捜査初日 2 再会
狭い砂浜を飛び出し、一也は土を固めた歩道を走る。
所々に提灯が吊るされた道だ。
足元の暗さもあってあまり走るに適してはいないが、そんなことに構う余裕は無かった。
戯れに狙撃眼を使ってみたその時は、まさかあんな物が――いや、者が見えるとは思っていなかった。
小夜子と岩尾には悪いが説明している暇もない。
だから二人を捨て置くように駆け出した。この機を逃したら、永久に機会を逸するかもしれない。
走りながら停泊している船の方を見る。
正確には船に隣接している桟橋だ。
木組みで石を支えた桟橋に立つ人々の中に、一也が目指す人物がいる。
もう狙撃眼を使わなくても判別出来る。間違いない、あいつだ。
"おかしいだろ、何であいつが"
走る。走りながらも、驚きが疑問の形で頭の中を渦を巻く。
みるみる内に対象との距離を詰める。
心臓が跳ねる。
急加速による反動よりも、爆発しそうな感情のせいだ。
砂利が散った。歩道から桟橋に移る。
まだその人影は桟橋にいた。船に用があるのだろうか、その視線はそちらに釘付けだ。
今やその距離を五間――約9メートル――まで詰めた一也にはまだ気がついていない。
一也の視界に映るそいつの見覚えのある背中が、見覚えの無い和服を纏っていた。
「中田!!」
叫んだ。
波の音を貫いて響いた一也の声に、呼ばれた男が振り向く。
意志の強そうな太めの眉の下、ただでさえ大きめな目が一也を認めた。
信じられないといった顔をしているが、それは一也も人のことは言えないだろう。
「か、一也?」
男の声が口から漏れた。間違いなくそれは一也の記憶にある通りの――立候大学二回生、中田正の声であった。
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「え、じゃあお前だけじゃないわけ?」
「おう。中西先輩、毛利先輩、あと寺川も一緒」
一也の問いに中田が答える。舶来物らしきウイスキイの水割りをぐび、と煽ると、中田は一呼吸置いた。
「そうか、俺達だけじゃなかったんだな。お前もだったとは知らなかったよ」
「そりゃこっちも同じだよ。びっくりしたっつーの、さっきお前を発見した時はさ」
軽口を叩きながら、一也も麦酒を一口含む。
桟橋でまさかの再会を果たした後、二人は近くの酒場へと移動したのだ。
お互いあの場所で何をしていたか、ということは後回しにし、とりあえずは乾杯という次第であった。
船員向けに開かれた酒場の空気すらも潤滑油にして、二人はお互いの事情を話す。
無論、メインとなるのはこの明治時代にスリップしてきてからの経緯である。
口にするまで気がつかなかったが、中田らが一也とは違うタイミングでスリップした可能性もあったのだ。
つまり、あのサバゲー部の活動の後で何かの拍子にということである。
だが話している内に、ほぼ同じタイミングでタイムスリップしたことが判明した。
一也がスリップに巻き込まれたのは、皆から少し離れて後片付けしていた時だった。
中田によると、急に一也がいなくなったので中西の指示で探したらしい。たまたま固まって探していた中西、毛利、寺川、そして中田の四人が一也と同じように不可思議な風景に包まれ――次に気がついた時には、見知らぬ土地に転移していたということであった。
「もちろんお前のせいじゃないけどさ、結果的には一也の後を追ったことになんだよな」
「そうなるよな。けど、じゃああの日、他にいた部員達も巻き込まれてるかも?」
中田に答えつつ、一也は考える。
だがそれは可能性として考慮はしても、推察の域を出ない。
中田も「かもしれねえけど、こればっかりはなー」とお手上げのようである。
とりあえず可能性はある、ということだけしか分からなかった。
吉祥寺近辺に落ちた一也とは違い、中田らは横浜から更に南の逗子の方にスリップしたらしい。
時期は一也とほぼ同じ、明治二十年の四月であった。
その事実から、一也を巻き込んだタイムスリップと恐らく同じ現象なのだろうと二人は考えた。
場所がずれたのは、僅かな時間差のせいだろうか。
「俺さ、吉祥寺が神奈川県に属してるって聞いてさ。おかしいだろ、とか思ってたんだよな。はあ? って感じでさ」
周囲には聞こえぬよう、幾分声を潜めて一也が話す。
久しぶりに同じ視点で会話が出来る相手を前に、普段よりその口は滑らかであった。
「分かる分かる。俺らもそうだったもん。逗子から横浜まで何とか這うように移動したのはいいけどさ、自分らが知ってる横浜と全然違うもんな。車も電車も無いし、ビルも無い。ふざけんなって感じだったよ」
言葉を吐き出した隙間を埋めるように、中田がまた水割りを飲む。
元々酒に強い男ではあったが、明治時代に来てから更に強くなったのだろうか。全く顔が赤くなっていない。
一也も中田に合わせるように飲む。そして、気になったことを口にした。
「四人だけで今までやってきたのか?」
「ん?」
「いや、俺はさ。さっき話したみたいに、たまたま吉祥寺に住む女の子と出くわして。その子に助けてもらうような形になって、この時代のことを教えてもらったんだけど」
小夜子と出会わなかったらどうなっていたか。想像するだけで身震いする。
この時点では会話の流れ上、東京に出てきたところまでは話していたが、まだ一也は自分が警察に入ったことまでは話していなかった。中田らの事情も最低限しか掴んでいない。
当然、誰かに手伝ってもらったり助けてもらっているのだろう。でなければ物乞い一直線か、あるいは最悪の場合は餓死すらあり得る。
だが見たところ、中田は割と普通の様子だ。
躊躇わずに酒場に入ったところからしても、ある程度の金銭は持ち合わせているのだろう。
誰の助けも借りずにそこまでの状態になるとは、ちょっと想像し難い。
「え、うん、まあ何となくな。助けてくれた人はいるんだが――」
「おい、何だよ。嫌に歯切れが悪いな」
「あんまり話すなって言われてんだよ、その人にさ。詳しいことはちょっと言えねえんだ。恩もあるしな」
中田が黙る。
友人の意外な反応に、一也の顔が曇った。
後ろ暗いことでもしているのか、と一瞬想像してしまう。気にしすぎだとは思うが、中田が視線を逸らしたことを一也は見逃さなかった。
人のそういう仕草は隠したいことがある証拠だと、見習い期間中に教わった。
自分が警察官であることを明かすか否か。
数分前までは躊躇う余地すらなかったのに、一也は自問せざるを得なかった。
同時に、友人に隠し事をしなければならないという事態に自己嫌悪する。
心の中の注意報。二人の間の沈黙を一也が破る。
「そういえば中西さん達と一緒なんだよな。今、何してんの」
「ちょっとした手伝いみたいなもんだ。その、さっき言いそびれた俺達を助けてくれた人が事業をしていて。詳しい内容は知らないんだけどな、それで今は生計立ててる」
「ああ、何か商売? だからか、正直に話したらその邪魔になるかもしれないから、その人のこと話せないんだな」
意図的に一也は逃げ道を作った。
明らかに中田はこのことに関して乗り気では無い。
相手のあやふやな話の内容を、自分が補強する形で話の方向性を持たせる。案の定、中田はそれに乗った。
「ああ、そうなんだよ。ごめんな、詳しく話せなくてさ。その人とは中西さんが話していて、俺らはあんまり知らないんだ」
「へえ、何か事情があるんだな。でもさ、その人ならともかく、中西さん達には会えるだろ?」
「そりゃ勿論だよ。皆びっくりするって!」
これ以上の話は今は引き出すのは無理か、と一也は断念する。
こういう聞き方をしたのだ、今度は逆に聞かれるだろうと予期した。そしてその通りとなった。
「ところでさ、一也は今は何をしてるんだよ。その、紅藤さんだっけ? その子のヒモ?」
「わけねーだろ! 何で俺がたかりやってんだよ、公務員だよ、公務員!」
「まじで!? 安定職じゃん! すげえな、どんなことしてんだよ」
公務員という答に嘘は無い。
警察官は公僕だ。
だが、どうにも歯切れの悪い返答をしてきた中田に全ての真実を語ることは――無理だ、今はまだ。
「代筆屋だよ。行政書士みたいな奴な。さっき話した紅藤さんの知り合い通して、そういう仕事しているんだ。俺、法学部だし」
「あー、なるほどな。そういえば横浜の役所にもそういう部署あるよなあ」
「そう、それだよ」
拙い嘘だな、と自嘲する。
サバゲー部で遊んでいたあの頃、こんな嘘を中田に言う日が来るとは思ってもいなかった。そう、トイガンを撃っていたあの頃は――
コツン、とその時、何かが一也の脳内に閃いた。
「なあ、中田。お前、今も銃撃ってるのか」
あくまでさりげなく。何でも無い風を装った問い。
「ん? たまに撃ってるぜ。トイガンなんか無いからさ、猟銃とか使ってな」
「へー、凄いな。それって中西さんや毛利さんや寺川も?」
「おう。この辺て水鳥とかいてさ、鶴見川の辺りとか飛んでたりするんだよな。良くないのかもしれないけど――」
答えながら中田がポーズを取る。
右手を胸に引きつけて、左手を真っ直ぐに伸ばして。
言うまでもなく、両手で構えるライフルなどの長銃を撃つ時の射撃姿勢だ。口が小さく動き「バン!」と空砲を奏でた。
「――貴重な蛋白質確保の為にさ。手合わせた上で、撃たせてもらってる」
「そう、か。中西さん、お前、毛利さん、寺川の四人でね」
声が震えないよう、抑えこむのに必死であった。
男二人、女二人。全員が銃を持ち、扱いに長ける。
そんな集団がそうそういてたまるか。
「おう、そうだよ。サバゲーはこっちじゃ出来ない代わりっつったら、あれだけどな。一也も今度一緒に行こうぜ? さっきの話だと、お前も銃持ってるんだろ」
「......中田、お前が最近やってる手伝いってさ。何なんだ?」
「え、何だよ、またその話かよ。それは詳しくは言えないって」
「偶然、お前らの姿を見た人を知ってるんだよ」
自分でも驚く程の硬質の声だった。
半ば以上の確信を抱いて、一也は問い詰める。
豹変した一也の様子に中田が戸惑い、少し身を引いた。
カタン、と一也の手の麦酒のジョッキが卓を鳴らす。
「土谷史沖って知ってるよな。知ってるはずだよな」
「あ、ああ、あれだろ。最近有名な神戦組の代表者かなんかだろ。町で見かけた――」
「とぼけんな。そういう意味じゃない、もっと間近で見ていて、知っていて、関係あるよなって意味で聞いてるんだよ」
「おい、一体どうしたんだよ。そんなむきになってさ」
中田はあくまでしらを切るつもりらしい。
状況証拠しか無いが、一也は恐らく中西ら四人が土谷の取り巻き連中と考えていた。
もし、もしこの場で中田がそれを認めたならば。一気に神戦組がどういう集団なのか、その真意を探ることが出来る。
無論友人に対する情はある。
同じ境遇に落とされた人間に対する共感もある。
だが、それはそれとして――今、自分が背負っている責務に目を逸らすことはしたくはなかった。
一也と中田の視線がぶつかる。
たかだか数秒程度の緊張が、やけに長く感じた。
酒場の喧騒が二人を避けているかのように、一也と中田の間に沈黙が下りる。そしてそれは唐突に破られた。
「帰りが遅いと思ったら、まさかの再会とはね。咎めるのはやめだ」
聞き覚えのある声に、弾かれたように一也は振り向く。
だがその動きが止められた。背後から伸びた何者かの掌が柔らかく一也の右肩を叩き、それ以上振り向かせない。
大して力など籠められていないような手が、やけに重く感じる。
「周囲には気を配れと注意したろう。久しぶりだな、三嶋一也」
「......お久しぶりです、中西さん」
かろうじて、一也は眼だけを動かす。
その視線の先に、サバゲー部部長であった中西廉の端整な顔を認めた。記憶がチリと焦げ付いたように感じ、すぐにその視線を外した。




