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最終決戦

 "ようやく思い出したよ、寄生型魔獣だったな"



 警戒心を最大級に張りめぐらせつつ、ヘレナは後方に跳ぶ。

 魔獣の大きな口が食らいつこうとするが、それは虚しく空を切り裂いただけだった。

 暗闇を煮詰めたかのような、暗い暗い口腔にはヤスリのような歯がびっしりと生えていた。

 牙により突き刺すのではなく、削り取る為の武器らしい。



 邪馬魚苦(ジャバウォック)、その名を聞くまでヘレナが思い出せなかったのは、この魔獣が単純に数が少ないせいである。

 土谷の腕に潜んでいたことから分かるように、普段は宿主の体の一部に寄生して生きている。

 宿主との共生関係によるものか、それとも強力な使役魔術により強制的に取り付かされているのかは分からないが、どちらにせよ単体でうろうろしていることはほぼ無いと聞く。



 宿主の体を依代としつつ、いざ命令があれば肉体と精神を同一化して顕現する。それ故に秘匿性が高く、個体差が激しい魔物であった。宿主の個性に左右される部分が大きいためだ。



 "それでも共通点はあったよな、確か"



 邪馬魚苦(ジャバウォック)の尻尾が大きく振られたのを、しゃがんでかわす。速いし当たれば重い一撃ではあるが、単発であれば怖くはない。

 だが、これはこいつの真の武器ではない。

 本命は次だろう。

 ヘレナは視線を外さない。あの空洞のような口から漏れる、どす黒い気体が奴の最大の武器だ。



蒼風守盾(ヴィントシルト)!」



 攻撃を読めていなければ、備えることも出来なかっただろう。

 自分の四方に吹き荒れる風の守り、それが邪馬魚苦(ジャバウォック)の口から放たれた黒い気体を吹き散らした。

 風が唸りをあげ、どろりと煮詰めたような色の噴煙を巻き上げる。

 巻き込まれればただでは済まないのは、運悪く気体を浴びた木箱を見れば一目瞭然だ。かなりの高温なのか、木箱の表面が瞬時に焦げつき、更にそこから追加効果的にボロボロと腐り果てていく。



 有毒の翼。それが邪馬魚苦(ジャバウォック)の異名の一つであると覚えていたおかげで、こうして防御も取れた。

「優秀な自分の記憶力に感謝するよ」と小さく笑いながら、ヘレナは大きく前に詰めた。

 あの噴煙の直後だけは、魔獣の動きに隙が出来る。

 恐らく肺の空気を使用して吐き出すためだ。

 いやに細かいことまで覚えているのは、グレゴリウス鉄旗教会での対魔物戦授業の賜物である。



 ならば、もう一つの異名の真意はどうか。

 戦慄、そして躊躇いが混じる心を押して、切り込んでやる。

 今の闘光剣(リヒトデーゲン)は通常状態より上、簡易的に火炎系魔術を核に宿した状態だ。炎の力を纏う分だけ攻撃力は当然上がる。

 これならばやれるはず、とヘレナが気合いと共に横斬りを放った。間合いを潰し、胴を薙いだ一撃は鋭さも速度も申し分なかった。



「――それは届かナイナア」



 だが、邪馬魚苦(ジャバウォック)は悠然と吠え、ヘレナを弾き飛ばす。刃でそれを防ぐも、攻撃の重さにヘレナの顔が歪んだ。



 "自分の身で確かめるまでは半信半疑だったが、やはり事実か"



 先程の自分の剣閃は、邪馬魚苦(ジャバウォック)の濃緑の皮膚に防がれたのではない。その体に当たるより前に、不可視に近い何かに遮られたのだ。

 僅かな時間ではあったが、ヘレナはほぼ一目でその正体を見抜いていた。

 空気ではない、それよりももっと流動的で防御に向いた物をこいつは使っている。



「空気中に漂う水分を媒介としての流体防御か。魚面だけあるな」



「毒づいたところで結果は変わらナイヨ。残念ダッタネ」



 ギリ、と魔女は歯軋りし、魔獣は嘲笑した。

 邪馬魚苦(ジャバウォック)の体の前面にうっすらと展開されていた物、それはゆるりと動く水の壁だ。

 より正確に言えば、空気中の水分を邪馬魚苦(ジャバウォック)が防御魔術でより効果を強め、高速で流すことによる防御壁である。

 小夜子の使う呪法"空壁"に性質としては近いが、こちらの方がより効果は高い。

 先程の光槍雨(リヒトランツェンレーゲン)を防いだのも、この水の防御のおかげだろう。

 光の乱反射により、槍の構成が崩されたか。



 邪馬魚苦(ジャバウォック)のもう一つの異名、それはこの防御方法に由来することを思い出す――邪水の鱗と忌々しげに呼ばれていた筈だ。

 攻撃においては毒による腐食を振り撒き、防御においては水を展開するという技の多彩さが、この魔獣が恐れられる理由であった。



 また毒の噴煙が吐き出される。

 それを蒼風守盾(ヴィントシルト)でかわすヘレナを見つつ、邪馬魚苦(ジャバウォック)は軋むような声をあげた。

 空気がびりびりと震える。気の弱い者ならそれだけで失神しかねないだろう。



「さあさあ、どうする。逃げてばかりデハ――」



 後脚で体を支え、邪馬魚苦(ジャバウォック)が迫った。

 前足から伸びる四本の指がかくん、かくんと折れてゆく。

 両の手で合わせて八本。



「――勝てやしないゾ、ヘレナ・アイゼンマイヤーァァァ!」



 それが咎人を捕らえる縄のように、揺らめき蠢き突き出された。




******




「ありゃあ......なんちゅう奴相手にしてんねん」



 奥村順四朗は嘆息した。

 毛利美咲を倒した後、引き返しながら土谷史沖を探していたのである。

 不意に大きな物音とただならぬ妖気を感じ、そちらに向かったらこれだ。物陰に身を潜めながら、そっと様子を伺った。



 ヘレナがいるのは当たり前と言えば当たり前だ。それは理解出来る。紺色の制服の所々が破れてはいるが、まだまだ元気そうなのでひとまず安堵した。

 だが彼女が対峙しているのは、自分の予想を超越した存在だった。

 翼の生えた巨大な蜥蜴、ただし魚頭というのが順四朗が抱いた第一印象である。

 何らかの怪異妖物の類いだろうが、名前は分からない。



 "いや、名前なんかどうでもええねん。それよりまさか隊長が押されとるんかい"



 その方が驚きであった。

 順四朗はヘレナがどれだけ強いか知っている。一対一で真っ向勝負ならば、彼が知る限りは無敗である。

 にもかかわらず、ヘレナは本気で苦戦しているようであった。

 これはまずい。自分が援護に入らねばと思う。だが、その足を止める理由がある。



 それは、時折あの魚頭の蜥蜴が吐き出す煙の為だ。

 こちらに漂ってきた時に微かに吸ってしまったが、喉に苦い物が走った。恐らく毒性が強い煙だろう。

 二人が戦う周囲は、所々その黒い煙に犯されていた。

 あれを振り切りながら一気に間合いを詰めるのは、かなり困難だと判断したのである。よほど良い瞬間を測らねばなるまい。



 "下手に踏み込めば返り討ち"



 だからといってこのままでも。



 "ヘレナ隊長が殺られたら、順繰りに片付けられるだけやな"



 それは間違いない。

 この戦場と化している港湾地区はそれなりに広いが、広大という程では無い。

 あの怪物が高い視点から探せば、いくら隠れていてもすぐに見つかる。

 見つかれば、そこでお仕舞いだ。良くて重傷、多分殺される。いわんや、横浜の街も危ない。



 故に順四朗の選択はただ一つ。息を潜め集中力を高めた上で、最高最速の一撃を決められる間合いと瞬間を測るのみ。

 無論ヘレナがいよいよまずいとなったならば、そんなものは関係なく斬りかかるつもりではあるが、まだその時では無さそうだった。



 "頼むで、隊長。もうちょい引き付けてな"




*******




 薄い霞がかったような視界だった。

 目が上手く開かないし、体が痛む。特に腹の辺りの筋肉がみちり、と悲鳴をあげた。

 たまらず手をあてようとするが、腕も疲れて上手く持ち上がらない。



 "ええと......俺は、何をしようとしていたんだっけ"



 回らぬ頭脳の片隅で、ぼんやりと考える。

 まとまらぬ思考は油断すればすぐに散りそうになり、それを必死で手繰り寄せた。

 その間にも痛みはある。いっそ考えることなど止めて、意識を眠りにつかせてしまった方が楽なのだろう。

 波間に漂う小舟が、自然と海に沈むように。

 湯の中に沈めた角砂糖が、自然と溶けてしまうように。



 "きっとそうだろうさ。けど、俺はまだそれは出来ない"



 肉体の苦痛に抗う物がある。

 混濁する精神の中、ぴんと立つ何かがある。

 それはきっと自分にとって大事な物だ。手放してはいけない物だ。

 そう自分に言い聞かせ、なけなしの力を振り絞った。

 呼吸、わずかに開いた口から酸素を取り込む。

 集中、耳が僅かながらに規則正しい音を捉える。

 ああ、あれは海の音だ。

 そうか、自分は確か港湾地区で戦って、それで今ここにいるんじゃないか。



 "中西先輩を倒して、ああ、それで失神したんだな。痛いのはあの最後の"



 中西が放った呪法らしき攻撃のせいだろう。ゆっくりゆっくりと目覚めていく意識の中で、思い出す。

 電撃――だったのだろう。痺れがまだ体に残り、吐き気がする。よく生きているものだ。あのお守りに感謝しなくては。



 "お守り? そうだ。皆は"



 黒髪の青年は、そこでようやく完全に意識を取り戻した。中西を海に落とした後、気がつかぬ内に失神していたらしい。

 破れたBDUが目に入る。どうやら自分は大の字に寝転んでいたらしい。失神したのも情けない。

 だがそれ以上に余りにも無防備な格好であった。

 戦場でこうなるとは大胆不敵と自分に呆れた。それだけ体への、そして心への負荷が大きかったのだろうと考えても、自分を納得させるのは難しかった。



「よ、良かったですー! 一也さーん!」



「あ、小夜子、さん。無事だったんだね」



 いきなり左から聞こえてきた声に、何とか首を回して反応した。

 がらんと積み荷が崩れた景色が目につくが、それを背景に座り込む少女のことは忘れていない。

 紅藤小夜子だ。特徴的なサイドテールを垂らしたその顔が、心配そうに一也を覗き込んでいた。



 無事でよかった、と安堵したのも束の間であった。

 よく見れば相当疲弊しているようで、その顔色は悪い。

 元々色白ではあるが、和紙を思わせる程に真っ白というのは尋常ではないだろう。

 よく見れば、その細い指先が震えている。



「あんまり大丈夫でもないみたい、だね」



「あ、はは。ばれちゃいました? 呪力全部使い切っちゃって、歩くのがやっとなんです。勝つには勝ったんですけど」



 小夜子の勝ったという言葉に、一也はしばし考える。

 小夜子が戦っていたのは、そうだ。寺川だ。

 寺川亜紀との一対一を小夜子が引き受けていたから、自分は中西と勝負出来たのだった。



「そう、じゃあ寺川は」



「生きてますよ。私の棍くらいじゃ中々容疑者死亡まで行きませんよ」



「え......うん」



 微妙な懸念を看破されたか、と焦りつつ、一也は頷く。

 ならば、そうか。生きているのか。感情が定まらぬまま、それでも口を開きかけた一也は――固まった。



 身を起こしかけた一也を支えつつ、小夜子もまた固まる。二人の動きを止めた原因は明白であった。明らかに戦いが生み出す音、そして並々ならぬ気配に体が反応したのである。

 獣、いや違う。もっと恐ろしい何かの声だ。それに混じって聞こえてくる、伝わってくるのは自分達の上司の声でないか。



「よく状況が分からねえんだけど」



「私もさほどは。だから端的に言いますね。ヘレナさんが戦っています。それも尋常じゃない相手と」



「やっぱりそうか、ここから見える?」



 入らぬ力を膝に込め、よろよろと立ち上がる。

 小夜子の肩を借りるのは複雑な気分ではあるが、そうも言っていられないようだ。

 魔銃のカートリッジを換えながら、一也は小夜子に目で問う。何が相手なのか分かるかと。

 それに対して、小夜子もまた無言で促す。見た方が早いということだ。



 やっとの思いで立ち上がり、ふらふらと近くの起重機(クレエン)に掴まった。

 外傷こそ大したことはないものの、体力の消耗が酷い。だが、今にも閉じそうな瞼を閉じるには少々刺激的な対象が目に入ってきた。

 ここからの距離はかなりありそうだが、はっきりと見える。サイズは大型トラックくらいかと推定しつつ、一也は大きく息を吐いた。



「なるほど、ずいぶん大きな蜥蜴だな。あんなのまで飼ってたのかよ、神戦組は」



 RPGに出てくる翼のあるドラゴンがあんな感じだな、と思うも口には出さない。

 一点妙な部分があるとすれば、その頭部か。

 全体的には爬虫類的なフォルムだが、ぽっかりと開けた口と間隔の開いた目は鯉に似ている気がする。いつぞやの屍妖魚があんな感じではなかったか。

 遠目であるためはっきりとは分からないが、違和感がびしびし伝わる。



「一度、金田さん達に容疑者を引き渡して、それからあれを見て引き返してきたんです。途中でたまたま倒れている一也さんを見つけて」



「了解......とにかく今は、やれることをやろう」



 そう小夜子に答えつつも、出来ることとは何だろうかと思う。

 小夜子は呪力を使い果たしているし、自分も疲労困憊である。戦いにおいて、足手まといにしかならないのではないか。

 退くか。それも一手だなと考えはしたが、頭を振った。

「あんな怪物、ヘレナさん一人に任せておけねーよ」と自分を叱咤する。



 自分を鼓舞する為の言葉は、思いの外はっきり聞こえた。

 それに安堵する。

 小夜子も戦意は失っていないらしく、小さく頷いた。



「近寄るのは無茶ですよね」



「ああ、自殺行為だな」



「じゃあ、ここから撃つんですか?」



 小夜子の問いは疑問というよりは確認だ。

 一也の状態を心配しつつも、それでも寄せる信頼だ。

 彼の技量、そして意志の強さに寄せる無条件の信頼が、そこにはあった。

 ならば――それに応えるのが銃士(ガンナー)たる者の矜持だろう。



「ここから狙撃してみる。手伝ってください」



 一也の頭の中で、狙撃までのプロセスが固まりつつあった。

 ここら辺りから狙うには、幾分角度が悪い。

 乱雑に積まれた木箱のせいで視界が制限され、狙撃対象(ターゲット)であるあの怪物が移動の度に時折視界から消える。かといって別の狙撃ポイントを探すのも、残り滓のような体力と気力を考えると現実的ではなかった。

 ならば、変えるべきは横への移動ではない。

 縦、もっと簡単に言えば高度を変えればここからでも。



「この起重機(クレエン)、俺くらいなら吊り上げられるかな。こいつで持ち上げてください」



 一也が指差したのは、木箱を吊りさげる為のフックであった。

 鈍い鉄色のフックは十分に頑丈そうであり、成人男性一人くらいの体重は支えられるだろう。

 ならば、あとは安定した足場があれば何とかなるか。

 すぐにそれを察した小夜子が、使えそうな物を見つけた。運良く、手近に無傷の木箱があったのだ。

 船に運びこむ為か、きちんと縄も回されている。本や雑誌を廃棄する時に、ぐるりと縦横に紐を回して上で結ぶが、概ねそれと同じような感じであった。



「これを使いましょう。上蓋は外して後は外装を剥がせば、一也さん乗れますよ」



「え、でもこの横板とか釘打ちされてるけど」



「そんなもん――」



 言い終えるより、小夜子が動く方が早かった。

 もう余力など微塵も無いと見えたのに、その華奢な両手が真横に力強く棍を引く。

 腰が綺麗に回る。

 十分に遠心力の乗った一撃が、見事に木箱の外装を粉砕した。



「――ぶっ壊しちゃえばいいんですよお!」



 パラパラと木屑が宙に舞う中、小夜子は鬼気迫る笑顔を見せた。

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