温泉 箱根 何故か陸軍 ~湯煙純情物語~
今日で一年も終わりかと思うと、感慨深い物がある。ましてや、自分が生きてきた時代とは全く異なる時代であれば尚更だ。
余りにも多くの事があったと振り返りながら、一也はちびちびと酒杯を傾けていた。「当ホテルからの年越しのお祝いです」と富士屋ホテルの支配人から頂戴したものだ。
ブランデーと聞いても一也にはピンと来なかったが、何やら高そうな酒らしいことだけは分かった。
「一部屋に一本だからな、仲良く分けろよ?」
「そない言うて、小夜ちゃんいない隙に隊長が飲みそうやんな」
「えっ、やだ、式神ちゃん部屋に置いて監視しなきゃ!」
「呪法ってそんな使い方するものでしたっけ」
第三隊の面々がわいわいがやがややりつつ、年越し蕎麦を啜っていたのがつい二時間ほど前のこと。
「今年は色々大変だった。来年はもっと大変かもしれないが、とりあえず来年のことは来年考えればいい!」と力強くも投げやりなヘレナの締めの言葉と共に、解散となった次第である。
"ほんと色々ありすぎだよな"
明治二十年三月の東京にタイムスリップしてから、かれこれ九ヶ月である。
ただのサバゲー好きの大学生は、何故か警察官である。
何の因果でと嘆きたくもなるが、どうにか今日まで生き抜いてきた。
明日に対する希望を捨てねば、いつかどうにかなる。そう願いつつ、分厚いギヤマンのタンブラアを傾けた。
ブランデーの濃く、むせるような喉越しに、いつぞやの電気ブランを思い出す。
"あれが第三隊に入るきっかけだったか"
コトリ、と卓に置いたタンブラアが鳴った。
順四朗は風呂に行った為、部屋には一也しかいない。
昼間の模擬戦の疲れもあるのだろうか。程よい酔いはくるりと加速し、一也の記憶をかき混ぜる。
いい思い出も、嫌な思い出も両方だ。
どちらも沈殿するにはまだ新しく、脳裏に翻るその色は鮮明だった。
窓から染みる寒気に反し、部屋は木炭ストオブのお陰で暖かい。
寒暖相反する部屋の中、一也はまたブランデーを一口飲み干す。昼間、角谷少佐に勝利した高揚はとうに消えている。
妙にしみじみとした静かな心持ちのまま、一也はストオブが立てる音に耳を傾けていた。
パチ、と薪が弾けた。
洋灯の傘越しに寄越す揺らめく光と、ストオブの熱が溶けて部屋の中を満たしている。
疲れていたせいもあるのか、妙に眠い。せめて歯を磨かねばと、ぐいと体を伸ばした時、部屋のドアがゆるりと開いた。
「あー、ええ風呂やったわ。一也ん、疲れたやろ、年越す前に温泉行っとき。今やったら空いとるで」
浴衣にどてらを羽織った順四朗は、さっぱりした顔であった。素直に頷き、一也も風呂の用意をして部屋を出る。寝る前にさっぱりするのも悪くない。
「俺、もうブランデーいいんで。あと全部飲んじゃってもいいですよ」
「そうなん、えらい残ってるけどええん?」
「これ以上飲んだら、二日酔いになりそうですし。じゃ風呂行ってきます」
一也が部屋を出た後、順四朗はブランデーの角瓶を見た。
大して減っていないようにも見えるが、いいのだろうか。
しかし、呑まないという選択肢は浮かばなかった。
「ちょっともらおかな。ええと、つまみ何かあったっけ」
******
"ふう、やっぱ温泉はいいや。疲れが取れる"
息を吐く。
外気が低いせいか、湯の水面と空気が触れる境界線は、白い湯気がもうもうと立ち込める。
何の成分が入っているのか分からないが、白濁した温泉の湯は微かにぬめりがあった。そのせいか、透明な湯より少し重く感じる。
湯の噴き出し口に近づかぬように気をつけつつ、一也は手足を伸ばした。
外国人客向けに建てられた富士屋ホテルにおいて、基本的に風呂は各部屋にある。
しかし異国情緒を楽しみたい客もいるため、それとは別に露天風呂も設置されていた。
勿論周囲は竹垣で囲い、外からは覗かれないように配慮した造りであった。男女別に分けられているため、温泉ハプニング的な危険も無い。
概ね外国人客からも好評とは一也も耳にしていたし、実際入ってみると頷けた。
「あー、疲れた~」
時刻も遅いせいか、男湯には一也しかいない。
誰に気兼ねするでもなく、伸び伸びと手足を伸ばした。
気づかぬ内に冷えていたのだろう、湯の中で体がほぐれていくような感覚があった。
飛ばされた時代がまだ明治でよかったなとしみじみ思う。もしこれが弥生時代辺りだったら、風呂があったかどうか怪しい。
というより、言葉が通じない可能性が高い。
"不幸中の幸いだよな、ほんと"
ぬくぬくと温泉気分に浸りつつ、一也は顎辺りまで体を沈めた。
そのまま視線を上に向けると、満点の星空が見えた。冬の凍てついた夜空に、名前も分からない星座が並ぶ。
オリオン座と北斗七星くらいしか知らない一也だが、透明感のある煌めきは純粋に美しかった。
自然のもたらす贅沢にため息が出る。
戯れに、湯に浮かべた木桶を指でつつく。手拭いを入れたその桶は、まるで舟のように温泉の波間に揺れた。
ちゃぷりと白濁した湯が揺れる。
もう一度肩までつかり、顔を湯で拭う。
十分暖まったし、そろそろあがるかと考えた時、ふと一也の耳に聞き覚えのある声が聞こえてきた。
湯から出かけた体を反射的に沈めてしまう。
「わあ、私達で貸し切りですね。何で誰も入ってないんでしょう?」
「そもそも女性客が少ないしな。夜も遅いし、こんな時間に露天風呂に浸かろうという物好きは、私達くらいさ」
聞き覚えがあるどころではなかった。
怖くて確認する気にはならないが、間違いなく小夜子とヘレナの声である。
男湯と女湯は積み上げられた石で隔てられており、互いに行き来できるようには幸か不幸かなっていない。
しかし、それを差し引いても十分に刺激的な状況ではある。
"おおおおお落ち着け、俺! 隣が女湯である以上、こういうことは起こりうる、冷静に対処するんだ。そう、静かにこのまま温泉からあがり――"
崩壊しそうな理性を総動員し、一也は必死で自分を御そうと試みた。
だが、その努力も無駄であった。
隣から聴こえてくる二人の声、ぱちゃりという水音が耳を甘く噛んで止まない。
「うふふ、温泉て気持ちいいですねえ。お肌もつるつるになりそうですし、あー極楽です」
「独逸にも似たような施設はあるんだが、日本の方が気持ちいいな。いやあ、たまらんね、これは」
「ほんと、寒さで凍えた体に効きますよねえ。それにしても......」
「ん、何だ?」
ヘレナの訝しげな小さな声が聞こえ、小夜子がすぐに答えた。
まるで盗み聴きしているかのように一也は息を潜めていたのだが、思わず生唾を飲み込む一言だった。
「ヘレナさん、どうやったらそんなに胸大きくなるんですか? すごく羨ましいんですけど」
「いや、別に何もしてないぞ。人種じゃないのか。欧州だったら普通くらいだぞ? それに、大きくても邪魔だしね。さらしで隠しているの知ってるだろ」
「それは持てる者の贅沢な悩みですよおー! お湯の中でぷかぷか浮いてて、くはって感じなんですけどー!」
「別に小夜子君だって小さくは無いだろうに。肌も白いし、私にはその方が羨ましいがな」
こんな会話が聴こえてきて平気でいられる程、三嶋一也は朴念仁ではなかった。
視線を女湯に向けぬよう必死で抵抗してはいるが、ともすれば体がそちらに動こうとする。
積まれた石の隙間から覗けるのではないか、と良からぬ妄想が頭の中で渦を巻く。
"駄目だよ、一也! 女湯を覗くなんて良くないよ!"
理性と本能は極限状態の中では可視化されるものなのか。
唐突に湯気の中から天使がそう囁けば、すぐさま湯の底から悪魔が囁く。
水面が揺らめき、吊り上げた口許が見えた気がした。
"いいじゃないか、本当は見たいんだろう? 小夜子ちゃんとヘレナ隊長の入浴姿なんて、中々見る機会ないぜ"
"でもっ、欲望に従ってそんな裸を覗き見するなんて! 人間として恥ずかしくないの!"
"おやおや、人間だからこそだろうに。二十歳前後の男が女の体に欲求高まるのは当たり前、おめおめ引き下がったら意気地無しさ"
"そりゃあ、柔らかそうなおっぱいや背中からお尻にかけての艶やかなカーブ、温泉で軽く火照った色っぽく上気した肌に惹かれないのはおかしいけれど......"
天使が裏切った、と一也は感じた。
自分の妄想内の戦いの中で、これほど容易く欲求を刺激してくる表現を使ってくるとは思わなかった。
実はこいつは堕天使じゃないのか、悪魔の味方じゃないのかと拉致も無い考えが浮かぶ。
別に女性経験が無い訳ではない。女の裸に接したことはあり、女体に対する免疫がゼロではないのだ。
それでも状況が状況だ。若い女性が近くで一糸まとわぬ姿になっており、話し声が聴こえてくるのである。
時おり会話の中に湯音が混じり、それが更に劣情を刺激する。
自分の息が荒くなりそうになり、慌てて抑える。心臓がばくばくと唸り、明らかに普通ではなくなっていた。
一也も若い男である。
人並みに異性に対する欲求はある。
ましてや、今日は合同演習最終日だ。開放的な気分になっても仕方が無い。
頭の中ではいけない妄想しか浮かばない。
小夜子が黒髪を湯にたゆたわせながら、白い背中をこちらに向けている姿を妄想しては悶える。
体の芯から暖まり白い肌がうっすらと火照っている様は、上気して潤んでいるように見えないか。
同時にヘレナの艶姿も脳裏に浮かぶ。豊かな双乳が腕を寄せる度に揺れる様を想像してしまった。
外国人なのだ、確かにかなり立派なのかもしれない。
"ほら、見てみろよ。綺麗ごと言ったって、男なんてそんなもんなんだよ"
"えっ、えっ、でも同僚なんだよ、助け合う仲間なのに、そんな自分の欲求の対象にするなんて"
"分かってねえなあ。自分が知っている女の子だから、余計に興奮するんだろ。普段知っているあの子が、実は脱いだら凄いんですとかさあー"
"だ、駄目だったら! 小夜子さんが実は着痩せしてるとか、ヘレナ隊長って腰細い割りに胸あるよねとか言っちゃ駄目だよ! 悪魔君の馬鹿!"
顔を真っ赤にして天使が怒鳴った気がした。
しかし、ただ単に煽っているだけにしか聞こえない。
"くくっ、そうは言いつつ本音はどうかな。吉原に通って女郎に身銭を使い果たすことに比べたらさ――ちょっと風呂覗くとか可愛いもんだぜ? そう思わないかい、天使ちゃんよお"
悪魔が耳元に甘い毒を吹き込む。
それきり何も聞こえなくなった。
頭の奥がじんと痺れたようになる。
それは、一也の中の最後の理性が崩れ果てた瞬間だった。
「ちょっと、ちょっと見るだけならいいかな。そうだ、狙撃眼使って見るだけなら」
人として相当駄目な言い訳を呟く。
言うまでもなく、呪法の使い方としては最低である。
そろそろと一也が湯の中を移動し、向こうを覗ける場所を見つけようとしたまさにその時。
「あの、ヘレナさん。気のせいだと思うんですけど、さっきから妙に視線感じません?」
「いや、別に。男湯とは分けられているのだろう、大丈夫じゃないのか」
まさか、と一也は息を呑んだ。
気のせいか、先程より二人の声が近い。自分が気がつかない内に、女湯を凝視していたのかもしれない。
それこそ、岩をも通せと言わんばかりの執念を込めて。
「しまった!」という失言が思わず口から飛び出す。
やばい、と思った時には既に遅かった。
ヒュン、と温泉の暗がりを引き裂き、何かがこちらに飛ぶ。
湯の中である、回避も出来ずにそれに背中を取られた。
ちょんと背中に触れる物があった。
軽い。全然痛くは無い。しかしその軽さこそが、一也にそれが何かを教えてくれた。
「や、やあ......」
振り向いた視線の先、湯の上にすっくと立つのは全長五寸程の紙人形である(一寸=約2.5センチ)。
小夜子が使役する式神であった。
一也の震え声に対し、まるで威嚇するように一度大きく仰け反った。いや、むしろ怒りの行動だろうか。
「か~ず~や~さ~ん、何してるんでーすかー」
「ささささ小夜子さん!? いや、べべべべ別にただ単に温泉を堪能していただけですっ、はい!」
式神を通して響く小夜子の声に、必死で弁解する。
術者の不信感を示す為か、あるいは威嚇行為なのか、式神が一度舞った。思わず後ずさる。
「よお、三嶋くーん。君、呪法使う時にはもうちょっと気配隠した方がいいなあー」
「はうあ!?」
頭上、反射的に視線を上げた。
白く立ち上る湯気越しに、ヘレナの顔が見える。岩にかじりついて見下ろす格好になっているのか、白い両腕が顎の下で組まれているのが艶っぽい。
だが、それ以上に。
「まさか、狙撃眼で女風呂を覗こうなんてした訳じゃあないよなあ、うん?」
「そんなこと、一也さんがするはず無いですよねえー?」
頭上からはヘレナから直に詰められ、正面からは小夜子の式神が迫る。
先程まで色々な意味で湯だっていたのに、今の一也は冷たい氷柱を背中に当てられたかのような錯覚を味わっていた。
そして更に追撃が入る。
「やあだあ、一也さんたら。男湯に一人でいるからって女湯覗こうなんて......うふふふふ」
「いや、それは誤解っ!」
式神だけでは飽き足りなかったのだろう。ひょっこりとヘレナの隣に顔を出した小夜子に、一也は懸命に抵抗する。
小夜子の瞳からは光が消え、星空を背景に黒く澱んでいるように見えた。
気のせいだ、きっとそうに違いない。
「年頃の若い男性だ、ごく自然な欲求だと理解して――」
ヘレナが薄く笑ったように見えた。だがその目は言葉とは裏腹だ。
「――出来るわけないだろうが、この覗き魔、変質者! 小夜子君、落とせ!」
「はーい、いっきまーす!」
「え、何、止めて、ほんとすいませんごめんな......うわひゃあああああっ!?」
謝罪の言葉をぶったぎられ、一也の口から悲鳴があがる。
頭から肩にかけて体の芯まで凍りそうな冷水が浴びせられ、血管が縮まり視界が一瞬暗くなった。
雪に近い真冬の水をこれでもかと桶で頭上からぶっかけたのは、小夜子が操る残り四体の式神だったと知ったのは少し後のことだった。
「ふん、これで少しは頭も冷えただろう」
「覗き見なんかしちゃ駄目ですよーだ」
ヘレナと小夜子の声がほんの少しだけ、さっきより優しくなったような気がした――いや、錯覚かもしれないけれど。
「すいません......」と震えながら答える一也をからかうように、式神達が白い軌跡を描いて飛び上がった。
******
「おかえり、あれ、どうしたん。えらい冴えない顔しとんやん」
「は、はあ。その、色々ありまして」
順四朗に対して、曖昧に答える。
部屋にはストオブが効いており、暖かい。
自分の煩悩のせいで偉い目にあった、と思いつつタンブラーを掴む。
まだブランデーの角瓶は空にはなっていなかった。
「順四朗さん、飲みましょう。今年の罪も咎も穢れも全て押し流す為に!」
「お、おう。ええけど、急にどないしてん。二日酔いがどうとか言うてたのに」
「そんな些細なこと忘れました!」
きっぱり言い切りながら、一也は自分と順四朗のタンブラアにブランデーを注いだ。
忘れよう、人間切り替えが必要だ。煩悩による一切合切を忘れて、新しい年を迎えよう。
最初の一口を煽った時、ごぉんと何か重い音が外から聞こえた。「あー、除夜の鐘やなあ」という順四朗の呟き、それに二つ目の鐘の音が更に続く。
その重く広がるような音を聞きながら、一也はため息をついた。
「順四朗さん、男って因果な生き物ですね」
「え? 一也ん、いきなり難しいこと言い出したな」
「除夜の鐘の音って、人間の百八の煩悩を清める為でしたよね。色欲って何番目なのかな......」
ごぉん、とまた一つ鐘が鳴る。
一也の小さな悩みはその鐘の音に重なり、飲み込まれ、そして消えていった。




