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吉原談義

 部屋を包む空気は寒く、また埃っぽかった。

 大きく取られた飾り窓のおかげで暗くはないが、雰囲気全体としてはどうにも湿っぽい物がある。

 それが部屋の状況によるものなのか、あるいはこの場に集う者達によるものなのかは分からない。



「最後の一欠片が埋まらぬというのは、どうにももどかしいものだな。あと一歩まで来たという達成感より、あと一歩が詰めきれないという苛立ちが先に来てならぬ」



 一人の男の声が響いた。年配の男なのか、どこかその声には嗄れた物が混じる。



「やはり霊魂の適合率の問題ですか。こればかりは何とも......確率に頼るしかありますまい。お力添え出来ず、妹共々申し訳ない次第にございます」



「兄様共々申し訳ない次第にございます」



 最初の声に応じるは、若い男と女の声であった。まだ弱い冬の陽射しの中を、ゆるりと若々しい二人の声が通る。



「何、よい。おまえ達は儂の実験をよく手伝ってくれておる。責めることなど微塵もあろうか」



 年配の男の声が一度途切れた。声の主が右手を伸ばす。その指が掴んだ白磁のティーカップに、そっと茶が注がれた。



「済まぬな......うむ、良い香りだ」



「恐縮にございます、ご主人様」



 茶を淹れた若い女が頭を下げる。その表情は、ちょうど影に遮られて見えない。



「ご主人様、もしよろしければ一つ考えがございます」



「何だね、清和(せいわ)。言ってみたまえ」



「はっ、恐れながら。やはり実験に当たっては、検証対象を一考するも一手かと思います。来月、浄霊祭が帝都にて行われますが、それを利用してはいかがかと」



「ああ、吉原で行われるあれか。なるほど、一理あるな。美憂(みゆ)、お前の意見は」



「ご主人様と兄様が足を運ばれる場所ならば、私に異論はございません。ご指示があれば早速旅装を揃えましょう」



 ぽん、と打てば響く拍子(テンポ)で言葉が行き交う。年配の男の決断は速かった。僅かに沈黙した後、不意にその口を開く。



「よし。清和、美憂、浄霊祭の日程確認を。それに合わせて旅の準備を整えよ。宿の手配などは任せる。九留島の名前を出せば、便宜は図ってくれようぞ」



 その指示に、若い男女は頭を垂れた。「はっ、直ちに」と歯切れよく答えた二人は、一礼してその部屋から姿を消した。

 後に残されたのは、年配の男一人のみ。古びた揺り椅子に身を沈めた彼は、ゆっくりした動作で残った紅茶を飲み干した。




******




「吉原?」



 一也がヘレナに問うと、相手は一つ頷いた。最近少し伸びた髪が、金色に輝く。



(ヤー)、その通りだ。二月の六日から三日間、我々第三隊は吉原に出向くぞ」



「じじじじ順四朗さん、よよよよ吉原ってゆゆゆゆ遊郭がいっぱいのあの吉原でしょうか!? 男の人と女の人がうふんあはんの!?」



「ちょっと落ち着き、小夜ちゃん。自分やっておぼこ娘やないんやろ、そんな過剰反応せんでも」



「おぼこ娘に決まってるじゃないですか、私、そんな軽い女の子じゃないですう!」



「――順四朗、小夜子君、ちょっと静かにしてくれないか」



 顔を真っ赤にした小夜子を見兼ねたのか、ヘレナが割って入る。「男の人と女の人がうふんあはんて」と一也は呆れたように呟いたが、幸い誰にも気がつかれなかった。

 小夜子が落ち着いたところで、ヘレナがもう一度説明をする。



「三嶋君と小夜子君は初めてだろうから、改めて説明しよう。正月も終わり一区切りついたこの時期、地にとどまった霊達を祓う儀式を行っているんだ。浄霊祭と呼ぶ儀式なんだが、端的に言えば遅れてやってきた霊的な大掃除だ。その中でも吉原が選ばれる理由は分かるかい」



「あっ、何となく察しはつきます」



 手を上げたのは小夜子だった。



「その、場所柄から水子の霊が多いとか、愛憎のもつれによる怨念が吹き溜まりになっているからですか?」



「RichtigeAntwort(正解)、その通り。金銭を挟むとはいえ、そこは男女の愛欲のもつれが絡む場所。そして金銭が絡む為に、それが原因となって滞る邪念も多い。それらが障気となり、じわじわと人々の心を侵す」



「うわ、ぞっとするな。それを放置すると、後々面倒そうですね」



 一也が口を挟む。何となくだが事情は理解出来た。

 吉原には行ったことは無いが、聞いたことはある。

 日本随一の歓楽街とくれば、さぞかし人々の欲や念も染み付くだろう。



 "歌舞伎町みたいな感じかなあ、あそこも風俗街的雰囲気あるもんな"



 大学の打ち上げで利用した新宿歌舞伎町も、同じような印象はあった。

 飲み屋街やゲームセンターなどもあるので、そこまで色街では無かったと思う。

 しかし、風俗店もあればラブホテルもある。猥雑な点から言えば、さほど遠くは無いだろう。



「去年も同じ時期やったんや、めっちゃ大変やったで。あ、でも第三隊だけでやるわけやないから、そこは安心し」



「というと、他の部署や組織からも人手が駆り出されるんですか」



「そらそうよ。一也ん行ったことないと思うけど、吉原って複雑な地区やし広いねん。第三隊だけじゃあとても足りへんわ」



 順四朗の答えに、一也は「そうなんですね」とだけ相槌を打った。その涼しい顔色が変わったのは、次のヘレナの一言である。



「という訳で、三嶋君は入り浸りにならぬよう気を付けて任務にあたってくれ。君のように色を好む若者が吉原にはまっていくのは、残念ながら珍しくないからな」



「は。え、色を好むって俺のことですか?」



「だって一也さん、女湯覗くんですもの。言われても仕方ないですよー」



「な、何言ってるんですか、小夜子さんまで!? あれは不幸な事故で!」



 ヘレナと小夜子の当て擦りに、一也は必死で抗弁した。今となっては事情を知る順四朗は、にやにやと笑うだけである。



「へー、そうか、不幸な事故というのか。私達二人の湯に浸かる姿というのは、そんなに眼に優しくないのか。そうかそうかー」



「ねー、酷いですよね。乙女の恥じらいを何だと思ってるんですか、一也さん、ひっどーい」



「便乗させてもらおっか。一也ん、ひっどーい」



 ヘレナと小夜子のじっとりした視線に、更に順四朗のからかいが上乗せされる。

 一也は唸った。あのたった一度の出来心、あれさえ無ければ。



「それは単なる言葉の綾でっ! ヘレナ隊長と小夜子さんが魅力的じゃないわけないじゃないですか......いや、だから魔がさした訳じゃあなくて!」



「もう一回」



「――はい?」



 ぴたりと一也は口をつぐんだ。ヘレナがピンと人差し指を立てて、じっとこちらを見つめている。小夜子も同様の姿勢である。



「一也さん、今のもう一回お願いしますー!」



「え、だから何のこと」



「ヘレナ隊長と小夜子さんがの後に決まってるだろ、早く言いたまえよ」



 ヘレナに急かされ、ようやく一也は合点がいった。勢いで言った一言も、時には役に立つらしい。恐る恐る口を開く。



「ヘレナ隊長と小夜子さんが魅力的じゃないわけないじゃないですか」



「......いやあ、いいもんだな、小夜子君。身内とはいえ、こう女としての評価をしてもらうのは」



「ですよねー、普段いくらお洒落に気使っても、中々気づいてくれる人もいないですもんねー」



「なー、悲しいよな。私も小夜子君もそんなに悪くないはずなのにな!」



 ちょろい。一也は内心そう思った。実にあっけなく危機を切り抜け、心に余裕が出来たせいもある。

 見れば、ヘレナと小夜子は嬉しそうに手を合わせている。

 よく女の子同士が向かい合ってやる、軽いハイタッチのような仕草である。

 そんなに嬉しいならば、もっと盛ろう。



「二人がいないと東京の魅力も半減ですね。立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花とはよく言ったもので」



 おだてと分かっているのだろうに、ヘレナと小夜子のにこにこ顔が止まらない。

 それを見ていると、一也の舌も滑らかになる。

 順四朗が若干引いていることには、幸か不幸か誰も気づかない。



「ヘレナさんが帝都に咲く一輪の薔薇のように、凛々しく美しいとすれば」



Gut(いい)! うん!」



「小夜子さんは、帝都の闇を祓い艶やかに舞う桜のようで」



「......ふう、たまらないですね!」



「才色兼備極まるお二人がいてこそ、帝都東京の栄華も保たれているんですね」



 一也の締めの言葉に、ヘレナと小夜子が机をバンバン叩く。二人とも「くー」と小さく唸っているのが、可愛いと言えなくもない。

 だが、不幸にもこの状況で一人冷静な奥村順四朗は。



「あんたら、あほちゃうか」



 冷めた珈琲を啜りながら、ただ呟くのみであった。




******




 暇という程でもなく、また激務という程に忙しいわけでもないそんな日々で一月は埋められた。

 世間から正月気分もすっかり抜け、山茶花(さざんか)が紅がかった赤い花を咲かせる頃になると、もう時は二月である。

 浄霊祭の段取りなどで、第三隊の業務も通常とは異なりつつあった。



「三日間の内、昼間は吉原の各地域を巡回して家屋や地面の浄化を行う。夜間は闇に溜まった性質の悪い霊を炙り出し、直接叩く。大きく分けてこんなところだね」



「でもこうして見ると、吉原ってかなり広い地区なんですね。どれだけ浄化に時間かけるかによりますけど、三日間で出来るのか不安です」



 一也と小夜子が机に広げているのは、吉原の地図である。

 現在で言うところの台東区千束、明治の感覚で言うならば浅草寺裏の日本堤、そこが江戸時代より続く日本一の歓楽街たる吉原の所在地である。

 一也が地図で見た限りでは、縦横凡そ三町の地区が使われているようだ。

 実際には、その周りに堀が設置されている為、もう少し広いだろうか。



 "一町が約109メートルだから、三町っつうと大雑把に330メートルか。結構広い......のかな?"



 狭くは無いとは思う。だが、今一つピンとこない。

 頭を捻った結果、プロ野球を持ち出して考えてようやく実感が掴めた。

 バックスクリーン直撃のホームランならば、約飛距離130メートルだったはずだ。

 とすると、野球場二つか三つ分くらいの敷地が、吉原の広さという感覚でよさそうだ。



「大体の広さの感覚は掴めた気がする。確かに広いな」



「三町四方だと、歩いて回るだけでもそこそこありますからね。真っ直ぐ歩くんじゃなくて――その、お店を見定めながら歩いたら、時間はかかるんじゃないですか」



「だろうね。人の色と欲が生んだ歓楽街か。さぞかし華やかなんだろうな」



 恥ずかしかったのか小夜子が言い淀むが、一也は意に介さなかった。

 遊郭という物がどんな物か、興味が無いといえば嘘になる。

 だが、女に情を注げば辛くなると思うと、心は揺れ動かない。

 少なくとも今は。



 そんな一也に、小夜子はちらと視線をくれる。

 吉原での業務と聞いても、一也はほとんど表情を変えていない。あまりだらしない顔もしてほしくないが、全く照れなどがないのも可愛げが無い。

 自分でも我が儘だと思うが、女心などそんなものだろう。



 眉間に指を当て、小夜子は想像してみる。

 吉原で大勢の女郎に囲まれ、一也がだらしない表情をしているとしよう。

 肩や胸を着物からはだけさせ、あられもない姿になった女郎達がいる。彼女らが一也を囲み、一也がその一人の膝に頭を預けている。灯籠の淡い光がその光景を包み、やがて衣擦れの艶かしい音が――



「ダメダメダメです! そんなの絶対ダーメー!」



「えっ、どうしたの、小夜子さん?」



「はっ......いえ、すいません。ちょっと考えごとを」



 ははは、と笑ってごまかす小夜子はどう見てもおかしいが、一也は「疲れてるんだよ」とだけ声をかけた。

 生姜湯を淹れて小夜子に渡したのは、せめてもの気遣いである。



「あ、すいません。一也さん気が利くー」



「冬ってさ、血の流れが悪くなって頭の回転が悪くなるんだって。だから変なことを口走ることもあるよ、うん」



「前言撤回します、くっ、馬鹿にしないでくださいっ!」



 何だかんだ言いつつ、仲の良い二人であった。







 ヘレナと順四朗が先に帰った為、今日は一也と小夜子が最後である。戸締まりをして、二人で拠点を後にする。

 雪こそ降らないものの、外は寒い。

 一也はインバネスコート、小夜子は愛用の赤の角袖羽織に身を包むも外気を完全には遮断は出来ない。



「寒いなあ」



「寒いですねー、やだやだ」



 一也と小夜子はぼやきながら歩く。

 冬のこの時間になると、人通りも少ない。

 アーク灯のぼうとした光が、二人の歩く道を照らす。



「浄霊祭、明後日ですね。何にも無ければいいですけど」



「何かあるから、俺達が呼ばれるんじゃないの。普段は鬱々と日陰に隠れる霊をいぶしだすんだ、何も無くはないさ」



「もー、そんなこと分かってますよお。私が言いたいのは、それでも皆が無事で帰ってこれますようにってことです」



 小夜子が不満げに頬を膨らませたので、一也は「ごめん」と謝った。

 そのまま顔を上げる。ここからは見えないが、浅草の方へ歩けば吉原に着くだろう。



「自由を奪われて遊郭に囲われるってのは、どんな気持ちなんだろう」



「えっ?」



「いや、ふと思っただけだよ」



 資料として渡された吉原の写真には、通りに面してずらりと並んだ女郎達が写っていた。

 白黒写真なので着物の色は分からなかったが、それでも美女が並ぶ光景に惹かれるものが無かったと言えば、嘘になる。

 だが、どうしても気になるのは彼女らと外界を隔てる格子であった。

 雛壇に座らされた女郎は、その格子により通りを歩く人達から隔絶される。

 ただし、隙間格子のため、彼女らの顔や姿を外から見ることは容易なのだ。



「いくら綺麗に着飾っても、籠の中の鳥じゃ可哀想だよな。さえずるしか出来ない」



 やむ得ぬ事情により、吉原で働かざるを得ないというのは理解は出来る。

 大きな歓楽街があることにより、そこで客が落としていく金が人々の生活を支えることも理解は出来る。

 それでも尚、一也の心に残るのは釈然としない何かであった。



「一也さんて優しいですよね。普通の男の方ってそこまで考えてないですよ」



「別に優しくはないって」



 小夜子に答えながら、脳裏から写真の記憶を消そうとした。

 どのみち、近日中に吉原には赴くのだ。

 どう感じるかは、実際に見た後で十分だろう。

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