傍話 君が叫びに応えよ、我が銃 前編
"あ、来ているんだ、あの人。今日は何を描いているんだろう"
ふつり。少女の胸に興味とも関心とも呼べぬ物が浮かぶ。
往来に気を払わねばとは分かっているにもかかわらず、少女の視線はつい横を向く。
生来短めに纏めた髪を、それとなく整える。
宿場町の埃っぽい通りを挟み、その男は座っていた。
少女のように屋台をやっている訳では無い。それ故、男が相手にしているのは客では無い。
折り畳み式の床机椅子に腰掛けて、男は白い布張りに向かっている。
その手に握るのは細い絵筆だ。
絵描きなのだろうか、と少女は首を傾げる。
明治の世になってから西洋絵画が流入したこともあり、自称絵描きが増えたと聞く。
あの男もそうした人種の一人なのかもしれない。
絵描きには知り合いがいないから断言出来ないが、多分そうなのだろう。
「もしもし、飴を一つくれないか」
「はい、二銭になります。こちらですね、ありがとうございます」
幾ばくかの注意は男の方に向けつつも、来客にはほとんど反射的に対応する。
まだ少女は十四歳に過ぎないが、この飴売りを始めてそろそろ二年が経つ。
商売人としての対応が、良くも悪くも体に馴染んできていた。仕事着にしている麻の着物も同様だ。
少女の手が飴を差し出す。
素焼きの壺に入った冷やし飴を受け取りながら、客は一銭硬貨二枚を少女に差し出した。
チャリンと小さな音を立てて、硬貨が少女の小さな手に落ちる。
チャリン、チャリン。
幾度この音を聞いたであろうか。そして幾度この音を聞くことになるのであろうか。
商売自体は嫌いではないが、毎日同じことが続くと思うとため息の一つも出るというものだ。
"あの男の人はどうなんだろう。ここのところ、毎日来ているけれど"
男の方を見た。
すっと背筋を伸ばし、男は白い布張り――確かキヤンバスと言うのだ――に向かう。
一心不乱に絵筆を走らせる男の目には、何が見えているのだろう。どんな世界があの白い布に描かれるのだろうか。
"自分とは別の世界の人なのかもしれない。だってあんなにも"
先ほどとは別のため息が一つ、少女の口から漏れた。涼やかな秋風が凛と吹き、それを散らす。
"綺麗なんだもん。男の癖にずるいな"
少女は男の姿をそっと盗み見る。
縦縞の袴を履き、それと揃いの着物が粋である。
男にしてはやや長めの黒髪はさらさらと流れ、細いフレエムの黒縁眼鏡もよく似合っていた。
女の装いをしたら似合うのではなかろうか、と思いつつも、その考えを覆す。
眼鏡の奥の瞳が時折鋭い物になるのを知っているからであった。
そのように商売の合間に眺めている内に、男が床机椅子から立ち上がった。
通りをすたすたと歩き、少女の屋台の前に立つ。肩に羽織った西洋風の黒いマントが揺れた。
「いつもの飴、一つ貰えるかな」
「はい、ありがとうございます」
そう、いつも男は少女から飴を買うのだ。
男がこの品川の町に姿を見せ始めてから一週間ほどであるが、初日から少女から飴を買ってくれた。
道端で絵を描いていると、喉が乾くのかもしれない。
生姜の利いた冷やし飴は、確かに喉に優しいし風邪防止にも良い。
「あの、熱心に描かれていますね」
「ん? ああ、まあそうだね。必要なんでね」
一週間も毎日顔を合わせていれば、多少なりとも親しみは沸く。仕事がある以上、あまり長話は出来ないのであったが、二言三言程度の短い会話が交差する。
男は眼鏡のブリッジを人指し指で押し上げた。その仕草一つを取っても上品であった。
「毎日大変だね。頑張って」
「いえ、滅相もない。絵描きさんも頑張って下さいね」
「絵描きさん......はは、そうだな」
何故か少し返答に間があった。だが、男の小さな笑いは暖かかった。
******
最初はその程度の会話しかなかった。
少女は仕事があったし、男も必要以上には話しかけてはこなかった。
しかし、さほど広くも無い通りである。それを挟んで顔を合わせていれば、自然と親しみも沸いてくる。
目が合えば会釈をし、また互いの作業に戻る。男が飴を買いにきた時に、たわいもない短い会話を交わす。
少女にはそれが嬉しかった。
警戒心を抱きつつも、少女と男は一枚ずつ紙を重ねるように、ゆっくりと知り合いになっていった。
二人ともどこかで会話に飢えていたのかもしれず、そしてお互いがそうであることを察知していたのかもしれない。
季節が秋から冬へと変わったある雨の日であった。朝から怪しい曇り空だなとは思っていたのである。
そんな少女の嫌な予感は当たり、昼過ぎに急に天気が崩れた。
灰色の雲は黒へと変わり、天から降り注ぐは大粒の冬の雨。どこか温さを含む夏の雨とは違い、冬の雨は体を芯から凍り付かせる。
「ついてないなあ、もう!」
屋台を畳み、さっさと近くの軒先へ避難する。
飴売りが雨にやられては洒落にもならない。
地を叩く雨を恨めしげに睨みつつ、ふと横を見ればそこにはあの男がいた。こちらも大急ぎで絵の道具を片付けたらしい。
両手に抱えたキヤンバスが落ちそうになり、それを慎重に家屋の下部に立て掛けている。
少女にそれを見られたと気がついたか、男は決まり悪そうな顔になった。
「急な雨だから仕方が無いな」
どこか言い訳するような口調である。
二人分ほどの距離を開け、少女と男は雨を見ていた。
ととと......と軽やかに音を刻む雨の飛沫がかかる。豪雨という程では無いが、無視出来る程でも無かった。
季節が季節である、かなり寒い。
思わず派手なくしゃみをかました少女の方を見て、男は微かに笑った。
「これ、使うかい。男物だが寸法は合うだろう」
「す、すいません」
差し出されたマントを手にしつつ、少女は僅かに顔を赤らめた。男性から上着を借りるなど初めてであった。
くしゃみに対する決まりの悪さもあり、そそくさとマントを羽織る。確かに暖かい。
「――中々止みそうにもない」
「そうですね。体に凍みるような雨です」
「屋台をするには厳しいな。飴が薄まる」
「絵を描くにも辛いでしょう。絵がぐちゃぐちゃになります」
ぽつりと男が話し、少女が答える。束の間の雨宿りの合間に、二人の会話が始まった。
少女の名は坂井岬といった。
生まれも育ちもこの品川で、二年前から親を手伝って飴売りをしている。
小さな弟妹がいるので大変だ、と岬が口にすると、男は「偉いものだ」と頷いた。眼鏡の奥の瞳が岬の方を向く。
名前はどんな漢字なのかと聞かれ、海に張り出した灯台などがあるあの岬だと答えた。
「どんな字だと思いましたか」と岬が問うと、男は曖昧な笑みではぐらかした。
ただ「友人に同じ響きの名の人がいる、いや、いたから聞いてみただけだ」という言葉がやけに重く耳に残る。
お返しにと男が名乗った。
「中村廉也といいます。しがない絵描きです」
はは、と乾いた笑いが冬の雨の中に消えた。
男――中村からはどこか世俗からずれたような印象がする。
絵描きという職業がそう思わせるのか。あるいは、仄かに醸し出される知的な美しさのせいだろうか。
今まで会ったことのない人間だ、と岬は思った。
不思議な男であった。
******
その雨の日以降、岬と中村はぽつぽつと話すようになった。
内容はたわいの無いことである。
その日の天気であったり、飴の売れ行きであったり、中村の絵の進み具合であったりである。
一度、岬は中村の絵を見せてもらったことがある。絵の審美眼などまるでないが、それでも中村が描く絵が高い技量に裏打ちされていることだけは分かった。
風景画と言うのだろうか、ここ品川の宿場町を四角いキヤンバスに切り取ったような絵である。
建物の傾斜、瓦に反射する陽光、時折舞い降りるカモメなどが精緻なデッサンで描かれていた。
「凄いなあ、絵上手ですね」
岬の誉め言葉に対し、中村は肩をすくめただけであった。「単に正確に描いただけだ。面白味も何も無いよ」という素っ気ない台詞と共に絵筆を置く。
その時、ほんの僅かだが中村の右肩が震えた。
怪我かな、と岬は思ったが、不躾な気がして聞けなかった。
だが視線で気がついたらしく、中村が苦笑する。
「前に捻ってしまってね。まだ完治していない。絵筆を持つのは、半分は回復運動の為だ」
優しい、けれどもどこか堅い芯のある口調であった。
あまり踏み込んでくれるな、という無言の意志を察し、岬はそこで引いた。
「早く治るといいですね」というありきたりな労りに、中村は「そうだね、まったくだよ」とだけしか言わなかった。
眼鏡越しの瞳がすぅと透明度を増したように感じたが、恐らく岬の勘違いであろう。
岬の刺激に乏しい日常にとって、中村との会話は密かな潤いであった。
博識らしく、彼が語ることは岬が知らぬことが多かった。
紅毛碧眼の外国人客に英吉利語で話しかけられた岬の代わりに、英吉利語で対応してくれたことすらあった。
「How much is this candy?」
「2 sen per one candy. This is ginger taste, very good」
ポカンとする岬の頭上で、全く分からぬ言語が飛び交う。
岬が我に帰ったのは、その外国人客が飴を手にして帰る時であった。「Thank you!」と言われてもまるで分からなかったが、飴を買ってくれたことだけは確かである。
慌てて頭を下げるのが精一杯であったが、その横で中村は、大したことないとでも言いたげな顔であった。
「中村さん、英吉利語話せるんですか」
「ある程度だよ。複雑な話は分からないが、あれくらいなら出来る」
「あたしは全然ちんぷんかんぷんですよ! 凄い、凄すぎる!」
興奮気味に岬は身を乗り出す。
そもそも異国の人間と話そうという意識自体が浮かんでこない。そんな典型的な日本人の彼女から見れば、中村が普通に対応しているのは神の技であった。
「本当に大したことじゃないんだけどな。それより、これ」
「ん、何ですか? 絵葉書......かな?」
「惜しいが違う。さっきの外国人客がくれたよ。クリスマスカードだね」
中村から手渡されたのは、きらびやかな葉書大の厚紙だ。
だが岬はクリスマスと聞いても、今一つぴんとこなかった。
「耶蘇の誕生日を祝う西洋の習慣だが」という中村の説明で、ようやく思い出す。
「あー、そういえばちらっと聞いた気がします。教会に行って贈り物の交換とかするとか......でしたっけ」
「そうそう、表面的にはそんな感じだね。そうか、明治二十年だとまだ根付いていないのか」
中村の言葉に微かに引っ掛かる物はあったが、岬の関心はもらったカアドに向いていた。
赤と緑の絵の具で小さく絵が描いてあり、美麗と言っていい。
中村曰く、あの外国人は基督教の宣教師だそうである。
十二月二十五日が聖誕祭であり、彼が通う教会でもその日を祝うそうだ。
よく見れば、カアドには教会への案内図らしき紙が挟んであった。
「はあ、そのクリスマスっていうのは何か大事な日なんですか?」
「少なくとも彼らにとってはね。あと、子供が大人から贈り物をもらう習慣がある。それに倣って」
「倣って?」
「多分、この日に教会に行けば、来訪者には何か配られるんじゃないかな。推測だけどね」
中村の説明に、岬は心を動かされた。
英吉利語はさっぱり分からないし、基督教の教義など天上の音楽並みに縁遠い。
しかし、一度刺激された好奇心は中々止まなかった。
それに何か貰えるならば、弟妹に分けてやれるだろうという小さな欲もある。
正直興味はある。だが、自分などが行ってもいいのか。
「興味あるのなら、一緒に行きますか」
「え、いいんですか中村さん!?」
「英吉利語話せる人間がいた方がいいだろう」
願ってもいない中村の申し出に、岬の顔が明るくなった。一人では怖いなあ、と思っていたところだったのだ。心底嬉しい。
「ありがとうございます、良かったら飴いかがですか?」
「食べ過ぎると太るからいい、気持ちだけ貰うよ」
手を振って断り、中村は絵に戻った。その背中に、岬は密かに手を合わせた。
こほん、と小さな咳が一つ、続いてごほごほと大きな咳が二つ。悲しいかな、聞き慣れてしまった咳の音だ。「大丈夫?」と台所から声をかけるが、返ってくる言葉は分かっている。
「大丈夫だよ、岬、ごめんね」
そう、いつも通りの答えである。
元気だった頃と比べると、随分とか細くなってしまった母の声だ。
聞いていて悲しくなってくるような、細く弱い調子の声。ずいぶん長い間、この声を聞いているような気がする。
「母さん、薬湯飲む?」
「いえ、いいわ......後、四包しかなかったはずよね。大事に使わないといけないし」
「そう、うん、分かった。後でお湯だけ持っていく。ちょっと待ってね」
母との会話をしつつも、岬は包丁を動かす手を止めない。
家族の夕御飯を作らなくてはいけないのだ。
仕事から帰ると家事が待ち受け、幼い弟妹を寝かしつけて泥のように眠る。そんな毎日である。
代わり映えのしない日常は、日めくりカレンダアのようだと思う。
だが、けしてそのカレンダアはぱっとした色では無いな、と岬は思う。
不幸ではないにせよ、幸せだろうかと眠りにつく前に考えることもある。
白ではないだろう。
茶色は少し近いけど、ちょっと違う気がする。
鼠色が印象としては近いのではないか。それも――もしかしたら、じわじわと黒に近づいていくような。
"中村さんがもしあたしの日々を描いたなら、どんな色の絵になるんだろう"
岬にとって、その想像は恐ろしかった。
世界を切り取り絵画に収める、それを生業とする絵描きには自分の日々は、人生はどのように映るのか。そしてどのように描くのか。
豆腐を切り分ける手を休めないまま、岬はその作業の合間合間にそのような拉致もないことを考えた。
想像、妄想、そのどちらでもいい。
何を対象にして、そのようなことを考えているかも重要ではない。
日常に向き合うことをほんの少し忘れたい。ただそれだけの理由であった。
"薬代の支払い、大丈夫だったかな。父さんが掛け合ってたよね"
ふっと岬の思考が別のことに及ぶ。
母の咳は長引いているだけのただの風邪、と診断されたのは不幸中の幸いだった。
しかし、それに対して処方された薬代が、じわじわと坂井家の家計を圧迫しているのである。
積もり積もれば、単なる風邪薬とて馬鹿にはならぬ。
金がまったく無いわけではないが、飴の掛け売りの代金回収の期日が少し先のこともあり、父が薬屋に支払い猶予を願っているのが現状だ。
年末まで待ってもらえば、どうにかなるのだが。
"島岡薬処って、あまり良い噂聞かない薬屋さんなんだけど"
胸中に不安という名の雲が広がりそうになり、それを何とか自制した。
岬はぐい、と着物の袖で目元を拭った。
視界の端が滲んだのは、きっと少し疲れているだけだ。そう自分に言い聞かせながら。




