれを否定する。
「違う、聞いてくれ。二体いた内の一体が狂暴な男の幽霊で、俺が撃ち抜いたのはそっちだ。今、話したのは追われていた女の幽霊で、悪質じゃないので保護したんだよ。このまま回収して、隊長達に引き渡そうとしていたところに――」
「そんな無慈悲なこと、言わないでおくれやすかぁぁぁ。わっちはお兄さんに憑いていくと決めたのぉぉぉ!」
「――頼むから黙ってろ。ええと、引き渡そうとしたところに、高城さん兄妹が現れて、その保護した霊を渡して欲しいと言われてるんだよ」
女の幽霊を黙らせながら、一也は必死で説明した。
浄霊祭が伊澤博士の管轄下である以上、悪霊ではない霊は警視庁が回収してしかるべき処置を施す。
この世への未練を聞いてやるだけで成仏してくれる場合もあれば、本人の願いにより強制的に浄化して昇天させることもある。
ある固有の原因により霊としてあり続ける場合は、その原因を除いてやるといった具合だ。
具体的には、生前生き別れた家族に会いたい、生家を一目見たいといった事が多い。
「え、それはちょっとおかしくないですか。一也さん、まさかその幽霊さんを渡したりなんかしないですよね?」
「しないよ。正当な理由があるならともかく、この幽霊は今は警察の庇護下だ」
小夜子との会話が聞こえるように、一也は式神を前に出す。
妹の美憂の方は機嫌を損ねたようだが、兄の清和は美憂を抑えるように一歩退かせた。
数秒ほどの間であったが、清和と一也の視線が正面からぶつかった。
「お聞きの通りだ。九留島子爵が何考えているのかは知らないが、この幽霊は引き渡せない。諦めて帰ってくれ」
「なるほど、どうあってもこちらの願いは聞いていただけないと?」
「正当性がまるで無いだろ。とにかくこっちの管轄なんだから」
「困りましたね。我々も断られました、はい、そうですかでは子供の遣いと同じですしね――」
清和の目が据わる。長剣の柄にこそ手を伸ばしていないが、雰囲気が急に暴力的になった。
それを察して、一也の背に緊張が走る。
「何と言われようとも断るね」
「流石わっちが見込んだ男でありんす、一生憑いていく覚悟で今後とも......」
「ええええ、今何て言いましたか、そこの幽霊いいぃ!?」
一也の語尾に被せるように、女幽霊と小夜子の声が響いた。
軽く毒気を抜かれたように、清和は表情を変える。
「失礼しました、おっしゃる通りです。業務の邪魔をして申し訳ない」と礼儀正しく一礼すると、美憂を伴い引き下がる。
「兄様!? そう易々と諦めるのですか!」
反発する美憂であったが、清和が耳打ちすると大人しくなった。何を囁いたのか気にはなったが、一也にとってはこれ以上は深入りしたくない二人である。
「浄霊祭の手際、お見事でした。それでは私達はこれで失礼いたします」
「物分かりが良くて助かるよ。九留島子爵によろしくな」
「はい、確かにお伝えいたしましょう」
その言葉と共に、清和は一也に背を向けた。彼の外套の裾が翻る。
美憂もまた兄の背を追い、その場から去った。
遊郭の二階から漏れる明かりの下、二人の背は闇の中に消えていく。
その背を追うように音が流れていることに気がついた。
ちんしゃんちんしゃんちりとてしゃん......軽妙な響きは三味線だろうか。
高城兄妹が立ち去った後まだ一也の体に残っていた昂りが、吉原に流れる音に溶けていくようだった。
ふと指を首筋にやる。冷や汗、先程の清和からの圧力のせいか。
"ただの執事なんかじゃない、相当出来る"
一也も今や素人ではない。
気配、圧力、あるいはさりげない身のこなしから、ある程度相手の実力は分かる。
冷や汗は、清和の腕を察知した無意識の結果だろう。だが式神からの声でその軽い驚きを忘れ、我に帰った。
「一也さん、一也さん。そろそろ戻ってきてはどうですか」
「ああ、今行く。ヘレナさんと順四朗さんは?」
「そろそろ戻ってくると思いますよ」
相手には見えないと知りつつ、一つ頷き通信を切る。「どうされるんでありんすか?」と盛んに問うてくる女の幽霊には、ただ同行してくれとだけ指示した。
後はどうにかなるだろう。
この時、この幽霊の処遇により自分がとんでもない目に遭うという可能性は、一也の頭には欠片も存在しなかった。
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「嫌でありんす、嫌でありんす、わっちはこの方に憑いていくと決めたでありんすー!」
「ふう、困ったな」
「困ったって言ってるけど、ヘレナさん絶対面白がってますよね?」
「あ、ばれたか?」
全く悪気は無いのだろう。
だが舌を出して笑うヘレナを見ていると、気が抜けてくる。
この三日間、警視庁が借りていた部屋に戻ってくるまでは問題なかった。
これでこの幽霊を成仏させてあげれば、全て丸く収まる――そう考えていたのは甘かったらしい。
「いやはや、私も長年霊体は見てきたが、これほど人格が保たれた幽霊は初めてだよ」
「ほんまやな。足が無いっちゅうこと除いたら、ほとんど生きてるみたいやもん」
伊澤博士と順四朗が幽霊についての感想を口にする。
確かに二人の言う通り、姿形ははっきりと見える上に、言葉遣いも明朗だ。
生前に限り無く近い形で幽霊となったのだろう、ということくらいは一也にも分かる。
しかしだ、それとこれとは別である。
「憑いていくっつっても、俺は嫌だからな。さっさと現世への未練を済ませて成仏をお勧めします。ほら、願いは何だよ?」
「それ、さっきから言うてある通り――悪い男の霊から助けてくれた一也さんに憑いていくことなんよ」
女の幽霊のしれっとした答えに、一也は目を剥いた。
待て、かっかしたら相手の思う壺だと自分を落ち着けようとする。
いつの間にか名前で呼ばれていることも気に入らないが、百歩譲ってそれも許容しよう。
それでも人間譲れないことはある。
「あんた、生前花魁だったんだろ。故郷を死ぬ前に一目見たいとか、吉原では出来なかったこの世の自由を謳歌したいとか、色々あるだろ、いや、あるに違いないんだよ!」
指を突きつけながら、一也は青白い姿を保ったままの幽霊に迫った。
裾の長い着物を上品に着こなし、それでいて僅かに気崩している辺り、本人が言う通り花魁なのだろう。
吉原では時雨と呼ばれていたらしく、名前についてはそれしか教えてくれなかった。
花魁や遊女がよくやる後ろで束ねたまげが印象的な髪型――潰し島田と言うらしい――も、それを裏付ける。
顔はよく分からない、というか幽霊の顔をまじまじと見つめる趣味は無かった。
だが、相手が目を見開いたことくらいはそれでも分かる。
「ひ、酷いでありんす、花魁だったからって未練はこうだと決めつけるなんて! 人権侵害、いえ、職業蔑視でありんすよ! 文明開化した明治にありえない頭の固さー!」
「くっ......言うにことかいて」
思った以上に弁が立つ。
"二十一世紀から来た自分に頭が固いとは何だ"
明治時代の人間、いや、人間ですらない幽霊に人権や職業蔑視について説かれる謂われは無いと、心底思った。
「一也さん、落ち着いて!」と小夜子が止めなければ、手桶一杯の若水をぶっかけて強制成仏させていただろう。
「駄目ですよお、貴女も。ええと、時雨さんでしたっけ。あんまり一也さんを困らせないでください」
「困ってなんかいないんでありましょ?」
「え、だってどう見ても困ってるんじゃないですか?」
小夜子が答えると、女の幽霊――時雨は頭をふりふりと横に振った。「分かってないでありんすなぁ」と気の毒そうな流し目を一つ、小夜子に注ぐ。
「わっちみたいな美人に迫られて、照れてるだけでありんすよ」
「ちょっと、そんな自分勝手な」
幽霊のくせに色目使うのか、と小夜子は憤る。
所詮は霊であり、一也に興味を示したとしても放置しておけばいいはずなのだが、何故か嫌な予感がしたのだ。
更にそれより大きな理由は、端的に言えば時雨の一也に向ける熱っぽい視線である。
元々花魁なのだ、男をたぶらかせるどんな手段を持っているか分からない。
一言で言うならば、女としての嫉妬が小夜子を燃え上がらせていた。
「あらあら、可愛らしいお嬢さんですこと。もしかして一也さんに懸想してやん?」
「ちょ、ちょっと、違いますよ! そんなんじゃなくて!」
しかし時雨の方が一枚上手であった。
他には聞こえないように、小夜子に近付きながらこっそりと煽る。
顔を赤くする小夜子だが、幸か不幸か一也は伊澤博士やヘレナと話していた。気がついた様子は無い。
「ほんまに? そうしたら、わっちが一也さん貰ってもええんね?」
「ぐ、ぐぐぐ、この......!」
「ちょっと姉ちゃん、その辺にしといたって。うちの子あんまりいじめたら、この場で切り捨てるで」
見かねた順四朗が割って入らねば、どうなっていただろうか。
慌てて時雨が退いた時、伊澤博士が大きな声を張り上げた。
「ふむ、貴重な研究材料だ。三嶋巡査、この花魁の霊が満足して成仏するまで一緒に生活したまえ。何、万が一体調を崩したのならば、研究所で面倒――」
「嫌だ! 何で俺が幽霊と一緒に暮らさなきゃならないんですか! ヘレナさん、まさかこんな非道な案に賛成しないですよね?」
「何を言っているんだ、三嶋君」
この時、一也は見た。
ヘレナの顔が満面の笑みに輝いていることを。しかし、それは良心からの笑みでは断じてない。むしろ逆だ。
「哀れにもこの世をさ迷う幽霊も、世を遡れば日本国民の一人だ。その身を呈して最後の恋を成就させてやれよ」
そう、その金髪の悪魔は、青緑色の瞳をきらきらと期待と好奇心に輝かせている。
黒い尻尾が見えないのが不思議なくらいである。
「無理無理無理無理、絶対無理ですって!」
「無理じゃないだろ、上官命令だぞ。しかも浄霊祭を仕切る伊澤博士まで同意してるんだぞ、やるんだ!」
「えええええー!」
「命令でしたら、仕方ないでありんすなぁ」
死刑宣告に等しい命令に、一也は固まった。
その肩にそっと時雨が青白い細い手を乗せる。
小夜子が棍を抜きそうになるところを、順四朗が慌てて止めた。
そんなどうにもこうにも騒がしい場を見やりながら、ヘレナはこっそりと本音を呟く。
「だって面白そうじゃないか」
こうして明治二十一年の吉原において、今年の浄霊祭は無事に終わったのであった。
ただ一人の不幸な銃士の嘆きは、また別の話である。




