後日談 明治二十四年 大阪
石橋の欄干にもたれかかり、奥村順四朗は懐に手を入れた。
取り出した煙草に寸燐で火を点け、それをくゆらせる。
吸いすぎは良くないらしいが、煙草だけはしばらくは止められそうもない。
"所帯持ったら、控えるべきなんかなあ"
ぷかりと紫煙を吐き出しながら、順四朗はふと思う。
昨年、つまり明治二十三年に大阪府警に転任してからは、仕事も私事も実にどたばたしていた。
実家からは「もうええ年齢やねんから、お前も身固めえや」と言われ、ぼーっとしている間に見合いの席へと連れ出された。
あれよあれよと見合いは進み、順四朗が気がついた時には結婚の日程まで決まっていたのだ。
"己は別にええけど、あの人は文句ないんやろうか"
婚約者となった相手の事を考える。
相手の実家は、順四朗の実家たる奥村家とは旧くからの付き合いだそうだ。
つまりは商いの関係の強化も兼ねて、この縁組は為されたということである。
この時代にしては、相手は二十三歳と少々とうの立った年齢である。
けれども、順四朗は特にそれは気にならなかった。一重の切れ長の目は賢そうな印象をもたらし、大阪人らしくはきはきとした受け答えにも好感がもてた。
それに順四朗とて、今年で三十歳の大台である。あまり人の事をどうこう言える立場には無い。
再びぷかりと、順四朗は紫煙を吐き出す。
橋の下の川を、荷を積んだ小舟が行き来する。船頭の声が水面を渡り、水が弾ける音が聞こえてくる。
子供の頃から慣れ親しんだ中之島の風景は、今も昔もあまり変わらない。運河を往き来する小舟は、水都大阪の象徴である。
「やれやれ、こんな所にいたのですか。探しましたよ、奥村警部補。いや、今は警部でしたね」
背後からかけられた声に、順四朗は振り返った。
どこかで聞いた覚えがある声だ。
視界に飛び込んできたカアキ色の制服と、軍帽から覗く癖のある髪に記憶が刺激される。
「久方ぶりやん、角谷少佐。ようここ分かったな?」
「机にいない時は、大抵ここにいるとお聞きしていまして。あと、小官は現在中佐であります。念のため、訂正させていただきたく」
「そりゃまた、お目出度いことで。出世したんや?」
「はは、雑事もその分増えましたがね」
角谷瑞超少佐、いや、中佐の乾いた笑いが、春の風に散らされる。三年ぶりの再会ではあるが、順四朗の顔には驚きは無かった。どこか納得したように、彼は小さく頷く。
「なるほど。東京から人借りるいうんは聞いとったけど、あんたやったんか。確かに警視庁の誰よりも、銃の扱いには長けとるわな」
「軍部と大阪府警の間で、結構揉めたらしいですがね。警察の案件に、そう簡単に軍人を駆り出されては困ると。もっとも小官としては、銃さえ撃てればどうでもいいのですが」
「あんた、ぶれへんな」
答えながら、順四朗は煙草を口から離した。携帯式の灰皿へと押し込み、それを無造作にポケットへと仕舞う。
「へえ、流石にぽい捨てはされないのですね。帝都の喫煙者にも、見習っていただきたいくらいだ」
「これでも一応、警官の端くれやもん。忘れんといてな」
順四朗の返答に、角谷中佐は肩を竦めた。
******
「いややわあ、お兄さん、お口がお上手でえ。東京の方って、やっぱりお洒落やねんねえ」
「そらそうやろな。この人、亜米利加にも行ってんねんもん。女の扱いは欧米式やで」
「えー、ほんまにい? かっこええねえ」
「いえいえ、そちらは大したことありませんよ。小官が得意な事は別にありましてね」
華やかな空気をかき混ぜるように、角谷中佐はわざと一拍置いた。
小料理屋の女中も、順四朗も自然と彼に注目する。
拳から突き出した人指し指を、角谷中佐はくいと曲げた。
「こちらの方ですよ」
「あら、軍人さん、素っ気ない顔してそない積極的な」
頬を赤くした女中を見て、角谷中佐の頭は混乱した。疑問が氷解したのは、奥村順四朗の出した助け船のおかげだった。
「ちゃうちゃう、閨のあれやこれやじゃないっちゅうねん。銃の引き金を引く仕草や、あれ」
「え、ええ、小官が得意な方はそちらの方です。けして、その、夜の事ではありません」
「あら、いややわ! 謙遜してからに!」
「真面目に言ってるんですが!?」
思わず角谷中佐はむきになる。
けれども、女中はあっけらかんと「知ってますよお。ちょっとからこうてみただけやの」と笑いながら、立ち去った。
どうやら、相手は最初から分かっていたらしい。
その悪戯じみた背中とは対照的に、角谷中佐は憮然としている。
「ふう、どうにも小官はああいうおふざけは好みませんね。関西人は皆あのように、人を食った真似をするのですか?」
「お笑い気質やねんから、しゃあないやん。お上品な東京とはちゃうもん。そない怖い顔せず、一杯やらへん?」
「遠慮なく」
差し出された盃に、順四朗は徳利を傾ける。気を取り直して、角谷中佐はそれを一気に飲み干した。中々良い飲みっぷりである。
わざわざ東京から来てくれた礼に、順四朗は自分が懇意にしている店に連れてきたのである。
北新地の一角に構えられたこの小料理屋は、格別何が良いということも無い。
けれども、反面特に悪い点も無く、使いやすい店であった。
「大阪に戻られたのが去年でしたかね。あのヘレナ女史も独逸に戻られましたし、どうなることやらと思ってましたが」
「たまたま隊長の帰国と、己の異動が重なったんや。残された二人は大変やったと思うけど、何とかしとるやろ」
「おや、心配ではないのですか?」
順四朗はすぐには答えなかった。盃の中の酒を眺め、それを一口含む。するりとした酒の旨味を楽しんでから、口を開いた。
「時々、手紙のやり取りはしとるよ。新しい隊員も採用したみたいやし、あんまり心配してへん」
「へえ、なるほど」
「久しぶりの関西に慣れるのに、こっちも忙しゅうてな。それにあの二人やったら、大丈夫やっちゅう気もするんやわ」
「よろしければ、その根拠などをきかせてもらえませんかね」
「そんなん決まっとるやろ。己が認めた仲間やねんで?」
事もなげに、順四朗は断言する。
一也と小夜子なら、立派に切り回していけると信じていた。ひよっこだった四年前とは違い、今では二人とも大人である。
ヘレナと自分が抜けたことで、一時的には大変ではあったろう。
だが、それでへこたれるほど、あの二人はやわでは無い。
「信頼しているのですね、あの二人を」
「そらあ、生死を共にしてたからな。またどこかで会う日まで、元気にしとるに決まっとるわ」
「なるほどね」
ふふ、と小さく笑いつつ、角谷中佐は料理に箸を伸ばす。順四朗もそれに倣いながら、今度は逆に問うてみる。
「ちょっと話は逸れるんやけど、聞いてもええかな」
「答えられるかどうかは、質問によりますがね。それでよければ」
「あ、その前に聞くべきやったわ。角谷中佐はご結婚されとんの?」
「ええ、二年前にね。つい先日、お陰さまで子供も授かりました」
「ほお、そしたら人生の先輩ゆう訳やな。おめでとうございます」
順四朗が幾分冗談めかして言うと、角谷中佐は相好を崩した。照れ隠しのように、一息に盃を干す。
「いや、まあ中々子育ては大変ですがね。ところで、それが何か?」
「今度な、結婚するんやけど」
「ほう。小官としては、ようやくといった感が拭えませんがね。失礼ながら、奥村警部はおいくつで?」
「今年で三十路やけど」
地味に気にしていることではあるが、隠しても仕方がない。首筋で纏めた髪を一度撫でてから、順四朗は再び口を開く。
「自己卑下するわけやないけど、己のどこが良くて、相手は一緒になることにしたんやろなあと思ってな。きっかけは親が組んだ見合いやねんけど、そこから話がトントン拍子に進んでん」
「ああ、よくあることですねえ」
「ほんで気がついたら、婚約や。秋には夫婦になる。確かに好ましい人やねんけど、何かこれでええんかなあいう気もすんねんな」
胸の内のもやもやを吐き出しながら、順四朗は酒を煽る。
「ははあ、独身時代に未練でもおありなんですかね。そうですね、小官の乏しい経験から言わせていただくなら」
「うん」
「単なる気の迷いでしょう。誰でも結婚する前は、そんなものですよ」
「ほお、すると角谷中佐も?」
「ありましたねえ。ご覧の通り、小官は軍人です。しかも銃を撃つことにしか、興味が無いときている。そんな気質だ。一歩間違えたら、犯罪者に身を落としていたでしょうね」
「警察官の前で言う台詞やないなあ、それは」
「失礼。ですがね、こうも思うんですよ」
一度言葉を切ってから、角谷中佐は空になった順四朗の盃を酒で満たす。それを終えてから、再び軍人は語り始めた。
「そんな不安定な気質の人間だからこそ、誰かと共に歩まねばならないのではないかとね。人を手にかけるような職業であるからこそ、心を平常に保つ必要がある。だから、伴侶がいた方が良いのではないかと思うんですよ」
「はあ、なるほどなあ。そういう考え方もあるんやな」
「ええ。幸い家内は、小官の生き方を理解してくれております。小官が銃が無ければ生きていけないような、どこか歪な精神の持ち主であることも知っている」
どこか自嘲めいた笑みを滲ませつつ、角谷中佐は順四朗を見た。反応を促しているのだと察し、順四朗は考える。
"銃が無ければ生きられない、か"
それを言うならば、自分とて似たような気質ではあるまいか。
"己から剣術を取ったら、何も残らへんもんなあ"
今は帯刀していない。
普段は職務が終われば、署に預けている。けれども、修練を重ねた剣術の動きは、体に染み付いている。
それは紛れも無く人を斬り殺す技術であり、それ以外の何物でもあるまい。
「己も似たようなもんやわ。餓鬼の頃から、刀振り回しとったからな。この歳になっても、基本的にはその頃と変わらへん」
「でしょうね。多かれ少なかれ、男とはそんなものではないですか」
「悪いことの為に振り回してた訳やないけどな。けど、そんな己が誰かと所帯持つっちゅうのを想像するとなあ。こう、背中がむず痒くなるっちゅうかな。ほんまにええんかなと、考えてまうねん」
良い悪いの問題とは、また別の話である。似合う似合わないの問題として、順四朗は捉えている。
順四朗とて人の子である。異性に側にいて貰いたいという、男として当然の欲求はある。
伴侶がいてこそ一人前という考えにも、基本的には同意している。
だが、心の何処かでまだ躊躇いがあるのも、事実であった。
「誰かと一緒になっても、己は己のままでおれるんかなとかな。つい考えてしまう事もあんねん」
「それは分かりませんねえ」
「せやな。堪忍な、つまらんこと聞いてもうたわ」
「いえいえ。しかしね、そんなに心配なさらなくても良いでしょう。小官でもどうにかなっているんですから、奥村警部でもどうにかなりますよ」
「結構大雑把やな。ま、それくらい肩の力抜いた方が楽なんやろけど」
ふむ、と心中で唸る。
心のわだかまりが消えた訳では無い。けれども、順四朗の顔はすっきりとしていた。
結婚という人生の転機を前に、神経質になっていたのかもしれない。問題が解決した訳では無いが、そもそも問題ですらなかったのではなかろうか。
「誰かと一緒になって自分が変わるくらいなら、所詮そこまでゆうことなんやろな」
「それはそれで悪くない気もしますがね。自分は自分である一方、他人の影響を受けて変わるのも確かに自分なんですから」
「受け入れるより他に無しやな。どっちにしても、命あっての物種には変わりないけど」
僅かに順四朗の声音が低くなる。
「......貴官、任務の事を仰ってますか」
それを認め、角谷中佐も姿勢を正した。
「わざわざ東京から、あんたを借りなあかんような事態やからなあ。楽な任務にはならへんで」
「大陸からの不法入国者の成れの果て、でしたかね。奴ら、加減を知らない分だけ始末が悪いらしい」
「ああ。切った張ったは避けられんわ。斬り込むんは任せてもろてええ。代わりに、後方支援は任せるで」
「無論。小官のウィンチェスターならば、何者であれ恐れるに足らず」
酷薄な色を瞳に浮かべ、角谷中佐が言い切る。それを受けた順四朗もまた、飄々とした雰囲気の中に微かに鋭さを滲ませた。
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"結局、明確な答えは見つからへんままか"
順四朗は一人歩く。店を出て角谷中佐と別れた後は、ただ帰るのみである。
北新地の喧騒を抜ければ、ここら辺りは既に暗く静かだ。東京よりも市街地は広がっていない。
"いや、それでもええんかな"
夫婦になるという意味を考え、迷う事も、結婚の一部なのだろう。それを選んだ自分の気持ちも、嘘ではない。
結婚相手の女性は、剣術しか取り柄の無い自分を確かに認めてくれた。それを感謝する気持ちも、また嘘ではあるまい。
ならば、このまま行けばよい。
元より考えるより行動する方が、自分には合っている。人生そのものを切り開くだけの努力くらいは、十分にしてきたつもりだ。
そこまで安くは無いと断じた時、不意に一つの思い出が甦る。
「いつやったか、ヘレナ隊長ともこんな事話した気がするなあ。あの人、元気にしとんやろか」
ぽつりと呟き、順四朗は空を見上げた。
宵の風がゆるりと吹いて、剣士の酔いを夜の底へと運んでいった。
表記変更しました。大坂から大阪へ。




