傍話 骨の空白 2
"はー、疲れた疲れた"
とっぷりと日も暮れ、提灯やアーク灯の光だけを頼りに一也は家路についていた。制服は拠点に置いているので、藍色の着物姿である。五ヶ月近くも着ている内に、着物姿も板についている。
今日は墨田川の花火大会というのは知っていたが、行く気にはならなかった。
ヘレナらには誘われたのだが、どうしてもタイムスリップ前に行ったことを思い出してしまうからである。申し訳ないとは思ったが丁重に断った。その結果、一人家に帰ろうとしているわけだ。
もっとも誰が待っているわけでもない家に――待っていたら怖いが――早く帰る特段の理由も無いのではあるが。
だからなのかもしれない。
隣部屋の少年がぽつん、と座りこんでいたのを見かけた時。
八割の職業意識と二割の気紛れで声をかけたのは、誰かと話したいという気分が根底にあったからなのかもしれなかった。
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入りなよ、と声をかけ、さっさと中に招き入れる。
土埃で汚れた自分の足を拭きつつ、弥吉にも綺麗な手拭いと水を渡す。
隣近所なので顔を合わせれば挨拶くらいはするし、名前も覚えてはいる。
しかし、こうしてちゃんと向き合うのは初めてであった。特段の理由は無い。生活に接点が無ければそんなものだ。
別に放っておいても一也に罪は無いのだが、子供が一人で家の前に座りこんでいるのはあまり見ていていい物では無い。加えて、どうも様子がおかしいような気がしたのである。
声をかけ事情を聞き出してから、ちょっとの間ならいいかと判断したという訳だ。
「殺風景で悪いけどさ、地べたよりはましだと思うよ」
「すみません」
「そこらへん、適当に座ってて。何か飲む? サイダーくらいしか無いけど」
返事は待たずに、さっさと水瓶からサイダーの硝子瓶を二本取り出した。
冷蔵庫があればとは思うが、贅沢は言うまい。
一本を弥吉に手渡すと、躊躇ったのは一瞬ですぐに蓋を開けた。喉が乾いていたのだろうか、瓶の半分近くを一気に飲み干す。
歯で蓋をかじるように開け、一也も自分の瓶に口をつける。現代のサイダーより甘味が強い喉越しを感じつつ、慎重に弥吉を観察した。
この少年については名前と家が没落家族らしい、ということくらいしか知らない。
"普通に考えたら、長屋にいる類の子じゃないよなあ"
すぐにそう判断する。
色褪せた畳、衣服を収納するための二つの柳行李、小物入れ兼貴重品用の鍵付きの桐の小型箪笥くらいしかない自分の部屋のせいもあるが、弥吉だけが部屋の中で浮いている――そんな感じがあった。
身なりは普通だが育ちがいいのだろう。そう思いつつ、話しかける。
「少しは落ち着いたかい」
「え?」
「いや、さっき外で見た時にね、何だか疲れているような顔だったから」
ほんとは泣きそうな顔に見えたのだが、このくらいの年齢の子供にそれを告げるのは気がひけたのだ。多分、十歳前後だろうと一也は弥吉の外見から推測していた。自分が人にどう思われるかが気になる年齢だ。
すぐには返事は帰ってこなかった。
急かさず、一也は待つ。座布団に座り、ただ静かに残りのサイダーを飲みながら。
躊躇うような気配が弥吉から感じられたが、焦らせてはならない。何ならそのままじっと待っているだけでもいい、それくらいの気持ちであった。
「――上手く話せないと思うんですが」
「うん」
一也は頷く。ろくに話したことも無い大人に上手く話せる子供はそうはいないだろう。
「聞いてもらってもいいですか、三嶋さん」
「いいよ」
サイダーの瓶が空になった。一也がそれを畳に置いたのを合図にしたように、弥吉は口を開いた。まだ声変わりしていない少年の声で。
訥々とつかえながらも、何とか弥吉は話し終えたようだった。
時間としては短く、何発か花火を数えている内に彼の話は終わった。
暑さを逃がすために開いた窓から、ドゥン――と花火の音が響き二人の間の沈黙を埋める。
「ううん、そうだなあ」
一也は頭をかきつつ、言葉を選ぶ。
「自分を無視して、お姉さんと田仲さんが話していたのが嫌で。でも、走って帰ってきたくなる程なのか、と自分でも理由が分からないってことだよね」
「はい。嫌は嫌だったのだけど、花火は楽しみだったし。一人で帰る気なんて」
「でもいたたまれずに、その場を離れてしまったわけだね」
「うん、いえ、はい」
慌てて言葉遣いを直す弥吉を、一也は笑わなかった。その代わりに今しがた聞いた話を反芻する。
聞いた限りでは、姉の弥生に仲が良い男性が出来たのが子供なりにショックだったのだろう。
だが、自分でもそれを認めるのが内心嫌なのだろうなと、そこまでは容易に推測出来た。
"でもなあ、それだけかな?"
心の中で首を傾げた。
反発するのは分かるが、弥吉は姉とは仲がいいようである。
多少不快な要素があったとしても夏の風物詩を不意にしてまで、一人で帰る程のことか。
話を聞いている中で、一つ気になる点があったのでそれを聞いてみる。
「さっきさ、空白に感じる時があったって言ってたよね」
「......え、はい」
「それってさ、どういう時にそう思うのかな。良かったら話してくれるか?」
深く踏み込む気は無かったが、一也はほんの半歩だけ弥吉の心に踏み込んでみた。
少年は額に手を当てる。そこに答えを探すように、畳に視線を落とした。
「うちの親は三年前に死にました。流行り病にかかって、呆気なくころりって」
告白は唐突だった。何の話かと一也は思ったが、弥吉を止めはしない。
「火葬された後、俺は骨を拾いました。脇腹みたいな細い骨は火の勢いで壊れて、腰骨みたいな大きい骨は焼け焦げつけて残っていました」
記憶を辿っているのだろう。弥吉の話し方は所々で止まり、また再開する。
「――父様、母様のしゃれこうべを拾い、腕に納めた時。ああ、軽いなあと思いながらじっとそれを見つめました。丸い頭の骨はひどく白くて、そこから二人の顔を思い起こすことは無理だった」
悲しいという気持ちはまだ弥吉の中にある。
月日がその痛みを風化させたとしても、自分の中にあのしゃれこうべの白い骨が残っていた。
「それからです。家を処分してこの長屋に引越したんですけど、時々考えるようになったんです」
「何を」
「死んだら何もかもお仕舞いだ、全て消え去るんだと。じゃあ皆最後には死ぬから生きている間に何をやっても、意味が無いのかなって......時々そう考えるようになりました」
「そう、か」
答に窮した一也はとりあえずそれしか言えなかった。予想していたより重い話である。
「真っ白い感覚っていうのは、その死ぬから全て無駄と考えてる時にそう感じる?」と聞くと「そうです」という答えが返ってきた。
二人が共に黙りこむ。告白を全て終えた弥吉は疲れたのか静かになった。彼に対してかけるべき言葉も無く、一也は答を探す為の沈黙に沈んでいた。
弥吉がそう考える理由は、一也にも分からなくもない。
病気であっさり亡くなった両親の骨を前にして、子供が厭世感を抱くというのはありそうな話だ。
そして、姉と恐らくその恋人に近しい男が仲良くしているのを見てしまった。その時感じた疎外感を合わせて考えてみる。
"寂しいんだろうなあ"
容易にそこまでは思い付いた。
親を早期に亡くした自分には未来が無い、とどこかで思っているからこそ、弥吉は人生に対して虚無感を抱いているのだろうと推測する。
近からずとも遠からずだろう。
なのに姉は自分の人生を託すかもしれぬ人がおり、自分には向けない類いの笑顔をその男には見せるのだ。
そこに生まれる感情は嫉妬であり、嫉妬とは容易に寂しさに結びつく。
まして両親の死という体験を共有している姉の今回の行動は――無理からぬことではあるが、弥吉の負の感情を刺激したのだろう。
一也は弥吉の様子を観察した。
大人しく座ってはいるが、やはり元気がない。
皆が楽しんでいる花火大会の夜に一人、よく知らぬ隣人の部屋で。この少年は周囲から隔絶されたような雰囲気を纏っていた。
微かにそれが痛ましかった。
ならば、少しくらいは気が軽くなるようなことを言ってもいいだろう。
「弥吉君、俺はね。君のそう考えることはありえると思うよ」
上手く言えるかどうかは二の次として。大切なのは、この傷ついた少年に真面目に向き合うことではないかと一也は思う。
「変、じゃないですか」
「変じゃない。俺だって早くに親を亡くしたら、きっとそう思う。君の言う通り、全ての人間は最後には死ぬ。だから何をやっても虚しい、うん、筋は通っているね」
一也の肯定に弥吉は目を見張った。その目に映る男は畳にあぐらをかきながら、弥吉の視線を受け止める。
実のところ、一也もそれに近いような考えはある。そう考える理由は弥吉とは違うし、話す気はないが、理解を示すことくらいは出来るだろう。
「物事っていうのはさ、皆終わりがあるんだ。人間に限らない。徳川幕府だって三百年の歴史に幕を閉じたし、物語は最後には完結する」
弥吉はじっと一也の言葉に耳を澄ましている。
上手く話せるかという懸念は徐々に小さくなっていく。
今、一也が出来ることはまずは真摯に語りかけることだった。
「俺はさ、十九歳なんだ。君から見たらだいぶ大人だと思うんだよ。でも理由があって、君と同じように全てを投げ出したくなる時はある」
「三嶋さんは......大人なのに?」
「ああ。しかも日本国民の安全を守る警察官なのに、だ。まだ新米ではあるけど、これでもれっきとした警察官さ。それでも――生きているのが嫌だな、と思うよ。たまにね」
一也にとって、この時代はやはり自分が住んでいた平成と違う。
いかに馴染もうとは思っても、またいいところがある、とはしばしば認めても、やはり自分が生きていた痕跡がある時代では無い。
親兄弟とも友人とももう会えないかもしれないのだ。
ならば――自分の人生とは何だ。
「だけどね。始点と終点にしか意味がないなんてことは、絶対に無いんだ」
それは自分に言い聞かせる言葉だ。
独り布団にくるまり、涙が滲みそうな夜に自分に語りかける言葉だ。
続けて一也は弥吉に語る。
トリップしてから小夜子に会い、魔銃を手に入れたこと。
それから帝都に出てきたことを、当たり障りの無い内容にアレンジして。
自分が訳あって親しい人と会うのは難しいということも包み隠さず話した後、一也はこう締め括る。
「笑って、泣いて、怒って、喜んで。そんな些細なことの一つ一つが思い出になっていってさ。後から振り返って懐かしく思うんだろう。死んだら全て意味が無いなら、人間には記憶とか思い出なんて必要ないはずだろ」
「う、うん」
「だから俺は......意味が無い人生だ、と思う時は、自分の中の大切な誰かや何かを思い出すんだよ。それが思い出せる内は、俺はいけるってな」
一也にとってそれは――自我を保つ為の戦いであり。心の中の灯を消さない為の工夫であった。
平成に戻れない可能性を思い、恐怖に囚われそうになった時に自分を奮い立たせる。
自分の命にはきっと意味があり信じればどうにかなる。
そう思わねば、明日を掴む為の今日すら生き残れない。
だから三嶋一也は諦めない。
いつかは戻る為に、この明治という時代に足跡を刻みつけ手がかりを得る。その一助になるかもしれないから、呪法だって修得したのだ。
特務課第三隊に入ったのは半ば流れだが、警察ならば民間では分からぬ情報に触れる機会もあるだろう。
ギ、と知らぬ内に歯を軋らせていた。
「まあ、俺からはそんなとこかな。最後に一つ聞いていいか、弥吉君」
「あ、はい」
一也の静かな迫力に圧されつつ、弥吉は頷いた。また一つ、花火が鳴ったのが聴こえた。
「君はご両親の思い出はあるか? 弥生さんとの思い出はあるか? あるならさ――」
弥吉は真っ直ぐに一也を見た。
藍の着物をまとい、あぐらをかいている一也の姿はけして格好いいものでは無い。
だが夜の闇よりも暗いその目は、どこまでも透き通り黒い透徹とでも言うべき漆黒の塊であった。
「君の人生には意味があるんだよ。無理にとは言わない、だけど遺骨の白より、思い出の色に少し目を向けたらどうかな」
一也の言葉が弥吉の心に沈む。漆黒の視線と共にその真摯な一言一言が――心の海に沈んでいく。
「きっと君を支えるたくさんの人がいて、その人達は君に幸せになってほしいって思っているのが分かるからさ」
「う、う......う」
少年の目からぽろりと転げ落ちる水滴に、一也は知らぬ振りをした。
弥吉は、高坂弥吉は思い出を辿る。
焼けたしゃれこうべと化した両親ではなく、生きていた頃の父と母の顔を。
父の肩車から見下ろせば、遥かに世界が小さく見えなかったか。母の背に寄り添えば、世界はどこまでも暖かくなかったか。
「父様......母様」
そして華奢な手が荒れるのも構わずに、弥吉を養ってくれる弥生の――いつも朗らかな笑顔はどうだ。
姉だって寂しかったはずなのに、弥吉を思ってそれを表に出さず必死で働いてきたのでは無いか。
自分はそれに対し、何か応えたであろうか。いや、応えようという姿勢すらあっただろうか。
「姉様」
カコン、と弥吉の心の中で何かが外れた。自分の感情という楔から、白いしゃれこうべが落ちてゆく。
「お、ぼちぼち最後の一発みたいだよ。ほら、見てみなよ」
「あ、はい!」
立ち上がった一也の横に弥吉は駆け寄った。
今年の花火大会を締め括るのであろう、一際大きな花火が夜空に燃え上がる。
星をばらまいたかのような花火の華麗さは他を圧し、夜を一瞬だけ煌めくような夢へと変えた。
ドドゥン――腹に響く花の散り様が。
パチパチパチパチ――弥吉の空白を鮮やかに染め上げた。




