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秘めた理由

日本(ヤーパン)に、ですか」



 彼女の声が反響する。

 広い室内には、彼女を含めて三人の人間がいた。

 彼女、彼女にどことなく似た顔をした大人の男、そしてその二人と向き合うように座る黒髪黒目の男。



(ヤー)御嬢様(フロイライン)。欧州に名高いアイゼンマイヤー家のお力を、是非とも我が国に貸していただきたく存じます」



 黒髪の男が答えた。三つ揃えのスーツを着こなした様は、彼女が想像する極東の民族のそれではない。

 ああ、そういえば外交官だったと彼女は認識する。道理で流暢な独逸(ドイツ)語を話す訳だ。

 しかし遠い日本という小さな島国について、彼女はほとんど知らない。

 近年、数百年に渡る鎖国を西洋からの外圧を契機に解いたらしい、ということくらいだ。



 彼女の人生において、日本などその意識の片隅にも上らなかった。

 知識としてはその国名を覚えていても、実感はまるでなかった。

 人生においてけして関わることの無い国の外交官が――何故、自分に用があるのだろうか。



「話は既に教会を通して聞いております」



「それでは、もう御承諾いただいたと考えてよろしいでしょうか」



 彼女の傍らに立つ男の発言に、黒髪の男は喜色を声に滲ませた。彼女は理解する。そうか、教会を通してならばこれはもう決定事項なのだと。

 "私個人の意見や心情などは、全体の中では小さな物に過ぎない"――彼女は自分を納得させようとし、微かに痛みを感じる。

 

 彼女はその資質上、旅には慣れている。

 だが欧州から遠く離れた地に赴くとなれば、それは重みが違う。どのくらいの期間行くことになるのか、どのような待遇になるのか――それらも今は分からないが、一つ確実に言えるのは。



「教会の命令は絶対です」



 彼女の傍らの男の言葉の通りだった。

 彼女は覚悟する。

 だが、男の次の言葉はその顔を上げさせるに十分だった。



「ただ、本人が納得する為に少しお時間をいただけないでしょうか。お願いいたします」



「お父様」



 彼女の声に、男は頷いた。その襟に付けられた鉄旗を模した記章が鈍く輝く。




******




 月光がカーテンを通して降り注いでいる。彼女の金色の髪を更に輝かせるような、艶のある月光だった。

 目を閉じていても彼女にはそれが分かる。意識を眠りに手放そうとしつつ、まだ完全にはそこまで至ってはいないからだ。



 もし枕元から彼女を見る者がいれば、その美しさにため息をもらしただろう。

 月明かりの中、半分眠りについた彼女は妖精の血でも引いているかと思わせる、そんな造形をしていた。



 すっきりと通った鼻筋から小さな唇に至る曲線はバランスがいい。

 女性らしいたおやかさを頬にたゆたわせ、黄金色の髪は肩までかかってから僅かに外に跳ねている。

 胸の辺りにかけられた毛布は膨らみに押し上げられ、彼女が少女から大人へと変貌しつつあることを伺わせた。



 瞳を閉じたまま、彼女は考える。夢うつつの中、本日彼女に唐突に知らされた事柄について。








 "驚かせてすまなかったね、ヘレナ"



 あの後、黒髪の男の部屋を辞去した後、父は彼女の名を呼んだ。

 ヘレナ・アイゼンマイヤー、それが彼女の名前。

 父は何時ものように優しくその名を呼んだ。何時もと違うのは、声音に痛ましさがブレンドされていたこと。



 落ち着きを取り戻したヘレナは、悲しくは無かった。

 あの日本の外交官からはきちんと説明があった。

 幕府が崩壊し近代化に向けて歩み始めた日本には、西洋の魔術に対しての知識が圧倒的に不足していること。

 開国を境に増加する外からの怪異、妖物に対する戦力が足りないこと。

 その為の窮余の一策が、海外の同盟国からの人材借用であった。



 "この機会にお前を日本にやることに対して、教会は利益と不利益を天秤にかけた。結論としてはお前を日本に遣ることになった"



 "はい"



 ヘレナの声は落ち着いている。

 少なくとも彼女は知っている。欧州全域の魔術的権威である教会――正式名称をグレゴリウス鉄旗教会という――の決定は絶対であり、個人の意見や意向は無に等しいことを。

 同時に彼女の父が精一杯、ヘレナの気持ちを汲んでくれて少しだけ時間をくれたことを。



 自分は見捨てられてはいない。父の配慮を受け止めたヘレナは、そう感じていた。

 納得はしていないし、別に日本など行きたくはない。

 だが――自分を心配してくれる親の好意を受け止めたならば、行くしか無いではないか。



 "大丈夫です。行ける、と思います"



 それでも尚、躊躇いが声を震わせるのは致し方ないことではあった。

 制裁(ストラーフェ)の二つ名を授与されたヘレナではあるが、まだ十七の女の子には違いないのだ。

 何も知らぬ極東の島国に対し畏れの一つも抱かぬなら、むしろその方がおかしかった。



 "ヘレナ、今回のお前の日本行きにはもう一つ理由がある"



 やや唐突な父の言葉にヘレナは首を傾げた。

 時は三月、ドイツ北部のブレーメンの街はいまだ寒く、暖炉の火が消えぬ日は無い。

 その暖炉の照り返しを横顔に受けつつ、父は語る。



 "お前の祖父母が亡くなった日の事を覚えているか?"



 "え、はい"



 忘れる程には遠くない記憶であった。

 四年前だ。

 ヘレナが十三歳の冬のある日、ヘレナらと同じブレーメンに住んでいた祖父母は亡くなった。急激な寒気の流入による心臓発作という死因は痛ましい物ではあったが、ある意味納得いく物であった。

 その為、ヘレナも今まで祖父母の死を引き摺ることなく今日まで生きてきたのである。そんな話を何故今頃、という疑問を父の一言が粉砕する。



 "死因は心臓発作であることは間違い無いが、呪い殺された可能性がある"



 呪い殺された――不意に耳に飛び込んできた単語はあまりに意外であった。

 理解出来ないという様子のヘレナに、父が語り始める。

 アイゼンマイヤー家に連なる者として、祖父母もまた退魔活動に従事していた。

 情報交換は密に行ってはいたが、実は密かに祖父母は一人の邪悪な魔術師と対峙していたらしい。

 その戦いの余波が家族に及ぶことを危惧し、祖父母はその魔術師の存在について口を閉ざしていたのである。



 祖父母の葬式の後、遺品を整理していた時のことだった。祖父が愛用していた日記を思い出に駆られつつめくっていると、ある一文が目を惹いたのである。それはこう記されていた。



 ――気づかれたかもしれない。あの邪悪な魔術師に、邪な眼を右手に閃かせたあの魔術師に。だがあの人物が記したあの文字は、確か日本語ではなかったか。ああ、それなら奴は......



 乱れた文字が祖父のその時の精神状態を表していた。

 どういった形でかは分からないが、その魔術師らしい人物が祖父と出会ったということは分かった。文面から友好的とはほど遠い存在であったことも推察出来た。

 しかし、それは手がかりと呼ぶには余りにも少ない情報であった。仮に日本まで行けば何か新しい事実が掴めるにしても、この程度の日記の一文では極東まで赴く原動力には足りなかった。



 かくして四年の間、アイゼンマイヤー家は沈黙を守っていたという訳である。

 ヘレナの父は記憶の片隅に祖父母の死の謎を刻みつつ、機会を伺っていたのだ。




 "この魔術師がお前のお祖父ちゃんとお祖母ちゃんを殺したという証拠は無い"



 "はい、でも同時に可能性はある"



 "ああ。可能性はある。だからヘレナ、私達は教会の決定とは別に"



 "親族殺しの犯人の可能性がある魔術師を探す。日本にいるかもしれないから、この機会を逃せない――でしょう? お父様"



 娘の返事に父は頷いた。

 魔女としての才能のみならず、しっかりとした精神力を持った我が子は彼の誉れであった。

 いや、それらの能力や資質を別にしても、幼い頃から自分の背中を追ってきた我が子が(いと)おしく無いわけが無かった。



 それでも手放さなければならない時は来る。"ヘレナ、頼むぞ"という短い一言に万感の想いを込めて。







 寝台に横たわりながら、彼女は思い返す。

 昼間、彼女に降り注いできた突然の転機について。父と交わした会話について。

 夢と現実の狭間をさ迷う意識は時を遡り、祖父母の亡くなった日へとたどり着いた。



 寒い日だったな。そう、その前の週末にスケートに行ったんだ。それくらい寒い時期だった。



 学校から帰ると、すぐに喪服に着替えるように母に言われた。

 祖父母が亡くなったと説明されたのは、着替えが終わった後だった。つい先日会った時はまだまだ元気だろうと思っていたのに。



 感情の混乱のせいか激しい頭痛に襲われた。葬儀の最中、ずっとそれに耐えていたことも覚えている。



 日本(ヤーパン)、日本の警察、教会の決断、祖父母の仇の可能性のある魔術師――それらの単語が、ぐるぐると眠りに引きずり込まれる意識と混在していく。

 友人に別れの挨拶をしなくてはと考えた瞬間、彼女は眠りの世界の住人となった。

 カーテンを通して届く月の光は透明な優しさに充ちており、目を閉じた彼女の横顔を照らし出している。



 ヘレナ・アイゼンマイヤーの運命が大きく変わった夜が更けていく。




******




「と、こういう理由があり私は日本に来た訳だよ」



 長い話を終えたヘレナは腕組みを解いた。「はあ、大変ですね」とも言えず、一也は曖昧に相槌を打つ。かける言葉が見つからなかった。



「そんな痛ましい物を見るような顔をするな。公的な理由と私的な理由が重なり、たまたま私はここにいる。それだけのことさ」



「それはそうですが。ただ、海外に一人でというのは大変そうですね」



 自分のように時代を超えてしまうのも大変だが、言葉が通じる分だけまだましかもしれない。

 一也のそんな考えなど知る由もなく、ヘレナは肩をすくめる。



「大変だった。独逸(ドイツ)を離れる前に二ヶ月ほど日本語の集中講義を受けたが、流石にそれでは覚えられなかった。日本に着いてから順四朗がいなかったらと思うと、ゾッとするね」



「え? 順四朗さん?」



 唐突に聞こえた名に、一也は目を丸くする。「あ、そうか」とヘレナはそんな一也の表情の理由に気がついた。



「順四朗とは第三隊の結成前に出会っているんだよ。日本での最初の三ヶ月、便宜を図ってくれたのは彼だ。世話役と言ったところかな。その後は別々に配属され、またこの度、第三隊で再会したということになる」



「あ、そうだったんですか。だからお二人はあんなに仲がいいんですね」



「仲いいように見えるのか?」



 ヘレナが意外そうな顔になる。



「ええ」



 一也は素直に頷いた。

 順四朗がボケて、ヘレナが突っ込むのは第三隊の日常茶飯事である。ヘレナはそんな一也の様子に微妙な表情になる。



「外部から見てそう見えるのか......」



「嫌いなんですか?」



「そんなことは無いよ。強いて言えば――私と仲がいいと、色々いらぬ苦労を背負うだろうからな。それを懸念した」



 腕組みを解いて、ヘレナは窓の方を向く。夜風に髪をなぶらせながら口を開いた。



「まだまだこの国は外国人に冷たい。いかに私が公的に日本に招かれた立場とはいえ、あまり親しく見えるとあいつの将来に影響が出ないとも限らない」



「要らぬ心配だと思いますよ、ヘレナさん」



 一刀両断と言わんばかりに一也は断言した。ヘレナの返事を待たずに補足する。



「順四朗さん、人からどう見られるかで左右されるような安い人間じゃないでしょ。あの人いつも飄々としてますから」



「それもそうか、心配し過ぎだったかな」



「はい」



 安心したようにヘレナは表情を緩め、一也もまたそれに合わせる。口には出さない言葉を彼は胸の中で転がした。



 うちの隊長は堅物で真面目で――だけど、美人で優しくてお人好しだなあ、と。

第二章終了です。

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